第39話/表 寮へ。
久方振りに見上げた空は、中天晴れやかな青空であった。
まるで、写真のようだ。周囲を山々に囲まれたせいか、空は切り取られたキャンパスのように狭く、近く感じられる。
どれ程近くに見えたとしても、手を伸ばしても届きはしないのだけれど。
神話に語られる通りだ。空に手を伸ばした人間は、皆地に叩き落とされる定めである。
人の傲岸さに与えられる罰と言われてはいるが、こうして空を見上げると、それは勘違いだと切に思う。
勘違い、或いは筋違い。
人はきっと、傲岸さで空を目指すのではない。手を伸ばした、最初の思いはきっと、そんなものじゃあない。
それは――憧れだ。
透かすように太陽に翳したこの手のひらが、届く筈の無いことくらいは解っている。それでも、伸ばした。ひたすらに、高く、長く。
手の届かない極致に憧れる事は、罪でもなければ間違いでもないのだから。
所長も、きっと手を伸ばしたのだろう。
彼女の太陽が何処にあるのかは知らないが、しかし少なくとも、罰だけは与えられている。
職員寮は、研究所の東口を出て数十メートル歩いた先にある。
雨の日などは億劫になる距離だし、散歩には少々物足りない距離。そして、こんなときはと言うと………。
「………遠いな」
「遠いね」
辺りを警戒しつつ、僕らは小走りで寮へと急いだ。見られないように、気付かれないように。
「気を付けろよ、お前ら。職員に気付かれるなよ」
スミス氏の言葉に、頷く。
警戒というのは、詰まりは怪物に対してではなく、僕ら以外の人間に気付かれないように、ということだ。
「余計な情報は、パニックを招く。B型限定の怪物が彷徨いているなんて情報は、正に余計な情報だ」
「ま、少なくともB型で固められた研究所に伝える話じゃあ無いよな」
混乱し、殺到する群衆は最早それだけで怪物的だ。これ以上の騒動は御免である。
故に、所長に職員を外に出さないよう上手くシフトを動かしてもらい、その隙に、僕らは密かに寮へと向かっているのだ。
先を走る二人は、話しながらも軽やかな足取りで前へ前へと進んでいく。
その身体能力の高さは羨ましい限りだ。僕は早くも息が上がっていて、話すどころじゃあ無いというのに。
ゼエゼエと喘ぐ僕を振り返り――走りながら速度も落とさずに、だ――久野がニヤリと笑う。
「どうしたどうした、津雲! あの時はもっと早かったぞ!」
あの時、というのは地下の時か。
確かに怪物から逃げたあの時は、僕史上もっとも早く、力強い走りだったと言える。今のようなペースでしか走れない人間では、恐らくあの半分の道のりで追い付かれていただろう。
「地下の時は確かに見事だったな。………後ろから追われないと、力が出せないタイプか?」
「どうだろ、昔っから津雲は、鬼ごっこすぐ捕まってたけどな」
「では、違うか。追った方が良いのなら、追おうかと思ったのだが」
言い返せないと思って、勝手なことを行ってくれる。
まあ確かに、スミス氏の後追いは中々迫力がありそうではあるけれど。追い掛けられ、追い付かれたらひどい目に合わされるというのなら速度は出そうだ。
実際には是非止めてほしい。それこそ、夢に出そうだ。
それに、地下での僕の走りに関しては、僕の認識としては追い掛けられた訳ではない。
僕は、追い掛けていただけだ。僕にしか見えない、少女の後ろ姿を。怪物から逃げたのは、単にそのついでに過ぎない。
ついでにしては、いささか重い相手ではあったけれど。ついでは、ついでだ。
とは言え、言い訳をするつもりはない。『怪物に追い掛けられるより女の子を追い掛ける方が早く走れます』なんて最低の言い訳だし、それにそもそも僕の肺にそんな余裕はない。
………余裕がないということは、解っていたつもりだった。
しかし――現実、僕の限界は思っていた以上に近い所にあったようだ。数メートル先から忍び寄ってきていると思っていたが――実際、とっくに通り過ぎていたのだ。
「っ!?」
息を呑んだ瞬間には、もう手遅れ。
疲れきった足は脳が命じるよりも遥かに持ち上がらず。
出遅れた左足に右足が引っ掛かって。
「津雲っ!?」
視界にアスファルトが迫って一瞬後。
僕の身体は、勢い良く地面に叩き付けられていた。
――裏、暗転、走る夢。
僕は走る。
四方を囲む襖が、やけに高く見える。視界にちらつく足元と袖が白足袋に振袖であることを考えると、どうやら僕は今、幼い少女に成っているようだ。
進行方向の襖は、自動ドアのように勝手に開いていく。僕はひたすらに足を動かし、前へ前へと進むだけだ。
襖の柄は、四季を表すかのように部屋ごとに移ろい入れ替わっていく。どれも見事な出来映えで、一枚で恐らくは僕の給料一月分は容易くあるだろう。
もちろん見覚えはないし、そもそもこんな純和風の座敷に踏み入った記憶は無い。それにこの襖は、聞き覚えがある。
これは、彼女の夢だ。
空を飛んだ夢と同じように。
今度は僕は、追い掛けられる夢に落ちたらしい。
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