第26話/表 『それ』
人の恐怖とは、根源的には未知への恐怖だという。
勿論知るが故の恐怖はある――火傷した者は痛みを知るからこそ火を恐れる。不用意に火には触れなくなるだろうし、扱いには細心の注意を払うだろう。
僕も、彼らの言うところの怪物を恐れている。
それは、つい数分前まで命懸けの鬼ごっこをしていたからだ。相手の腕が、僕の背に危うく届きそうだったからだ。
怪物の脅威を、僕は知っている。
一方で、僕は怪物の顔を知らない。
走っているときは、逃げているときは、何しろ文字通りの必死であり振り向く余裕など無かったし、その前は、人間を物のように扱う様に当てられて見るどころではなかった。
どうやら天井の狭い隙間を動けるほどだから、かなり細身なのだろうが。
腕以外の部位は、想像するしかない。知らないのだから、そうするしかないのだ。
僕は、怪物を恐れている。
それは既知ゆえにか、それとも、未知ゆえになのか。
久野に続いて室内へと踏み込みながら、僕は、そんな事を考えていた。
「………………」
そして、今。
僕は――恐怖している。
訳知り顔で考えていた、恐怖の分類など全く無意味な事だった。
知ろうが、知るまいが、理解しようがしまいが経験しようがしまいが体感しようがしまいが実感しようがしまいが、そんなことは関係がないのだ。
恐怖とは――詰まりただ、【恐怖】でしかない。分類も分析も、無意味でしかない。
手足が震える。
自分の呼吸が、他人事のようだ。ヒューヒューというすきま風が唇から出入りするばかりで、酸素が体内に入っていく感覚がない。
燃料が無いから全身が動かず、そもそも脳が命令を発していない。動けとも、動くなとも、指令を出すことが出来ていない。
視界は徐々に黒く狭まり、電源を切ったテレビのように、闇に飲まれていく。目に映る世界が、耳に聞こえる、鼻で嗅ぐ世界が、僕の周りから消え失せていく。
代わりに満ちていくのは、恐怖だ。
痺れた爪先が、冷気を感じる。
冷え冷えとした水が、足先からせり上がってくる。あっという間に膝に、腰に、全身を覆い尽くしていく。
感覚が遠退いていく。口を開けても流れ込んでくるのは黒い水で、空気の代わりに喉を、肺を満たしていって。心臓が黒く染まり、流れる血潮が赤から黒へと入れ替わる。
細胞の一つ一つに至るまで、恐怖に支配されていく。
目で見たそれが、身体中に恐怖を刻み込んでいく。今や僕の肉体は僕のものでなく、ただ見ただけの
見るも恐ろしいそれから、視線を逸らすことさえ出来ない。
僕の存在そのものを汚すような、そんなおぞましきそれ。
歪さは覚悟していた。
不気味さも、グロテスクな醜悪さも、およそ怪物に出会うという事態において、僕は覚悟していた人だったのだ。
しかし、嗚呼、だが、しかし。
歪で不気味でグロテスクで醜悪な人間に出会うなんて、覚悟してはいなかった。
「………………い」
ドアの向こう、廃水処理施設。
倒れている身体は、二つ。
一つは真っ当な人間。黒を基調とした制服は、スミス氏と同じく警備員の物。所々が破かれ、血の気の失せた肌を赤黒い染みが縁取っている。
「………、お………も」
残る一つは――逆説的に真っ当でない人間だ。
衣服の類いは見当たらない。
と言うよりももう一段階、彼には足りない。人肌脱ぐ、と言うべきか、その表面には本来あるべき皮が欠けている。
「つぐ……! おい、………………」
人体模型のような、という言葉を鍋に放り込んで、【悪趣味】を混ぜて煮崩れるまで強火で煮込んだような、何と問われると【人体模型のような】としか答えられないのだけれどそう言うには精神的に抵抗がある、シェフの気まぐれが悪い方に転んだ創作料理のような、筋肉と血管とが露出したその肉体。
