第63話/裏 空へ。
走る、走る、走る。
こんな時こそ飛べれば良いと思う反面、飛んだら壁や床にぶつかりそうだとも思う。狭い廊下でラジコンヘリを飛ばすのは、よほど腕に自信があるやつか、ラジコンに思い入れのないやつだけだ。
僕はまぁ、思い入れはないけれど。
自信という感情からは縁遠い男だ。
それに、空を飛ぶなんて反則をした場合の怪物が気になる。
それがアリだと世界に宣言してしまったら。
怪物だって、飛びかねない。
したことは、返ってくるものだ。それも、一番最悪のタイミングで。
だから、走る。吸い込む酸素の全て、足を動かす力に変える。
全力を費やさなければ無理だと、僕らは打ち合わせたように知っていた。だから黙って、ただ階段を登る。
上へ、上へ。
荒れ狂う雷天へと。
道は知らないが、解っている。屋上へ続く階段やドアを探すとか、そんな必要は無い。
だって、ここは彼女の世界。
僕には出来なかったけれど、彼女なら出来る。望む道を、造り出すことが。
そして、やはり。
辿り着いた三階の階段、僕らが最初に降りたその階段の先には、登り階段が現れていた。
確かに、何も無かったのに。
最初からそこにあったかのような当たり前の態度で、階段は僕らを待っていた。
そして、あぁ。
白い服の少女。
『どうしても、いくの?』
頭に響く声に、僕は頷く。
あぁ、勿論。
『いけばしぬ』
消えるだけさ。
本当は無かった筈の、無意味な幻想が、沫のように消えるだけ。あるべき場所に帰るだけだよ。
『そうじゃない、あなたはしっているでしょう?』
そうなんだよ、知ってるだろう?
君は賢い子だ。頭も良いし、何より、目の背け方を知っている。
『またわたしは、たいせつなものをうしなうわ。わたしがみえなくなったように』
そうだね、でも、彼女は君を捨てた訳じゃない。仕舞い込んでいただけさ、だから、ここにいる。
夢見る君、幼い記憶。感情の彼方ちゃん。
『どうしても、いくの?』
行くよ。大事なものが、この先にあるんだ。
『そう、なら、もうとめない。さようなら、あなたはきっと、つらいおもいをすることになるわ。……せんせい』
「っ……」
閃光が意識を焼いた。瞬きするほどの間をおいて、雷鳴が大地を震わせる。
一瞬、いや、それよりもっと短い刹那の会合だった。
僕の身体は頓着せず、流れるように走り続けている。手を繋いだ彼女も、同じように着いてくる。
今のは、彼女の記憶。
僕にとっては久野がそうだったように、人間の心には絶対に誰かがいる。大切な誰か、大事な人。
第三者的な、自分とは考え方の違う別人が心に居なくては、バランスはとれないものだ。天使と悪魔のように、ジキルとハイドのように、白鳥と黒鳥のように。
理性と、そして感情のように。
それは、真なる誰かではない。僕があの世界で再現した久野が、本来の久野とは異なるように、自分の別人格に仮面を被せるのだ。
彼女には、その誰かが居なかった。
手本とするべき人格が、周囲には居なかったのだ。何しろ、彼女にとっては世界全てが宇宙人なのだから、仕方がない。
だから、彼女が生まれた。
夢で見た、彼女が産まれたときには、父親も母親も宇宙人ではなく人の顔をしていた。
年月を経て成長するにつれ、彼は娘の才能に怯えてしまったのかもしれないが、しかしだからこそ、彼方ちゃんはこう思った筈だ。
幼いときの自分なら、周りの皆に愛されると。
無垢で無知で、純真で儚かった、少女らしい少女の頃なら、きっと受け入れてもらえたのだと。
彼女にとっての
だって彼女には、他に誰もいなかったから。
鏡に映った自分しか、他人の目に入る自分しか、彼女は人間を知らなかった。
もしも誰かがいたのなら。
僕のように、一人の人間として生み出せるほどに理解し会える相手がいたのなら。
空だって、飛ばずに済んだのに。
……それも、もう終わる。
きっと、大丈夫。飛んでしまった彼女のことを、世間は優しく受け入れてくれる。少なくとも、その姿勢だけは見せてくれるだろう。
それに、僕。
頼りなくちっぽけな僕だけど、それでも、自分のために命を懸けようとする誰かが居る、居たという事実は、きっと助けになる筈だ。
未来はきっと明るい。
さあ、未来へのドアを開こう。
僕らは階段を登りきり、屋上へのドアを押し開いた。
僕は勢い良く屋上へ転がり出ると、ドアを閉じる。
彼方ちゃんは荒い息を吐きながら、地面にへたり込んでいる。ホッと息を吐きながら視線をドアの方へ戻すと、たった今くぐってきた筈のドアは跡形もなくなっていた。
