第54話/表 所長の動機・狂気。
「…………どうして、こんなことを? 所長さん、貴方は、ここの秘密に気が付いた筈だ」
問い掛けながらも、僕は答えを期待していたわけではなかった。
答えてくれるとは思っていない。通信機の向こうでは所長は相変わらず、ひたすら狂ったように笑い声を響かせている。
と言うより恐らくは、狂ったのだ。アリスの夢の登場人物である帽子屋のように、自分自身が他人の夢の中にいると気が付いて、誰が狂わずにいられるだろうか。
ただ、退屈だっただけだ。
エレベーターの中はいつもそうだ。例え怪物に追われていても乗った時点で僕に出来ることは何一つ無くなって、変化していく階層表示を見詰めるしかない。
そんな手持ち無沙汰な時間を何とかしたくて、それでふと口を突いてでただけの浅薄な質問に過ぎなかった。
『秘密、ですか』
だから、笑いが収まり、短いながらも返答が帰ってきたとき、僕はかなり驚いたのだ。
僕の驚きが伝わったのか、いや、エレベーターだから監視カメラで見ていられるのか、とにかく所長はおかしそうに笑った。
『もちろん、理解していますよ。学術的な好奇心がそそられる、とでも言えば満足ですか?』
「解っていて、何故こんなことを……?」
『動機の話ですか? 貴方に恨みがあったというだけの話でしょう。ちょっと特殊な状況ですが、復讐はそんなことを気にしないものでは?』
「復讐? 夢の中で、ですか?」
『夢? …………あぁ、もしかして。ここが貴方の夢の中だとでも思っているのですか?』
「え?」
呆然と、僕は天井の片隅に目を向ける。
一般的なエレベーターならお決まりの位置にあった監視カメラ。そこに、その向こうにいるであろう所長に疑問の目を向けたのだ。
いったい、どういうことだ。
ここは、僕の夢の中だ。僕の意識が作り出した仮想現実。言うなれば、僕の頭の中でのみ起こっているだけの事柄。
……では、無いのか。
僕が気にするのは、早く目覚めることだけじゃあないのか?
所長の笑い声に、憐れみが交じった。
『あらあらやっぱりですか。ふうん、ということは、いまいち記憶も戻っていないということですね? 復讐のしがいもない』
「記憶は、戻っています。僕は八年前に久野と事故を起こして、そして久野は死んだ」
『それはまた、中途半端なことですね。怒って良いやら喜んで良いやら微妙なところです。それではお聞きしますが。ここへどうして来たのか、覚えていますか?』
「それは……」
記憶の中を探るまでもない。
そんな記憶は存在しない。
例えばここが夢の中だとして。
眠る前の僕は何をしていた?
『昨日の晩御飯はなんでした、なんて良く聞く質問ですけれど。いかがです、夢以外の近況を、貴方は覚えているのですか?』
「それは、それは……」
『でしょうね。それが最後の扉の鍵。それを手にしない限り貴方はどこにも行けないのですが……それでは、私の気が済みません』
「……僕は、貴方に何をしたのです」
『では、講義を始めましょう。津雲さん、私の薬については覚えていますよね?』
勿論覚えている。
怪物を産み出した原因。人を救うための研究で造り出された、悪魔を生む薬。
あらゆる臓器移植を可能とすること。所長の目指す、医療の極致。
『そう。正確には、拒絶反応を抑えるための薬なんですけれどね。それがどうして起きるかと言うなら、それは、自分の身体ではないからです。己でないものが身体にある、異物に対する拒否。それが起こってしまうわけですが、では、それを起こさせないためにはどうすれば良いでしょうか?』
いきなり饒舌になった所長に眉を寄せつつ、僕は答える。「出来るだけ、自分に似たものを使う?」
『それも、正解の一つです。というよりも、正解へ至るためのアプローチの一つ、ですかね。成功すればそれが正解になるわけですし』
クローン技術とかを、僕は想定していた。
身体が壊れたときのために、重要な臓器を移植するための僕のクローン。
映画じみた話だ。しかし、倫理観を無視するのなら、それは解答の一つといえるだろう。
何やら上機嫌になってきた所長が、熱の籠った口調で話を続ける。
『もう一つ、別方向からのアプローチがあります。それは、脳を騙すことです』
「脳を?」
『移植されたものが自分自身の臓器であると脳が判断したのなら、拒絶反応は起こらない。私が開発しようとした薬は、要するにそういうこと、脳に対して、『今身体に入ってきたのは自分自身の元からあったものだ』と誤解させるのです。
さて、ではここで問題ですが。その結果、何が起きたでしょうか?』
認識を誤魔化す薬。
入ってきたものを、自分だと誤認させる、薬。
「他人と自分とを、混ぜ合わせる薬!!」
『まぁ、私も初体験ですが』
「移植された者同士で、認識を、奪い合う……」
僕の認識と、彼女、彼方ちゃんの認識とがぶつかり合っている、というのか?
