第61話/裏 出口の欠片。
階段を、駆け降りる。
繋いだ手がほどけないように、彼女が着いてこられるように、けれども速度を落とさないように。
でないと、僕でない奴と手を繋ぐことになる。
「奴等、窓を割って入ろうとしているようだったね。君が開けたドアを閉め忘れる人間でないと良いんだけれどね!」
「そんなわけ、ないでしょう? ここが深層心理なら、窓は心の解放部です。私が、開放的な女に見えますか?」
「ノーコメント」
だとすると、ひょいと入り込まれる心配はなさそうだ。
しかし、入ろうとする輩は何がなんでも入るものだ。薄いガラス板は、それを無限に拒み続けられるわけではない。ほら、今も何処かで音がする、パリン、パリン。
「悪趣味な独り言は止めてください」
「いずれにしろ、時間の問題だよ。その前に、見付けないと」
「見付ける、ですか? 何を?」
「水面をさ」
階段を降りきって、一階に降り立つ。さて、何処にあるか。
右には廊下、左にも廊下。そのどちらにも窓が並んでいて、同じように教室がいくつか並んでいる。どれか覗いてみるべきか、それとも、他所を探すか。
残る正面にはあるのは。
「……不味い」
「え、せん、せい? 何が?」
「君が鍵を掛け忘れるタイプじゃない、謹み深い女性だとして。それでも、ここがここである限り開いている場所があるんだ」
そうだ。
ここは、彼女の認識によって作られたこの世界は、時代はともかく学校の体を成している。それなら、彼処だけは不味い。
それは、絶対に一階にある。
それは、間違いなく二つはある。
それは、ほとんどいつでも開いている。
そこを通る者は無垢なる者。
純粋にして、清廉潔白ではなくとも邪悪にも成りきらない者。
即ち、子供たち。
トン、と軽い音が前方から聞こえてくる。
トン、トン、トン、とリズミカルに続く音は、足音だ。
一人分のそれは、やがて重なる。
一つが二つに、二つが四つに。八つを超えた辺りで、数えるのを止める。無意味な行動だ、あれは、多分百人の犠牲者たちだ。
かつて、怪物が呑み込んだ者たち。
僕の記憶の隅に居た彼ら、輸血用の血液に残された思いの欠片。
今や、彼らは葬列に加わった。そして、更なる道連れを求めている。
「学校の玄関は、開いているものだよね」
苦々しい呟きが、果たして彼女の耳に届いたかどうか。
折り重なる足音は最早、轟音と化している。先程から空で鳴り響く雷音が、どこか遠く感じるほどに騒々しい。
音の雪崩は、やがて目の前に肉をもって現れる。いや、彼らには最早、肉なんか無い。身体にも、心にも温もりはない。
だから、それを求める。
隣で、少女が息を呑む音が聞こえてくる。いや、これは、僕の喉か?どちらだとしても、恥ずかしい状況じゃあない。
誰だって息くらい呑むさ、例えば――真っ赤な血が不細工な人間擬きが百人、廊下の向こうから現れたら。
子供が赤いクレヨンを使って、適当に人の形に
塗り潰したような不格好さだ。それが、なおのこと不気味さを掻き立てる。
加えて、そいつののっぺらぼうがニヤリと笑ったりしたら。
「……こっちは通行止めだ、戻るよ、彼方ちゃん。……彼方ちゃん?」
「あ、あぁ、ああああああああ……」
彼女の、黒曜石みたいな瞳は光を失い、見開かれたまま虚空を眺めている。
だらしなく開かれた口から呻き声を垂らす姿は、いつも冷静な彼女らしからぬ醜態。
いったい、どうしたというのか。いくら不気味な人形擬きを見たといっても、これはあまりにも……。
「彼方ちゃん、聞いて、このままじゃ不味い。早く起きて、走るんだ」
「うああああああああ……」
「くそっ……」
僕の言葉など耳に入らないかのように、彼女は呻き続けている。止める様子も、動き出す予兆も無い。……手だけはしっかりと繋いでいるのは、微笑ましいような迷惑なような。
いずれにしろ、彼女を見捨てる訳にはいかない。彼女の小柄な身体を抱え上げると、僕は来た道を逆に引き返し始めた。
彼方の脳裏には、深い深い傷がある。
過去の記憶、苦痛の記憶だ。他人に傷つけられ、虐げられ、嘲笑われた過去の記憶。
