第62話/裏 死への競争。
雷。
古くよりそれは大自然の怒りだったし、神話の時代には神の権能、裁きとされた。神威を示すものとして、信仰の対象とさえなったのだ。
確か中国では、雷鳴は天の声だと聞いたことがある。良い内容か悪い内容かはともかく、地に住むちっぽけな人間へ向けた天からの語り口なのであると。
なら、世界を割る程の衝撃の具現に雷が使われるのは、寧ろ当然でさえある。問題があるとすれば、それは、人の身体など容易く引き裂いてしまうということか。
「普通直撃しませんからね。いや、遊撃雷でも死ねますけど」
「雷に打たれた人で、生存者って結構多いらしいけどね。体表を電流が流れるだけなら、なんとかなるらしいし」
衝撃で十メートル吹き飛ぶかもしれないが。
しかし今回、その心配は要らないだろう。
僕が目覚めたとき、水そのものの感触はほとんど無かった。恐らくは、衝撃そのものに対して触れたと認識することが、目覚める鍵となっているのだろう。
多分。
「だろう、とか、恐らくとか多分とか、どうしても不確定な話になるけれどね。こればかりは仕方がない。何せ、人類未体験の試みだ。体系化して分析するにはサンプルが足りないよ」
「雷と同じですね」
「え?」
「雷に打たれた人の内、生存者であっても殆どの人が三ヶ月以内に死ぬそうです。何故だと思いますか?」
「え、後遺症とか?」
「周囲の無理解です。雷に打たれた人間の後遺症が良く解らず、それへの対処法も勿論解らず。そうして彼らは心を病んで、自殺してしまったのですよ」
「…………」
「雷は、電子的には地上から天へと走るものだそうですね。だとしたら――打たれたときに、彼らは魂も天へと運ばれてしまったのかもしれませんね」
「それ、今しなきゃいけない話だった?」
「雷が落ちやすいのは、広いところか高いところです」
「高いところっていうのは解るけれど、広いところか。それは知らなかったなぁ」
「範囲を広く捉える方が、落ちる可能性が高まるでしょう?」
「詐欺みたいな考え方だね」
「冗談です」
冗談かよ。
表情が常に笑顔だから、解りにくいんだよねこの子の冗談は。
まあ、気分が良くなったのならそれに越したことはない。さっきのは本当に、幽霊でも見たかのようなリアクションだったし。
……何を思ったのかは、聞かないことにする。回復したとはいえまだまだ顔は青白いし、悪くなっても困る。
怪物の対処で手一杯だ、騙し騙しの運用は好ましくないが、あと少し堪えれば良いだけだからもういい筈だ。根本的な治療は、戻ってから誰かに頼めば良い。
僕は、あくまでも彼女の意識に勝たせれば良いだけだ。
その結果僕は消えるのだろうが、気にすることはない。これは彼女の身体を生かすための手術なのだから、今の僕が死ぬことくらい大した問題じゃあないのだ。
「広いところだと校庭かな?」
「そうですね、けれど、それは無理でしょうね」
「え?」
窓際に立つ彼女が肩を竦める。僕も近付いて、窓から校庭を見て、唖然とした。
眼下には、赤い海が拡がっていた。
校庭どころの話ではない。文字通り見渡す限り、世界の果てまで赤い海が延々と続いていたのである。
そう言えばここで、外を見ようとしたことは無かったけれど。
元からこれだったわけでは、多分あるまい。
その証拠に、彼女のいつもの笑みもひきつっている。肌も、心なしか青白さが増した気がする。
「まあ、手術中に電気ショックを行うなら、その前に、更なる輸血をするのも頷けますね」
「……そうか、あの怪物は、輸血に伴う意識の欠片の集合体。輸血される量が増えれば、彼らも増えるのか」
そしてそれは詰まり、現実において彼女の状態が危険であるということでもある。
一刻も早く、戻らなくては。
「屋上ってあるかな?」
「えぇ、あると思います。何しろ、私の記憶ですから」
意味ありげな、彼女の言葉。
それに眉をひそめるよりも早く、彼方ちゃんは僕の手をとった。
「さあ、急ぎましょう、先生。
「う、うん……」
さっきとは逆に、彼女が僕を引っ張るようにしてドアへと向かう。早く早くと親を急かす、無邪気な子供のように笑いながら、僕を仰ぎ見ている。
……果たして、その瞳は本当に笑っていただろうか。
有無を言わせないその強引さを、生存への前向きさだと僕は、致命的に勘違いしていた。
廊下はひっそりとしていた。怪物の足音も、窓を叩く音も、その主の姿もない。