両腕と両足が、常人の二倍ほど長い。
その分細く、手首に至っては僕でさえ片手で握れる程度の太さしかない、飛蝗の脚のような造形的に不自然な長さである。
対称的に、胴体は短い。
真横に都合良く真っ当な人間が転がっているから解りやすいのだが、四肢に比べて異常なほど短い。通常の三分の二ほど、彼自身の足で言えば太股くらいしか無いのだ。
主要な臓器が果たして存在しているのか、しているとしたらどういう配置になっているのか、もし僕が学者であるなら目を輝かせるところだろう。
「しっ………ろ、つ…も、おい………」
あいにく、僕は学者ではない。好奇心など浮かび上がらず、恐怖の海に沈むばかりだ。
ここまでなら、ここまでだったなら、僕の覚悟の範疇だ。画面の向こう、見慣れた映画の一場面と比して、感心するくらいの余裕もあっただろう。
範疇外だったのは、その頭部だ。
肌が無い。目蓋すらないその顔には、歌舞伎役者のように血管が浮き上がっている。
並ぶ歯が、やけに多い。牙のように尖っているわけではなく、健康的な白い歯が、透明な唇の向こうで整列している。
髪は無い。
こうなる時に抜け落ちたのか、それとも、元から無かったのかは定かではないが、とにかく無い。
代わりに――いや、代役としては全く成り立っていないのだが、本来髪が覆うべき部位は、筋肉繊維が包み込んでいる。
びくびくと震える筋肉と、脈打つ血管とに包まれた、赤黒い肉体。
部分毎に細かく見ていけば、それは人ではない。怪物と呼ぶに相応しい、生物学から外れた異様さだ。
だが。
身体全体を俯瞰するなら、それは、間違いなく人間なのだった。
スミス氏の予想は、実際のところ外れていた。
確かに研究として、人と動物とを繋ぐ事は不可能ではないのだろう。だが、白沼博士の命を奪ったものは、違う。
これは、人と人とをひたすらに繋いだ。
筋肉に筋肉を重ねて、血管で結び合わせた
基礎どころではない。その材料は、全てが全て、人間だ。
人間、なのだ。
フランケンシュタインの怪物が、なぜ恐ろしいか。
それは、人間だからだ。
人として生まれて、人として生きてきた、人間の肉体を使って造られた化け物。その骨も、肉も、血も。僕と同じものだ。
あぁ、なんておぞましい。
人が、人を使って、こんな、こんなものを。
墓を掘ったのではない。
生きている人間を、玩具のように――。
「津雲っ! しっかりしろ!!」
「っ!?」
声と共に肩を揺すられて、僕の意識は急速に覚醒する。
恐怖の黒水は消え失せて、空気が肺に流れ込む。どくんどくんと騒々しさが肋骨の奥から響き、マトモな血液を全身に運んでいく。
僕の顔を覗き込む、心配そうな久野の瞳。
その背に拡がる光景は相変わらずの地獄絵図で、二つの身体が転がったままだが、それでも、僕の精神はある程度の安定を取り戻すことが出来た。
同時に、全身の打撲が主張し始めて、僕は眉を寄せた。
痛みは生の証だ。実感できる、僕は今、生きているのだ。
「大丈夫だ、大丈夫………」
「………そうは見えないけど。今は悪いが時間が無いんだ。津雲、さっさと道具探すぞ」
「あぁ………」
そう、時間は無い。
いくら人間だとしても、構成しているのは真っ当な人間のパーツでは無い。
睡眠ガスがどの程度効果を発揮するかは、誰にも解らないのだ。
「目指せ鎖、最悪ロープ。良いな、津雲?」
「解ってる」
「頼むぜ、
「………………」
やれやれ、縁起でもないことを。
僕はため息を吐きながら、恐怖の支配から脱した身体を動かして、部屋を探索し始めた。
その、背後で。
虚空に向けられた、
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