『ここは、貴方の記憶が強いようですね。恐らくは貴方の領域なのでしょう。呼び出されているのも、久野さんを始めとして貴方の記憶の中にある人たちである筈です』
「そう、ですか?」
『知りませんけどね。記憶っていうのは、ちらっと見ただけの相手でもそこに記録されるものですし。まぁ、認識の弱い相手は、早々に脱落したようですが』
「脱落?」
『記憶の喰い合い、認識の奪い合い、自我の確立を目指した闘争だと言ったでしょう? ここでの死は、詰まりはそういうこと。最後の一人に統括されるための、蠱毒の壺なんですよ』
そんな、バカな。
元の肉体が誰のものかに関わらず、生き残った者に所有権が渡されるのか?
そんなもの、薬でもなんでもないじゃないか。
そして、ということは、詰まり。
僕は、移植手術を受けているということか?
移植、手術。
その単語は、僕の脳裏にある種の閃きを与えた。鋭く光る、月明かりに照らされた日本刀のように優美で、切れ味のある光。
僕の唇は、舌は、それとは違うことを喋り出す。僕の瞳が、脳裏とは違うことに気が付いたのと同じように。
「あの、怪物は、脱落者たちという事ですか。敗者復活戦、という感じですか?」
『それならそれで面白いですが。あれは、つまり
「何故、貴方が混じってるんですか?」
舌が躍り、眼は必死にそれを探す。脳は……ちょっと忙しい。
「貴方は、血液型がBではないでしょう?」
『恐らくは、涙でも一滴滴りましたかねぇ。涙は色の無い血液だって言うじゃないですか?』
「……さっき、復讐と言いましたよね。それは、つまりどういうことですか?」
『警察の配慮ですかね。それとも、マスコミの? ……貴方は、名前を知らされなかったんですね』
その言葉。
あぁそうかと、僕は思ったよりもすんなりと納得していた。
考えれば当たり前だ。僕は平々凡々、慎ましくも大人しく、理性的に過ごしてきた。人に恨まれるような覚えは、後にも先にもあの一回だけだ。
「あのときの、バイク事故。相手の運転手は死んだと」
『父でした』所長は短く、静かに答えた。『
『私は、後部座席で本を読んでいました』
所長の、黒木の声は冷静だった。
本心だとは思えない。寧ろ、見てくれだけを整えたような薄っぺらさを感じる。
薄氷の上に立っているような感覚。薄い鍋蓋の下では、具材とスープが煮込まれ、噴き出すときを待ちわびている。
『往診の帰り。父は医者で、腕が良く重宝される分、過酷な労働を強いられていました。辛い毎日ではあったと思いますが、それでも、人の命を救うことが出来るならと父は懸命に走り回っていたのです。
そんな、人を救う毎日の末に降ってきた神からの御返しは、愚かな若者の乗ったバイクでした』
閉じられた蓋の隙間から、感情の匂いが漏れ出している。
黒々とした、怒りや憎しみの腐りきったようなひどい臭いだ。
『父は正面からバイクがぶつかり、割れたガラスに腹を刺し貫かれて瀕死になった。そのまま運ばれた病院で手術は始まったけれど、手術は失敗した。備蓄されていた血液が、足りなくて』
「それは……」
『父の血液型は私とは違いました。私の血は輸血できなかった。それでも僅かな可能性に賭けて祈る私の耳に入ってきたのは、衝撃の情報でした。
津雲さん、貴方が助かったという情報です』
