第40話/裏表 混然一体。
空を飛ぶ夢を見たとき。僕の視点は彼女に固定されていた。彼女の背中を見ながら、彼女から目を離せない感覚だ。
今回は、違う。
僕が彼女になっている。
鏡が無いから解らないけれど、僕は今、夕焼け色の夢に見た件の美少女になっているのだろう。
見たわけではないから確証はないが、しかしこんな夢を見る少女が世の中に何人もいるとは考えにくい。そして、と言うよりも、そうであってもなくても関係がないのだ。
僕は今逃げている。
自分がウサギであれ鹿であれ、獅子に追い付かれたら死ぬだけである。区別なんて意味はないのだ。
そもそも例え鏡があったとしても、覗き込んでいる暇など無い。
直接姿は見えないが、追われているという確信だけは脳裏に鳴り響いている。背筋をぴりぴりと緊張感が駆け巡り、逃げろ逃げろと叫び回る。
これは夢だ。自分がそうと信じていることは、良くも悪くも理不尽でも実現する世界である。心が追われていると叫ぶならば、僕は間違いなく追われているのだ。
とにかく逃げること。そして、目覚めること。僕の目標としては、この二つに絞られるだろう。
幸い夢の利点として、僕の足は無限に走り続けられるようだ。肺のひりつくような熱さもないし、そもそも、呼吸をしているように感じられない。どれ程リアルでも、夢は夢ということだろう。
それこそ夢ならば、飛べたら良かったのだが。
勿論そんなことは出来ない。常識的にというよりも、この夢のルールがそれを禁止しているのだ。
夢で彼女は飛ばなかった。
だから、僕も飛べない。
僕はただ、この襖の迷路を走り続けるしかないのだろう。
背中で感じる敵意から、襖一枚でも遠ざかるように。
「おいおい、津雲。大丈夫か?」
声に、顔を上げる。
身体は固い地面に寝転んでいる。なんともどんくさい話だが、どうやら転んだらしいと思い到って、ゆっくりと立ち上がる。
痛みはない。見下ろしてみると、黒い服はどこも
怪我はない。当然だ、痛くないのだから怪我をしている筈もない。
「大丈夫か、動けるか? 随分と派手に転んだみたいだけど」
心配そうに覗き込む端正な顔。そんなに派手に転んだのかと苦笑しながら、首を振る。痛くないのだから、勿論動ける。走れる。
「捻挫とかはしていないか?」
もう一人、黒い肌の男性が声を掛けてくる。同じ制服を着ている筈なのに、筋肉で膨れ上がったその肉体は、何やら鬼のようである。
それでも、青い瞳には気遣いの色が窺えて、鬼とは酷いかと思い直した。
静かに頷き、そして、私は口を開く。
「大丈夫です。急ぎましょう、悪夢に追い付かれない内に」
そう言って、私は晴れやかに微笑んだ。
襖はどこを見ても同じで、どこへ行けば良いのか、僕にはまったく解らなかった。
追い掛けてくる人影は見当たらないが、背中には変わらず敵意の針が突き刺さる。姿の見えない分、怪物よりもこちらの方が恐ろしく思えるほどだ。
しかしそれは、どうやら一般的に言われる恐怖とはまた違うもののようである。
夢を見ているとき、夢の中の自分の前提条件に疑問を抱くことはない。空を飛ぶ夢ならば、何故空を飛べるのかなんて気にすることはないのだ。
今回も同じ。僕は逃げることに疑問を抱いていないし、同時に、自分が彼らに恐怖を抱いてはいないことを不思議に思うことはないのである。
逃げながらも僕が感じているのは、怒りだった。
姿の見えない追跡者は確かに恐ろしいが、それはいつ追い付かれるか解らない、何処から襲われるか解らないという恐ろしさだ。
怪物に対して抱いたような、全身が凍り付くような絶対的な死の恐怖とはまるで異なるものである。言うなれば、対処困難な障害に対する思いというところか。
サバイバルゲームで
………
いつの間にか、襖は模様を変えていた。花や草木、その合間を飛び回る蝶や鳥に飾られていた筈の襖は、白く染められていたのである。
豪華で、高貴さを損なってはいない。周りの襖は模様が変わっただけで、その価値は未だに僕の手が届かない所にある。
けれども――変化は変化だ。
襖には、白があった。
紙本来の白さではない、恐らくはわざわざ白い糸を使い、白い紙に白い刺繍を施しているのだ。
走りながら、逃げながらも、視線は襖を追い掛けてしまう。
白一色の世界には、わずかな凹凸がある。それが枯れ木や草花の尽きた平原だと気付いたのは、それも夢の前提条件故だろう。
これは、
春が来て、夏に至り、秋を抜けて冬が降る。
生命が生まれ、栄え、衰えてやがて死に至る。
四季転輪、命の連鎖。
襖はその段を、冬に染めた。侘しく寂しい眺めが続く。逃げることより、追われることより、切なく哀しい世界の倫理。それを、この襖は表しているようだ。
そしてならば当然、冬の次には新たな季節が巡る。
――これは。
僕は思わず立ち尽くした。
襖に囲まれた、冬の座敷を抜けた先に在ったのは。
――春だ。
その部屋は、
四方を飾るは、絢爛華麗な春の世界。色とりどりの花や、それに負けないほどに鮮やかな翼、羽、羽根。
緑の草木に留まる、浅緑の小鳥。
金で象られた花に、錦糸の蝶々。
虹のように華やかな、色の奔流。生命に満ちあふれた景色。
その、中央。
襖たちが歌い上げているのは、一つの生命の誕生。
二人の人影が抱き上げている、小さな小さな、頼り無く儚く力なく、清らかで輝かしい生命。
子の生誕。
あれだけ僕を追い回していた敵意が、嘘のように霧消している。
見たわけではない筈なのに脳裏に刻まれた、顔を触手に覆われた男。彼が支配している領域で、こんな、優しさと喜びに満ちた空間があるなんて。
驚き、立ち尽くす僕。
それに、二人が気付いた。
振り向いた顔は、良く見えなかったけれど。
その顔は、嬉しそうに笑い合う二人の顔は。
紛れもない人間のもので。
『………よくぞ、産まれてくれた』
『なんと愛らしい、なんと美しい』
『我らの手など届かぬ、遥かな美しさよ』
『嗚呼、ならば、この子にはそう名付けましょう。人の届かぬ、人に汚されぬ。誰よりも気高く生きるよう、遠く遠く、いっそ彼岸に近い程の美しさであるように』
『『彼方』』
その響きは。
奇妙な懐かしさをもって、僕を打ちのめした。
――――暗転。そして。
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