僕らを見失った怪物は、そのままどこかへ行ってしまったのだろう。それとももしかして、あの海に溶けたか。
いずれにしろ、居ないのならば申し分無い。これが悪夢とはいえ夢である以上は怪物を殺し尽くす必要などなく、僕らはさっさと目覚めれば良い。
「……怪物も、同じことを願ったのかも」
「え?」
「僕らを狩り殺すことも勿論考えてはいるだろうけれど、何よりアイツ、外に出ようとしてるんじゃないかな?」
あのぐちゃぐちゃの具無しスープがどの程度理性的な思考回路を持っているかは解らないが、本能と衝動任せの愚者では無いことは、僕だって身に染みている。
挟み撃ちをしたり、騙し討ちをしたり。
僕らを狩るためのやり口は、中々に悪辣だ。
だとすると、この
「……急ごう、遅れをとって外にやつを出すわけにはいかない」
「そうですね」
歩き出した僕らの足元で、床板がギチュッと湿った音を立てる。
怪物の這った痕だろうか、木製の床は過剰な湿り気を帯びている。木は水を吸うから、仕方がないが。
「…………成る程ね」
足音は、しなかった。
そして板は水を吸い取り、蓄える。
廊下は、湿っている。
「それは禁じ手だって言っただろ……?」
「先生?」
「床板は湿ってる、中に水分が入ってるからだ。ところで、彼方ちゃん。怪物の主成分は何だった?」
音などする筈もない。
怪物は、そこで静かに待っていた。
足元で、何かが動いた。
波が引くように床板の中から水分が集まり、僕らの背後へと流れていく。
見上げると、天井の表面を赤い幕が滑っていくのが良く解った。その流れを追うように僕らは振り返り、そして、怪物が立ち上がるのを見た。
奇妙な逆再生の映像みたいだった。溢れた水がするするとこっぷのなかへ戻り、やがて並々と注がれたコップが起立する。
それよりも、僕
ターミネーター2みたいだった。
怪物は薄く全身を広げていて、僕らがそれを踏むのを待っていたのだろう。
食虫植物のようだ、僕は苦笑しながら肩を竦める。
「僕らは、虎の尾を踏んだらしいね」
人の形をとった怪物が、大きく両手を広げる。それがなにか合図だったのか、吠えるように口を大きく開けた彼の足元から赤い水が噴水のように沸き上がった。
生み出された赤い壁。その向こうで怪物が、指揮者のように派手に両の手を打ち振るい。
ダムの放水のように苛烈な勢いで、赤い水が襲い掛かってきた。
廊下を覆い尽くす波。その端々から幾本もの腕が生えてきた瞬間、彼方ちゃんが短い悲鳴を上げた。
一塊の赤い波は、何十本もの細い腕が絡み合って出来たものらしい。前進しながらほどけて、床を、壁を天井を、真っ赤な腕が這い寄ってくる。実に精神に良くない、不気味な光景である。
夢じゃなければ、夢に出そうだ。
僕は舌打ちすると、彼方ちゃんの手を引いた。
細い手がビクッと震え、彼方ちゃんの顔に血気が戻った。良し、と頷いて、僕らは走り出す。
「行くぞ、屋上だ!」
「は、はい!」
ベチャベチャベチャベチャベチャ、絞ってないモップを叩きつけるような音が、背後から殺到する。
何度も、何度も。
その度に数を増しながら。
「…………すっかり、忘れてたよ。あいつは、片手間でも僕らを殺せる」
「上手いこと言ってる場合ですか?!」
「口寂しくてね!」
廊下を駆け抜け、階段へ。
着いた瞬間、僕は先程の会話が無意味だったと知ることになった。
降りるか登るか選べるほど、僕らは主導権を握ってはいなかったのだ。
下り階段は、既に沈んでいた。
「
「余裕がおありのようで、何よりですね!!」
「人生に何より大切なものはゆとりだからね」
「今は違います!」
選択肢もくそもない、僕らは登り階段に踏み入った。
そうでない選択肢は、即ち自殺なのだが。
そっちの方がましかもしれないよと、誰かが囁いた気がした。
この先に行けば、間違いなく死ぬよと言うような声だ。
ちらり、と僕は、
ほんの一瞬、階段に片足を掛けた刹那の時間。
僕は、ニヤリと笑う。あぁ、君だったか。
まあ、予想の範疇だ。僕の死が確定することを嘆くのは、この世でただ一人きりなのだから。
訳知り顔で頷いて階段を登る。その横、下り階段、赤い海の底で、白いワンピースの少女が悲しそうに漂っていた。
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