きっと、誰にでも多かれ少なかれそんな傷はある。心の引き出しの奥底に仕舞われた鍵を、決められた手順でしか開かない鍵穴に差し込む、それでようやく開いた先に、誰もが大事に仕舞い込んでいる。
良いものを隠すときも、嫌なものを忘れるときも、処方は同じ。奥へ奥へと封じるだけだ。
封じて、そうして、時間と共に封じたことさえ忘れていく。時たまうっかり腐った床板を踏み抜いて、忘れられた秘密を掘り起こす事こそあるだろうが、大体はそうして、傷は風化していく。
与えた者も、与えられた者も、等しく時間の彼方に押し流されていくものだ。
彼女の卓越した頭脳は、それを許さなかった。
忘れるという防衛機能を、働かせることが出来なかった。
傷は常に心の中にあり。
痛みは、鼓動と共に全身を駆け巡っていた。
それが、今、記憶と同じような光景に閃光のように舞い戻った。下駄箱に立ち並ぶ大勢の人影は、彼女の記憶と合致していたのだ。
あの日の記憶、クラスの人間に殴られて、初めて迫害を自覚したあの日。
ヒリヒリと焼けつくように痛む頬を、自失と共に引き摺りながら、惰性で訪れた帰り道。
『……え』
辿り着いた玄関で、自分の下駄箱の前に集まったクラスメートたち。
一斉に振り返った彼らは、いつもと変わらぬ笑顔を浮かべて振り返った。
その手には、見慣れた自分の靴。
彼らはニヤニヤと笑ったまま、その靴を手近なごみ箱へ叩き込んだ。
『なにみてんだよ』
突然の凶行に唖然としていた彼女に、彼らは笑いながら言った。
『ここには、おまえのみかたなんていないんだぜ』
あぁ、そうか。
笑い声も高らかに、誇らしげに立ち去った彼らを見送って、ごみ箱から靴を拾い上げた彼方は、ようやく理解した。
ここは、彼らの世界なのだ。
私の居場所は、何処にもなかったのだと。
「あぁくそ、下は下だったなやっぱり!!」
「ぁぁぁ…」
腕の中の彼女は、然して重荷にはならない。
ひどく細いし、軽い。
この痩せっぽっちの身体の何処に、あんな知識や知恵や、絶望を溜め込んでいたのだろうか。
「彼女が身軽だったら、空くらい飛べたのかもね……」
少なくとも大人よりは、荷物は少ない。軽ければ飛べるというものでもないだろうけれど、彼女は、子供にしては荷物を持ちすぎた。
今だって、そうだ。
きっと、なにか僕には理解できないようなトラウマでも刺激されたのだろう。ほんの一時とはいえ、何も出来なくなるような辛いトラウマを。
「…………さて、どうするか」
階下からの行進は、早くはないがけして遅くならない。ゾンビの強みは無限の体力だ、奴等は眠ることも休むこともなく、永遠に僕らを追い続けることが出来る。
対して僕は、体力の無さにかけてはそれなりの順位にいる。荷物を抱えてなら、世界を狙えるレベルの体力の低さである。
加えて、脅威は下ばかりではない。
見上げた三階では、チャリチャリという音が響き渡っている。
割れたガラスの上を、無神経な誰かが歩いているような音だ。しかも、複数人で。
窓の向こうに居た手形たちは、首尾良く侵入を果たしたらしい。連携は取れていないようだが、僕らが三階に颯爽と現れれば喜んで襲いかかってくるだろう。
残るは、二階か。
覗いてみると音もしなければ、窓ガラスの割れも無し。奴等はせっかちに、二階を追い越して一階に向かったのだろう。
「……っ!?」
足音に振り返ると、階段下、踊り場に奴等が見えた。
並んだ不気味な人形たちが揃って顔を挙げ、見えもしない僕らを見上げている。そして、くそ、笑いやがった。
「あぁ、不味いぞ、不味い不味い不味いっ!!」
僕は振り返ると、二階の廊下へ駆け込む。一瞬だけ遅れて、怪物たちも階段を駆け登ってきた。
一段飛ばしで十二段の階段を登りきり、廊下に到達する。
真っ直ぐ広がる直線の廊下には――誰の姿もない。
それでも、彼らは愚直にもそのまま走り続ける。廊下の先へ、そこから続く更なる階段へと殺到していく。
手前の教室に逃げ込んだ、僕らのことには気付きもせずに。
「……ふう」
身動ぎせず、物音も立てないよう気を配ったお陰だろう。ドアの前を素通りしていく足音に、僕は安堵の息を溢した。
