第53話/裏 表、研究所へ。
…………夢を、見ている。
その感覚は、僕にとって最早お馴染みだ。夢の中にこそ、僕の居場所はあったのだから。
舞台はいつもの、古い木造建築ではなかった。
というよりも、この世のどこともつかない場所だ。壁も床もない、ただただ暗闇に覆われただけの場所。
ついでに言えば、僕の身体も無い。ゲームやなんかで良くあるような、視界だけが存在している状況だ。
手抜きか、と久野なら言うだろう。僕としても、まあ同意見だ。或いは、デバックモードか。
いずれにしろ、この頃の現実と見間違う程にリアルな夢とは競べるべくもない。
どうしたのだろうか。僕の想像力もいよいよ限界か、それとも、本来の夢はこういうものなのだろうか。
暗闇の中に僕の意識だけがぽっかりと浮かんでいる。
いや――違った。
「…………」
暗闇に、人影が一つ浮かんでいる。
見たことの無い、初老の男性だ。
机、何処にでもあるようなスチールデスクで何か、書き物をしている。
気を配っているとは思えない無造作な白髪は厭世的で、銀縁の眼鏡が知的な雰囲気。足し合わせると、自室から出ずに顕微鏡ばかり覗いている学者、という印象が強い。
僕は、彼の横顔をじっと見ている。
机に向かう彼には、左手から見つめる僕の視線に気付いた様子はない。
一心不乱に書き物をする男を見るのが、今回の趣向なのだろうか。それは確かに、なかなか悪夢的ではあるが。
「…………心理とは」
不意に、男が口を開いた。
見た目通りにしゃがれた、見た目よりは熱意を帯びた声だった。
「【深層心理】という言葉にもある通り、意識は下に降りれば降りるほど深くなる。水は高いところから低きへと流れるものであるし、そも重力は人を下へ下へと招き、縛る」
僕に気付いているのだろうか、それとも、単なる独り言か。
僕の方へと向き直ろうともしないまま、彼の左側は延々と語り続ける。
「催眠療法などでも、この手法は用いられる。心の裡に秘めた隠された思いに向き合うために、被験者に階段を降りる想像をさせたり、或いは単純に、穴に飛び込ませたり。下へ降りることは、深みへと降りることだ。深淵に嵌まるということなのだ」
男が、椅子を引いた。
机から離れた男は、金属が軋むキイキイという耳障りな音を響かせながら、ゆっくりと身体を動かし始める。
キャスターが回り、彼が、僕の方へと向いていく。
「忘れるな、深淵から飛び立ちたいのなら、降りてはならん。登るのだ、上へ、高みへ。
…………でないと、こうなる」
男が、正面から僕を見た。
彼の右側は、何かに引きちぎられたように無くなっていた。
悲鳴は、どうにか出さずに済んだ。
まるで全力疾走したあとのように息が乱れていて、それどころではなかったのだ。
それでも、ひうっと思わず息を呑んでしまったのは仕方がないだろう。半分だけの男性に真正面から見つめられて、マトモな左目と断面を見て正気で居られる人間は元から正気ではないだけだ。
『津雲さん、大丈夫ですか?』
「えぇ」
耳からの声に、僕は大して考える間もなく頷いていた。
粉々に打ち砕いた窓から外へと飛び出した瞬間、意識は闇に飲まれていた。どうせ例の悪夢だと思っていたが、どうもそうではないらしい。
あれが、白沼博士か。
面識はないが、知り合いに左側だけの男性はちょっと居ない。
「ちょっとぼうっとしていただけです、大丈夫」
何か言っていたようだが、所詮はただの夢だ。少々刺激的ではあったが。
『なら良いのですが、気を付けて。もう研究所の前ですよ』
なるほど、どうりで息が上がっているわけだ。
いつの間にか、寮から研究所まで走ってきたらしい。行きにはかなり辛い思いをしたから、これはありがたい夢遊病である。
いや――そもそも。
僕は寮と研究所との道を歩いたことがあっただろうか?
