第9話/表 地下【二階】
白い、白い光が、僕の意識を貫いた。
眩しい。眩しい上に、熱い。
閉じた目蓋が、鼻が、頬が、顔の皮膚全てが燃えているようだ。
太陽がそこにあるかのような熱量に、僕は思わず片手を顔の前に翳した。
「………目が覚めたようですね」
思いの外柔らかい、知的な雰囲気の声が耳に届く。
聞き覚えがあるような、無いような………。
姿を見ようにも、視界は真っ白に焼けたままだ。
「気分は?」
「………眩しい」
「それ以外には?」声は優しく、子供に問い掛けるように尋ねてくる。「目眩や頭痛、耳鳴りはありませんか?」
言われて僕は首を傾げる。
途端に腰と、首がごきりと鈍い音を立てた。何やら随分とこっているようだ………座っている、このパイプ椅子が悪いのか?
………座っている?
「っ!?」
瞬間、僕の脳裏に途切れていた記憶が流れ込んできた。
地下への荷物運び、誰も居なかった研究室、エレベーター、エラー、身分証――謎の煙。
「僕は………ここは?」
「思い出しましたか?」
「妙な煙を、吸い込んで………」
「睡眠ガスです。速効性がありますが、無色透明でないと使用がばれてしまいますよね。鋭意開発中ですよ」
「睡眠、ガス………」
だとすると、相手の正体は自ずと解る。
「僕は、拘束されているのですか? 黒木所長」
「えぇ」
パチン、という軽妙な音と共に光が消えた。
顔の近くから、何かが遠ざかる気配。目蓋の裏に焼き付いた黄緑色の残光が消えるのを待って、僕はゆっくりと目を開けた。
途端、再び白い光。
「っ!?」
「ハイビーム、フラッシュライト、タクティカルライト。呼び方は色々とあるでしょうが、まぁ、詰まりは懐中電灯です」
完全に白く染まった視界に、光が近付いてくる。
所長の言葉の通りなら、警官やレスキューで使うような強力なライトを突き付けられている訳だ。
反射的に手を翳したが、何も見えない状態で掴めるほど僕は達人ではない。
「片手で持てるものにしては、中々強力ですよね。それに、片手で持てるということは、こんなことも出来ます」
「っ、ぐあっ!!」
急にぐいっと髪の毛が引っ張られ、僕は顔を上げた。
そこにライトが突き付けられる。
「あ、熱、痛っ!?」
「こういうのは、尋問に良く使うでしょう? 眩しいし、ライトそのものが熱いですからね」
「うあっ………!」
目蓋に、文字通り燃えるような激痛が走った。まさか、押し付けてるのか?
腕を振るうが、もちろん空振り。お返しとばかりに髪が更に引っ張られ、僕は半ば腰を浮かした。
膝がテーブルに引っ掛かる。よろけた全身が、髪に繋ぎ止められた。
「熱と眩しさ。眠らせないという方法もあるそうですが、何よりも、津雲さん。このままだと貴方は失明しますよ………?」
「ひっ………」
所長の声は、耳元の随分と近くで囁かれた。
熱い吐息と甘い香りが鼻腔を擽り、湿り気を帯びた唇の音が耳朶を撫でる。
官能的な、或いは蠱惑的な感触だろう。しかし今、僕にとっては悪魔の金切り声にも等しい。
「そうなる前に、教えてください。………何故、白沼博士を殺したのですか?」
「………何だって?」
瞬間僕は、熱も痛みも忘れた。
言われた質問の、何もかもが覚えのない単語だ。知らない人物について、してもいない殺した理由を訊かれても、答えは疑問符の山だけだ。
とんちんかんな質問をされると、人はこうなるのだなという呑気な感想が、僕の脳の表面で弾けた。
「ま、待って下さい所長さん、僕には何のことだか………」
言いながら、実に有りがちな惚け方だなと僕は思った。ミステリーで良く見る、怪しさ満点の答えである。
困ったことに、真犯人でも作者が用意したミスリードでも、同じようなことを言うのだが。
しょうがないじゃあないか、他に言えることはない。
所長はやはり、怪しんだようだ。
「現場は、白沼博士の研究室。そこを最後に訪れたのは、どうやら貴方のようですけど?」
「ぼ、僕らは頼まれた届け物をしただけで………」
「代わりに、数式を奪い取った?」
「数式を………?」
「博士が研究していた、ある薬品の化学式ですよ。黒板に書いた痕跡がありました………消えていましたが」
くそっ、と僕は内心で叫んだ。
久野、久野、久野! お前の浅はかな行動の結果がこれだぞ!