来た、と僕は息を呑む。
彼女の声から冷静さが消え失せて、より深く静かに澱んだ音に代わる。
『私は驚きました、我が耳を疑った。事故を起こした子供の内、一人が助かったと聞かされて。
いいえ、良いんですよそれは良い。助かったこと自体を責めようとは思いません。生きてさえいれば、恨むことが出来ますから。
問題は。問題は、貴方が助かった方法です。
貴方たちは、互いに輸血をして一人を助けた! 一人が一人に輸血をして! 父に私の血はあげれなかったのに!! 貴方たちは生命を譲り合った、その権利を得た。どうして? 貴方たちと私たち、どこが違ったの? 友情、絆? ふざけないで! それじゃあなんで、私と父は、私たちにはそれが無かったというの?! 何で、何で何で何で何で何で何で!!
何が奇跡、何が運命よ! 散々人を救ってきた、私の父を救わなかったのに!!』
それは、正に血を吐くような独白だった。
八年間溜め込み続けた、あらゆる言語で表現された憎しみの、その成れの果てだった。
漸く見付けた生き残りを前に、所長の仮面は剥ぎ取られて、剥き出しの黒木咲良が現れたのだろう。
聞いたことがあった。
世間は僕や久野を責めるよりも、もっと分かりやすい相手を責めたのだと。
事故相手の医師は、過剰な時間外労働に追われていた。碌に休みも取れず、事故に遭った際にも二十連勤の最終日だったという。
そう。
過度の時間外労働に依る疲労蓄積の末起きた事故なのだと、マスコミは医者の労働環境を責めたのだ。
意識朦朧とするような状態でこんな事故が起きたのなら、その状態で執刀した手術においても、事故が起こり得るのではないかと叩かれたのである。
そんなことは、有り得ないというのに。
加害者を奇跡の生存者と持て囃して、被害者をまるで悪人のように責め立てたのだ。
『さようなら。今度の輸血は、失敗よ』
深い、暗い昏い底を覗かせながら、所長は通信を切り。
同時に、エレベーターの電源が落ちた。
彼らは明確に状況を理解しているわけではなかった。
ただ、それぞれの遺伝子に刻み込まれた、けして失いたくない大切な思い出があって。
それぞれに混じり合ったそれを、他を殺してでも守り抜かなければならないと感じた。
そのためには、自分たちが最後の一人になるしかないという
……自分たちが集合体である以上は、けして最後の一人には成れないという事実には、気付くこともなく。
ただただ生きている者を狩り尽くすために行動していたのだ。
そして今。
地下から細長いエレベーターシャフトを伝いながら、怪物はそいつを狙っていた。
空中に縫い止められたかのように静止したエレベーター。その中にいる、生き残った一人。
音もなく、咆哮もなく、怪物は銀の棺を瞬く間に取り囲む。
僅かに残った知識から入り口を探り当て、怪物はドアの隙間に細く尖らせた身体を差し入れた。
それを半ばほどでL字に曲げると、あとは力ずくでドアを抉じ開ける。
そうして機内に飛び込んだ百人分の怪物は。
エレベーターの中に誰も居ないことに、無い首を傾げた。
赤い液体に満たされた水槽のような空間、その隅の天井パネルが、外されて揺れていた。
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