僕は軽く首を振り、浮かんだ考えを追い出した。
自室でどっちのベッドで寝ていたか記憶に無くても、食事の記憶はあるのに味が思い出せなくとも。ここでの思い出にどれだけ瑕疵があっても関係ない。
所詮は、夢だ。
あとは目覚めるだけだ。
『怪物Bはどうです、ちゃんと追い掛けてきてますか?』
「えっと…………」僕は背後を見る。「ここからは見えません」
『ではモニターで。…………うん、付いてきてますね。まだ時間はありそうですが』
それは良かった。
ここからもう一度戻って「やあ間抜けな官権諸君、私はここだよ」と二十面相を演じるのも精神的には悪くはないが、体力的には御免だ。
「怪物Aの方は? エントランスに?」
『いえ、今は地下をうろうろとしていますよ。私の実験室を味見したいようですね』
地下。
地下か。
『とにかく中へ。エレベーターに乗ってください、怪物Bが来たらタイミングを合わせて地下に降りましょう。それで、全て終わる筈です』
降りるのか。下に。
瞬きをする。一瞬の視界の暗転の際に、白沼博士の左目が甦る。
――降りてはならん。登るのだ、上へ、高みへ。
『さあ、急いでください』
所長が開けたのだろう。ロックの解除されたドアを開けて、僕は研究所へと踏み込んだ。
光を反射して輝くリノリウムの床が出迎えてくれた。僕はそこを大股で渡り、既に来ていたエレベーターに乗り込んだ。
『では、準備を』
所長が何か操作したのだろう、僕が操作していないのに勝手にエレベーターのドアが閉まる。
『……何の真似ですか、津雲さん?』
「……一つ聞いても良いですか、所長」
ドアに手を挟んで閉まるのを阻止した僕は、通信機に声を掛けた。
再び開いたドアの先、エントランスの床は酷く綺麗だ。
怪物が暴れ回った筈なのに。
「良くご無事でしたね、山を削る怪物に襲われたのに?」
『津雲さん、怪物が来ます。早くドアを』
「それに、何より。久野の事を、どうして聞かないんですか?」
沈黙が下りる。
通信機からは、所長の落ち着いた呼吸音だけが聞こえてくる。
酷く静かで、長い沈黙の後。
『…………………………ふふ』
所長が、笑い出した。
あぁ、やっぱりか。
「いつから気が付いたんですか?」
『ここのことを? 山の事件でですよ。モニターには、周囲の景色が映っています。削られた山も、その跡に何があるかもね』
「何か見たんですか?」
『何も。怪物が喰い尽くした山の向こうには、何もなかったのです。
そこで、気が付いたんです。そもそもここはどこだ、自分はどうしてここにいるのか、まるで解らないということに。あとはまあ、想像力ですよ』
優れた想像力だ。きっと僕よりも、夢の主に向いているだろう。
「そうして地下へ運んで、怪物に喰わせようとしたんですね?」
『いいえ、そんなことは。だって……怪物Aは、もう死にましたから』
「なん、ですって?」
『貴方が悪いんですよ、津雲さん? 昔おまじないをしたときとか、教わったりしたときに、こう言われませんでしたか? 誰にも教えてはいけないよ、教えたら、魔法の力は無くなってしまうからと』
「まさか……」
『ふふ、はは、あはははははははは!
貴方が護符を見付けたその瞬間、怪物Aは消えたんですよ!! ガッカリですか、悲しいですか? ご安心下さい、代わりを用意してありますからね』
僕は、気が付いた。
僕らが逃げ込んだのは、食堂だ。
そこには何があった?
食堂で僕らを見失った怪物が探し回った結果、何を見付ける?
「排水口……!」
『
僕はドアから離れてモニターに向かった。エレベーターが地下ではなく最上階、屋上へ向かうように操作する。
見なくても解る、百人分の血液に戻った怪物は、自らが逃げ出した道筋を逆に辿り、廃水処理室へと到達しただろう。
そこから上に向かう道は二つ、階段か、或いはエレベーターシャフト。そして所長が僕を乗せようとしたのは、エレベーターである。
予定通り僕を乗せて、予定とは逆の方向へとエレベーターは飛び立った。
通信機の向こうでは、所長の笑い声が響いていた。いつまでも、いつまでも。
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