第25話/表 朗報、そして悲報。
「………やったな」
「ゲホッ、ゲホッ、ゲホッ………あぁ、そうだね………」
音の止んだシャッターを見ながら、冷たい床にへたり込んでたっぷり三十秒、僕は漸く息を整える事が出来た。
相変わらず肋骨の裏側がヒリヒリと痛むが、鼓動は落ち着いてきた。しかし代わりに、身体中から鋭い痛みが産声を上げる。
きっと、転がったときに、身体を強か打ち付けたからだ。服を脱いでみないと解らないが、多分擦り傷もそこかしこにあるだろう。
それでも、こんなのは軽傷だ。
よろよろと立ち上がりシャッターの表面をそっと撫でると、内側からの衝撃でひしゃげているのが解る。
鋼鉄が、これほど変形するような力だ。まともに当たっていたら、僕の身体なんか簡単にバラバラだったろう。五体満足なだけでも充分幸運だ。
いや、僕の生存の助けとなったのは、幸運だけではない。
「………助かったよ、久野」
駆けつけてくれた友人に、改めて礼を言う。
久野は、こそばゆそうに頬を掻いた。
「へっ、お前が無茶をしてると思ってな。俺の方もちょっと無理をして、はは、全力疾走で薬運んで、先回りしてきたぜ」
「無茶をしたつもりはないんだけどね」
『いいや、あれは無茶だったぞツグモ』
「うおっ」
いきなり響いた声に、久野がびくりと身を震わせる。
スミス氏の声が、廊下中に響いている。
どこにあるのか解らないが、どうやら、スピーカーらしい。狩りが終わったから、秘密裏に通信する必要も無くなったのか。
『何とかなったが、本当にギリギリだったぞ。全く、いきなり動かなくなったかと思ったら、今度は全力疾走だ。豹変しすぎだろう』
「………はい」
口振りから察するに、どうやら、僕が見た影をスミス氏は見なかったらしい。それが画面越しだからなのか、それとも――僕にしか見えなかったのか。
いや。それは、今考えることでは無い。後で落ち着いたときに、何ならカウンセラーとかにでも話を聞いてもらえば良い。
僕の沈黙をどう判断したのか、スミス氏は多少口調を柔らげた。
『まあ、気持ちは解るがな。こんなもの、遭遇してマトモで居られるだけでも上出来だ』
「………そこから、中は見えるんですね?」
『あぁ。………あまり、じっくり見たい映像ではないがな。後で見たいのなら映像を見せてやるが、これは、出来ることなら今すぐ焼き捨てたいくらいの化け物だよ』
「化け物、ですか」
僕は廊下での逃避行を思い出して、背筋を冷やした。
あの威圧感は、人間どころか真っ当な動物とは思えないくらいのものだった。片手で人の身体を持ちながら走って、僕の全力疾走に着いてきたのだ。気分的には、ジュラシックパークに近いものがある。
『恐竜の映画か、あれは名作だな。俺でも知っている』
「【これもツアーの演出か?】、俺も言いたくなるぜ」
『それで言うなら、俺の言いたいことは一つだよ。【科学者たちは何を出来るかばかりに夢中になって、それをすべきかどうかは考えない】、だったか?』
「そりゃあまた、ぴったりの皮肉だな」
『だがあいにく、中のやつは恐竜よりヒドイ。あっちにはロマンがあったが、こいつにあるのは、単なる忌避感だけだ。
………薄情と思われるかもしれんがな、隣に転がる部下を見る方が気が休まるくらいだ。例え、死んでるとしてもな』
「………………」
死体よりも、ヒドイと言われるモノ。
見たいような見たくないような、微妙な感覚だが………少なくとも今は、一度気持ちを落ち着けたいところだ。
「………僕らはこれから、どうすれば良いですか?」
『待機、いや、戻ってきてくれて構わないぞ。あとはこちらで………うわっ、所長何を………。
………あー、テステス。聞こえますか聞こえますよね皆さん?』
「黒木さん?!」
マイクを奪ったのだろう、突然聞こえてきた所長の声に、久野が弾かれたように顔を上げる。
その横顔からは事態への憂鬱さは消え失せ、飼い主に名前を呼ばれて喜ぶ子犬のようだった。
尻尾があれば、多分激しく振っていただろう。微笑ましいやら、鬱陶しいやら。
僕は、通信機に口を近付ける。向こうの声はスピーカーから聴こえるが、僕らの声を監視カメラが拾うことは出来ないだろう。
「所長さん、どうして通信室に?」
『睡眠ガスの散布も終わりましたからね。何か、久野さんも焦っていましたし、状況が知りたいと思いまして。それに、このままで放置されても困りますから』
「どうしてですか? やっぱり、警察とかきちんとした人たちに来てもらった方が」
『それはもう論外です、私としては、警察を呼んでここを滅茶苦茶にしてほしくはないですから』
「………警察は、呼ばないと?」
『呼びません。今回の事件に関しては、内々で処理します』
僕は、ため息を吐いた。実を言うと、こうなるような気はしていたのである。
秘密研究所を舞台とした様々な映画を参考にするまでもない。所長の研究は、目的としては崇高だろうが、内容としては間違いなく公表不可能。少なくとも、例の処置室を見られるだけでアウトだ。
最低限、事態の鎮圧くらいまでは内々で処理することになるだろう、と予想してはいた。しかし、ここまで明言されると衝撃もまたひとしおというものである。
だが、続く所長の発言は、僕の予想を遥かに越えていた。
『ですので、お二人には、中の犯人を拘束してもらいたいのです』
「………はあっ!?」
流石に、久野が叫び声を上げた。
僕は思わず安堵の息をこぼした。もしかして、所長のためなら何て言い出すかと思っていたので、本当に良かった。
再び、スピーカーの声が入れ替わる。
