第8話 夜桜
病院、と名のつく建物に入ったのは、いつぶりだろうか、と悠真は思った。
漂う緊張感。厭わしく、不安にさせる空気。
少女_夏季が案内してくれた病室。
そこには、間違いなく『大森彩佳』と書かれていた。
高鳴る鼓動を宥めながら、恐る恐るカーテンを開ける。
そこには、やっぱり。
「悠くん・・・」
「彩佳」
彩佳の目から、涙が零れて。
それを隠すように、君は顔を手で覆って。
震えた声が漏れる。
「なんで、来たの?」
「なんでって・・・会いたかったからだよ」
「あたし・・・もうすぐ死んじゃうみたいなんだよ。一生懸命あたしなりに、お別れしたつもりだったのに。また、泣きたくないの・・・」
「あんなので最後のお別れって言えるかよ」
「悠くん、怒ってるの?」
「当り前だろ」
いじけたように言うと、君は閑雅に微笑む。
どこか痛ましいその笑顔に、悠真はそっと近づいた。
唇が触れあう、直前。
「やっと…思い出したんだね?」
長く甘いキスの後、その言葉の意味を、悠真は驚愕しながら考える。
「君は、覚えてたんだ?」
「当り前でしょ。なんのために病院抜け出させてもらったと思ってんの。ほんとはダメだったんだけど、あたしが無理言ってお願いしたんだよ・・・あの学校に、悠くんがいるってわかって。どうしても逢いたかった・・・」
彩佳が平静な笑みを見せて。
その瞳は潤んでいて。
悠真もつられて泣きそうになるのを必死に堪えて。
外はもう闇だった。
時間的には夕方なのだが、まだ春になるまで、暗い。
ただでさえ抜け出してきたのが学校終了のホームルーム前だったのだ。
もうちょっと我慢すればいいのに、と呆れられていることだろう。
「悠くん、随分普通にサボれるようになったじゃない?」
「君のおかげで身についたスキルだ」
「ふふっ。あたしも、楽しかったよ。ああ・・・紅葉、きれいだったね。桜も・・・見たかったなぁ、悠くんと一緒に」
彩佳がどこか謳うように言い。
すると、ずっと見守るように見ていたナースさんが言ったのだ。
外に出てもいいよ、と。
***
彼女の車いすを押し、外に出る。
彼女の表情はよく見えない。
あまりにも周りが暗かった。
でもそれでもいい。
確かに、今二人はここに存在しているのだから。
3月上旬。
きょうは、曇っている。
桜の木の下で、悠真たちは無言で見つめあった。
「夜桜、だね・・・夜ではないんだけど」
「きれいだよ、すごく」
「さくら、まだ咲いてないよ」
「咲いてる。きっと、咲いてる」
「ふふっ・・・、、・・・ぅ、う、ひっく・・・ぐすっ・・・ご、ごめ、んね・・・悠くん」
「なにがだよ」
「約束、あたし、結局守れな、かったね。ずっと隣にいるって、言ったのにね、あたし。最後まで隣にいてくれたのは、悠くんだね」
息が詰まる。
車いすの脇をぎゅっと握りしめる。
「そんな・・・僕がこんな風に変われたのは、君のおかげなんだ、彩佳。影の僕に、光をくれたのは君なんだ」
「そんなことないよ、悠くん。あたしに付き合ってくれた悠くんはやさしいよね。わがままなのに、ただの・・・いつか消えるあたしの・・・」
「そんなこと言うな!」
声を荒げると、彩佳が体をぴくりと震わせる。
だが、彼女は悠真の頭をそっと引き寄せて、囁く。
「ねえ・・・悠くん、好きだよ。あのときから、ずっと。不思議だよね・・・どうしてあたし、あの時出会ったんだっけ・・・」
「あやか」
涙が溢れる。
温かいのに。
今自分を包んでいる温かさが、もうすぐ消えてしまうかもしれない。
怖い。恐ろしい。
「ああ、泣かないで、悠くん。こんなにも夜桜がきれいなんだよ。あたしの目には、ちゃんと咲いて見える・・・きっと、君がいるからだね?」
「僕は、君がいなかったら、やっていけない。君の存在が、大きくなりすぎて・・・やっと、会えたのに・・・もう、お別れなのか・・・?」
「ううん、お別れじゃないよ。あたし、なぜだか死ぬのは恐くない・・・。悠くんの心に、居続けられるのなら」
「彩佳・・・行かないでくれ、、お願いだから・・・」
「行かないって。ほら、上を見て」
言われるがままに空を見上げると。
ぼやけた視界の中、無数の光が瞬いて。
流れ星が、ひとつぶ流れ落ちた。
「ねえ、あたし、一回も聞いてないよ。悠くんにとって、あたしは何だったの?」
静寂。
星だけが、静かに瞬く。
君の顔もよく見えない。
だが、確かに存在している。
淡い命を溶かして、生きている。
「愛してたよ、ずっと・・・彩佳」
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