これで、暫くは大丈夫だ。
「あとは、ここにあれば良いんだけれどね……。こんな木造校舎では望み薄かな?」
「何がですか?」
「うわっ!?」
近くの椅子に座らせていた少女の突然の質問に、僕は思わず飛び上がって驚いた。
振り返ると、呆れたような彼方ちゃんの視線と出会う。
「それほど驚くようなことでもないでしょう、先生。あれほどの怪物をやり過ごした方にしては、少々過剰なリアクションですよ」
「空気っていうのがあるんだ彼方ちゃん。今は、君が話す空気じゃなかったのさ」
そうですか、と頷く彼女の態度には、どこか覇気がない。
僕はそっと彼女に近付くと、座る椅子の前でひざまずいて高さを合わせた。
「……大丈夫かい?」
「確かに無様を晒しましたけれど。その事については謝罪しますが、しかし、薄情な言葉だとは思いませんか?」
「そうだね、悪い」
「……大丈夫です、先生。ここは、私の記憶を嫌な方に刺激してきます。私にとって心安らぐときは先生との対話でしたが、どうせなら舞台を変えるべきでしたね。ここでは、私にとって痛みを覚えるような眺めしかない」
「それを、君が望んだのかもしれないね」
多くの宗教において、自殺は罪だ。
宗教に関係なく、己の生命を絶つという行為になんの感情も抱かない人間はいない。良くも悪くも、自殺は特別なことなのだ。
それを為した彼女の意識が、無意識で裁きを求めていたとしても僕は驚かない。
彼女は苦笑する。「デリカシーに欠ける発言ですね」
「そうかな」
「それより、何を探しているのですか?」じろりと、彼女は不機嫌な目線を向けてくる。「先程ははぐらかされましたけれど」
「はぐらかしたつもりはないのだけどね。うん、探しているのは単純に、コンセントだよ」
「コンセント? コンセントって、あの、私も知っているコンセントですか? この世界の危機をいくつも乗り越えた先生しか解らないような隠語ではなく?」
「その通り、あのコンセントさ、コードを差し込む豚の鼻みたいなあれさ」
僕が僕の世界からこっちに来るとき、水面を突き抜けた。
その時、こっちで僕は、彼女に水を掛けられていた――茶色くて少しベトベトする水を、顔面にだ。
水を掛けられ目覚めた僕。
水を突き抜け、目覚めた僕。
ここになんの関係もないと思うほど、僕は鈍感ではない。
「先生は鈍感ですけれど、しかし、それとコンセントにどのような関係があるのですか?」
「……詰まりね、僕が思うに、外部からもたらされる覚醒のための刺激が、こちらにも形を変えて現れているのではないかということだよ」
そして、外で僕らは何をされているか。
それは勿論、飛び降り自殺をして、何か
では、これほど危険な状態において、手術中に行われる事は何か。
「……蘇生措置、電気ショックですか!」
「そういうことだ」
目覚めさせるための医学的処置。
薬という可能性もあるが、刺激という意味で最も一般的なものはやはり電気ショックだろう。
確実にそれは行われている。なら、どのような形でかは解らないが、この世界にもそれは確実にある。
電気と言えば電流、一先ずはコンセントと思ったのだが……。
「これだけレトロな建物だからね、あるかどうかは難しいな……彼方ちゃん、ここでなにか、思い当たる設備はないかな?」
「設備は、まるでありません。電化製品なんて、私は興味ありませんから。パソコンも携帯も、連絡を取る相手はいませんからね」
「寂しいことだね」
「……でも、思い当たる節はありますよ」
「え?」
「聞こえませんか?」
そう言って両手を広げる彼方ちゃん。
僕は怪訝さに顔をしかめながら、そっと耳をそばだてる。
そうして聞こえてくるのは、彷徨く怪物の足音、降り注ぐ怪物の雨、そして大分近くなってきた雷。
――雷。
「これは、まさか」
「えぇ、そうです。今日、普段と違う点は怪物以外では一つだけ、この嵐ですよ」
閃光が窓を貫き、数秒後、激しい雷音が鳴り響く。
光明が見えてきたようだ。いささか激しすぎる光ではあるが。
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