元から無かったかのように、影も形も消え失せている。
彼女が、消したのだろう――どちらの彼女かは解らないけれど。コンクリートの床に座り込んでぜえぜえと喘ぐ彼女か、それとも。
「……そうだ、雨!」
今更ながら、僕はハッとして空を見上げる。
黒く分厚い雲には覆われているが、幸い雨は降り止んでいた。
思えば、少し前から降っていなかったような気もする。寧ろ湧き水のように、世界の底からにじみ出てきていたようだ。
にじみ出て、そしてやがて呑み込んだ。世界は今や、風前の灯である。
「足元も濡れてないし、安全だね。コンクリートだから染み込むこともないし」
ふと、違和感が僕を襲った。
三人だけの旅行で撮った中に、三人が映った写真があったときのような、あり得ない、あってはならないものを見たときの、背中を冷たい風が吹き抜けるあの感覚。
何かが、おかしい。
「…………一秒もない」
「え?」
彼方ちゃんの声に、僕は現実に引き戻される。「なんだい、彼方ちゃん?」
「雷光と雷鳴の感覚ですよ。先生も子供の頃やりませんでしたか? 秒数で、何メートル離れているかおおよそ計れるでしょう?」
言われてみれば、そんなことをした記憶もある。音は秒速三百メートルちょっとで光より遅いからなんちゃらかんちゃらと。
気にしてみると、確かに、空を裂く閃光と続く重低音との間には、ほとんど間がない。
近いのだろう、というよりそもそも、見上げた直ぐ真上の空には、何度も稲光が瞬いている。世界を割る雷は、既に間近へと迫っているようだ。
「あとは、避雷針でもあれば完璧だね。細くて、長くて、鋭いやつ」
「……あれみたいな?」
「ん、ああそうそう、あれみたいな……え」
彼方ちゃんの指した先を見て、僕は頷く。
頷いて、そして、大きく口を開けた。
いつの間にか屋上の縁に立った彼女が指し示したその先では、深紅の塔が出来上がりつつあった。
素材も、建設会社も問うまでもない。
世界を沈めた怪物が校庭の真ん中で噴水のように吹き上がり、天高く伸び上がったのである。
僕らを追い掛けていた腕などものの数でないくらい、無限といっても過言でないくらいの数の腕が絡み合って、組み合わせって、一つの巨大な腕を造り上げていた。
巨大な腕が、待ちきれないとばかりに指を広げ、誕生の雷を自ら掴み取ろうと上へ、空へと伸びていく。
僕らよりも、遥かに高い位置まで。
「血でしたよね?」
「え?」
「怪物の中身です。知っていますか? 血には鉄分があります。あの怪物がどこまで考えているのかは解りませんが、含まれる鉄分をあの腕に集めているのなら、あれは立派に、避雷針の役割を果たすでしょう」
「それは不味いね」
どう考えても、怪物はその辺の悪知恵は回るタイプだ。
高さと成分で、怪物は僕らに先んじた。落雷に人情が無い限り、ゼウスは怪物にその槍を振り下ろすだろう。
僕は、静かにため息を吐いた。
「いいえ」
それでも。
僕より遥かに賢く、事態を把握して未来を予見した筈の彼女は。
凛として、言い切った。
「まだ手はありますよ、先生」
「彼方ちゃん?」
「怪物は、あくまでも怪物。本能で行動しています。狩猟本能か生存本能か、或いは帰巣本能かは知りませんが、しかし、彼は本能的です」
「彼方ちゃん? ちょっと待って、君は、何を考えてる?」
彼女は、いつの間にか屋上の縁に立っている。
僕からは、一メートルは間が空いている。
悪い予感がする。
だって、ほら。
彼女は笑っている。
「餌ですよ、先生。怪物は所詮怪物。目の前に肉をぶら下げれたら、そっちに走り込む」
「ナイスアイディアと言いたいところだけど、彼方ちゃん。その前に少し、話し合う必要があるよね?」
「うふふ、そんな間は在りません。気が付いている筈です、先生。雷雲はもう目前、いつ道が開いても、おかしくはないと」
「その道は、君のための道だ」
僕は必死に舌を踊らせる。「これは君の手術なんだよ、彼方ちゃん。君の身体を生かすための手術だ、君は助かるんだ、彼方ちゃん!」
「生き方にも、死に方にも。好ましい好ましくないがありますよ先生」
駆け寄ろうとする僕を牽制するように腕を広げながら、彼方ちゃんは微笑んだ。
あぁ、と僕は理解した。漸く、今更ながら、理解してしまった。
彼女は、気付いている。
「ここは、あの時の屋上です」
木造校舎の上にある、コンクリート製の床を示しながら、彼女はそう断言したのだ。
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