「それは、その、荷物を持ってきたと伝言をしたくて………」
「それで、部屋を散らかした挙げ句に数式を消した? 研究所の、研究室の、黒板に書かれた化学式を消して? 随分と乱暴な行動に見えますが?」
ごもっともだ。
僕だったらやらなかった。本当だ、悪いのはあいつだ。
「………久野は? 一緒に居たあいつは、どうしたんですか?」
「別室で御話し中です。良い話を聞ければ良いのですが」
少しだけ、僕の溜飲は下がった。久野のことだ、どうせ拷問されるなら、憧れの黒木所長にされたかっただろう。
ざまあみろ。
冗談はさておき、状況はどうやら最悪に近いようだ。
僕は、覚えのない殺人事件の犯人として拘束されたらしい。そして、自白しなければ失明する。
実に不味い。何しろ僕は無実なのだから。
調べれば直ぐに解る筈だが、解った様子はない。ということは、通常の捜査はされていないということ。もしかしたら、通報さえされていないかもしれない。
「正直に話してください、津雲さん。ここには外部からの侵入は困難ですし、あの時間に地下に残っていたのは白沼博士と貴方たちの三人だけ。エレベーターで一階に上がった者の記録と、階段ドアの開閉記録を見たのでそれは間違いありません」
なるほど、では犯人は僕らだ。
客観的に見て、それが一番理に叶った答えではある。というよりも、ここの認証設備を考えればそれしか考えられない。
しかしながら残念なことに、僕は犯人ではないのだ。僕はそんなことをしていないし、夢遊病でも二重人格でもない。敢えてそういう描写を隠した、陰湿な叙述トリックでもない。
僕は無実だ。僕らが訪れたとき研究室は無人だったし、殺人の痕跡など全く無かった。部屋だって整理整頓されていたし、そのあと家捜しなんてする筈もない。
悪いことに、それを納得させられる根拠が僕には無い。
殺人というからには死体と現場があるということで、であればそこを鑑識が調べれば話は早いが、極秘研究所で所長がそうしていない以上難しいだろう。となると、最早お手上げだ。
最悪でないのは、未だ殺されていないことくらいだ。それも、風前の灯火だが。
「僕はやってません、久野だって、一緒に部屋に入って、誰も居なくて一緒に出ました。数式を消したのは馬鹿なことをしたと僕も思いますが、それだけです!」
「では博士は何故死んだの? 誰が部屋を散らかして、博士を殺したの? 誰も上には上がっていないのに」
「それは………」
どうする。
黒木所長は研究者だ。情に訴えるようなやり方がうまく行くとは思えない。そもそも、訴えるような情を持てるほど、僕らは彼女と親しくはない。
理に敵った論理的な解答が、その切っ掛けだけでも彼女に見せないと、僕らはここで
考えろ。
思い出せ。
眼は全てを見ている、脳は全てを覚えている。僕の通った道のどこかに、何か、抜け道があるのではないか。
記憶が拡がる。
敷き詰められた記憶の
北の端の研究室。
曲り角、静かな廊下。窓。モニター。夕暮れ。茜に染まる山々の風景。その中心の研究所。
大切なものはいつも、中心にある。
「エレベーター………!」
「はい?」
「エレベーターの記録を、調べて下さい」
「それはもう見たと言ったでしょう。エレベーターで上がったのは研究員だけで、貴方たちが来てからは誰も………」
「下がったのは?」
息を呑む気配が、白い視界の向こうで蠢いた。
「ここは、地下一階しか………」
「もっと地下がある、そうでしょう?」
「………何故?」
「エレベーターです」
タッチパネルの、地下一階の文字。
その欄は、画面の一番下ではなかった。その下に僅かに、文字で言うなら少なくとも一列分は空欄があった。
「それは、配置の問題ではないですか?」
「もう一つ、ドアの隙間。エレベーターと床との間には、空洞が見えました。僕らの降りた地下一階が最下層なら、あり得ないですよね?」
「………」
「誰かが侵入して、博士を殺したのなら。上には誰も上がっていないというのなら。犯人の行く先は二つに一つです。地下一階に未だ留まっているか、或いは、下に降りたのかです」
僕は、口を閉じた。
翳していた手を下げて両腕を組み、椅子にどっしりと深く腰掛ける。
言うべきことは全て言った。言えることは、と言っても良い。僕に出来ることはもう何もない。あとは、出目を祈るだけだ。
数秒間の沈黙。自分の鼓動がひどくうるさく聞こえてくる。
人生で最も長く感じる沈黙の後、果たしてライトは消えた。
慎重に、目を開ける。
未だ視界は戻らないが、それでも、向かいの椅子に腰掛ける所長が笑みを浮かべているのだけは解った――
「やれやれ。エレベーターの造りは、煩く言ったつもりでしたけれど。そんな穴があるなんて思いませんでした」
「やはり、あるんですね」
「えぇ。地下二階、一般の研究員にも秘密の場所が」
僕は安堵の息をこぼした。
「良かった………」
「確信があったのでは?」
「殆ど勘ですよ。あ、エレベーターの話ですが、最下層でも空間はありますよ。完全に着地したら、壊れますから」
目を丸くする所長に、僕は笑みを向けた。詰まりは――カマを掛けたというわけだ。そして、所長は見事に嵌まってくれた。
所長の手がすかさずライトに伸びたので、僕は慌てて両手を上げた。
途端にクスクスと、控えめな笑い声が所長からこぼれた。
「冗談ですよ」
「勘弁してくださいよ………」
「しかし、安心には早いとだけは解ってくださいね。貴方が示したのはあくまでも可能性であって、無実の証ではありませんから」
視界の端が未だ明滅している。僕は必要以上に首を巡らして、ドアが開いたことを認識した。
そこから現れたのは、プロレスラーみたいな屈強な身体つきの男性だ。目がぎょろりとでかい、黒人の警備員。
「彼を閉じ込めておいて下さい。久野さんも一緒に」
警備員は無言で頷いた。実は
「………大人しくね、津雲さん」
微笑みながら、所長が部屋を出ていく。
あとに残されたのは僕と、僕を睨み付けるゴリラだ。
僕はため息を吐くと促されるままに立ち上がる。視界はまだ完全ではないが、手を貸してくれ、とは頼み辛い相手だった。
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