『ちょっと待て、所長。彼らにそこまでさせるなど、俺の役職にかけて許すわけにはいかん。ツグモ、クノ、早く戻ってこい』
ごそごそという物音、次いで、三度声が入れ替わった。
『いやいや、それは不味いんですよスミスさん。一刻も早くやらないと、取り返しのつかないことになります』
「最近、所長が喋ると僕らにとって嫌なことしか起こらないという気がしてるんですが………どういうことですか、所長?」
『その評価には言いたいことがありますが、しかし今は一刻も早く作業してください。何せ時間がありませんからねぇ』
評価が覆るどころか、ますます確信を持って疫病神と断じることが出来そうな、悪い予感しかしない所長の言葉。
久野でさえ、ちょっと引いたような表情を浮かべている。多分、僕の顔はもっとひどいだろう。
軽く、息を吸い込む。質問を重ねるのにはそのくらいの間と、そして覚悟が必要だった。何せ、多分答えは悪い話なのだから。
「もう一度聞きますけど、具体的にどう時間が無いんですか、所長」
僕らは、充分に覚悟していた。
あの、悪魔のような所長の笑顔を思い浮かべて、その形だけは美しい唇から、嫌な話が転がり出る様子をしっかりと想像していたのだ。
結果として、それは無駄な努力だったが。
人はいつだって、他人の想像を越える生き物である。所長の情報は、悪いどころか文字通り、最悪の情報だったのだから。
『実はですね、あの催眠ガスはあくまでも対人用なのですよね。大型動物とか相手だと、あまり効き目がないというか、三十分もすれば解けてしまうというか』
「はあ」
『そして、まあ、私たちは画面で犯人………うーん、日本語は難しいんですが、とにかく目標の姿を見ているわけですが。………これは性質的に、大型動物とかに似ているなと思うんですよね』
「………………詰まり?」
『催眠ガスの効果は、長くて三十分です』
「なあ、津雲。お前って、何座?」
「星座の事かい? 何で?」
「いやー、ほら。俺って山羊座なんだけど。占いは三位だったんだよね。で、最下位は乙女座。現状は最悪に近いけどさ、一応運、良い方な訳だろ? 占いって当てにならないなって思って、さ」
「………いや、占いは当たるものだよ」
「………お前、まさか」
「ノーコメントだ」
変形しているせいだろう、シャッターは不安になる音を立てながら、緩慢に上昇していく。
閉まる時も、同じくらいの速度なのか。いや、詰まって二度と閉じない可能性もあるか。
「星座占いや血液型占いは統計学だよ、当たる当たらないというより、確率論の問題だ」
「星座の観点から言うとお前が原因として、血液型はどうだ?」
「君と僕とは一緒だろ、忘れたのか?」
「そうだっけ?」
忘れるわけがない。同じお陰で、僕の命は助かったのだから。久野だって、忘れるような軽い話ではないと思うが。
僕はため息を吐いた。
もしかしたら気恥ずかしくて、知らぬ振りをしているのかもしれない。何だかんだと言う割りに、褒められるのが苦手なのだ、この男は。
「………………限界、かな」
「らしいな。ギィギイ言ってるし」
結局、シャッターは半分ほどまでしか上がらなかった。
『………………………………』
通信機の向こうは、やけに静かだ。
無理もない。所長はスミス氏によって反省させられているようだし、そして、スミス氏は責任を感じているようだ。
僕は、なるべく軽薄な調子で口を開いた。
「スミスさん、ロックの解除をお願いします」
『………………あぁ。仕方がない』
渋々、渋面が目に浮かぶような声音で、スミス氏が応じた。
『準備は良いか、止めるなら、今の内だぞ』
「大丈夫です」
『………やはり、俺が行った方が………』
「それは不味いですよ、何せ、いつ目覚めるか解らないんですからね」
既に、五分以上時間が経っている。
三十分が希望的観測なら、僕らとしてはその半分、十五分と思っておいた方が良い。スミス氏の到着を待っていては、恐らく致命的となる。
「それに、もし僕らが失敗したら、再封鎖はスミスさんにしてもらわないと」
「そうだな、とにかくあれは、外にだけは出しちゃあならない」
やや青ざめた顔で、久野が頷いた。
そうか、あのとき僕と向かい合っていた久野は、そのヒドイ犯人を見たのか。
「最悪そん時は、俺らをスパッと見捨ててくれよなおっさん」
『………あぁ。最悪の責任だけは、間違いなく取ろう』
重々しいスミス氏の言葉と共に、ドアのロックが解除される。
「いよっし。気合い入れっか津雲。ここで気張らないと、何もかもがご破算だからな」
「あぁ」
鎖か、ロープでもあれば良いが。
僕らは素手だ。拘束には、その道具から見付け出す必要がある。
「………ところで久野、君は見たんだよな? どんなだった」
「あー、お前は見てねぇのか。そりゃあ、別な意味で気張る必要あるな」
瞳に憐れみを浮かべながら、久野は記憶を探るような仕草を見せ、やがて「あー!」と奇声を上げながら髪を掻きむしった。
目を見張る僕に、苛立ったような目を向けてくる。
「なんつうか、なんとも言えないんだよあれは。例えようがないし、見た方が早いけど、見たらテンパるから覚悟だけしてくれ」
「百聞は一見にしかず、か? 頼りになる証言だね」
「言ってろ」
僕らは肩を叩き合い、そして笑い合った。
緩い空気だ。この先に何が待っているにしろ、死にに行くには、このくらいでちょうど良い。
深呼吸し、ライトを握り直す。
相手は化け物、僕らは二人。悪くはない。
………そう、本気で思っていた。
ドアを潜り、化け物に会うまでは。
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