第7話/表 地下の先、成長と疑問
エレベーターホールを出て右折。
次の十字路を左に曲がり、その次は直進。
暫く歩いたT字路を右、そこから右、左、右、左。
十字路を二つ直進して漸く、僕らは目的の研究室、呂号六号室に到着した。
窓に見立てたモニターには、変わらず夕陽が映っている。角度も変わらないから、時間の経過が全く解らなかった。
まあ、そう長くは掛かっていないだろう。夕食に間に合うかどうかは、少々微妙だろうけれど。
「複雑な道だったな」
「そうかい?」
「そうだよ、俺なんか地図があっても辿り着けなかったぞこれじゃあ」
位置としては単純で、呂号六号室は研究施設の北端である。
エレベーターホールを時計の中心としたら、十二時の方角、というところか。それだけ解っていれば、最悪そこへは辿り着ける筈だが。
「まあ、景色が変わらないからね。解りにくいけど」
流石は研究施設、基本的に廊下の眺めは一緒で、片側に窓、片側にはドアだ。
ドアに近付けば標識くらいは出ているが、それ以外に判別の方法は無い。壁や床も白一色で、とにかく現在地が解りにくい造りなのである。
「本当、お前が一緒で助かった。昔から、お前には世話掛けるな」
「寄せよ馬鹿」
照れ臭いにもほどがある。
僕はやや乱雑に、研究室のドアをノックすると、「失礼します」とドアを開けた。
大きく押し開けると、身体を使って閉じないようにする。その隙に、久野が台車を運び入れた。
「失礼しまーす!」
「すみません、研究用の薬品をお持ちしました!」
口々に叫ぶ。が、返事はない。
「………留守か?」
「留守って何だよ。部屋間違えてねぇの?」
「………いや、合ってるよ」
ドアの表札と、ケースに貼られた宛先シールを突き合わせ、僕は頷いた。
間違いない、ここが目的地だ。
「おっかしいなー?」
「待たせ過ぎた、かな?」
こちらの作業を終えて直ぐに来たが、何分慣れない運搬だ。普段に比べて時間が掛かってしまったとしても、おかしくはない。
待ち切れなくて抗議に出たとしたら、すれ違いになる可能性は大いにあるが。
「………どう思う?」
「映画なら死んでるね」
「だな」
運びに来た僕らか、或いは、この部屋の本来の住人か。
安い怪奇映画であれば、多分どちらかは無惨に死んでいる。
例えば、返事が無いことを不審に思った僕らはノコノコと奥を覗き込む。荒れ果てた研究室、散乱する薬品。そして――血痕。点々と続く赤い目印を追い掛けた先では、研究員が白衣を血に染めて息絶えているというわけだ。
しかし、これは映画ではない。
入った研究室は整理も行き届いている――部屋の中央に幾つかの実験器具が載ったテーブルが二つ。向かって右手の壁にはロッカー、反対側の壁には数式が書き殴られた黒板があり、突き当たりの壁には流しと、大きな冷蔵庫があるだけだ。
床に転がる科学雑誌も、割れた試験管も、勿論血の跡も無し。
「博士が謎の実験生物により死亡、っていうスタートは無くなったな」
「残るは?」
「薬持ってきた陽気な二人組の死」
「それはごきげんだね」
取り敢えず僕らは台車を部屋の奥、テーブルとテーブルの間に置いた。
「台車って持ち帰るのかな」
「いいんじゃね、こっから運ぶかもしれないし」
「それもそうか」
僕らの目的は、ケースを運ぶこと。
受取人が留守だとしたら、まあ、置いていくしかない。
「任務完了、だね」
「まあな………っと、そうだ。これを………っと」
部屋を出ようとした僕の背後で、久野が何事か呟いた。
続いてカツカツという、何かをリズミカルに引っ掻くような音。その前に擦るような音も聞こえた気がして、僕は恐る恐る振り返った。
そして、絶句した。
僕が見たのは、黒板の数式を一部消して何か書いている久野の姿だった。
人間は、予想外のことが起こると固まってしまうものらしい。僕の舌は、脳は、全身は凍り付き、久野を制止することが出来なかった。
意味は解らないが恐らく重要で、且つ計算途中であっただろう数式は、無惨にも消されていく。しかも、端ではなくど真ん中だ。
「良し、これで良いよな」
満足げに振り返った久野の横には、半ばが消し去られた数式と、汚ない文字。『荷物お届けしました。久野、津雲』という犯行声明だ。
「何を、やってるんだ君は………?」
「ん? いや、無言で物だけ置いていくと、流石に悪いだろ? それに無責任だしな。だから、『来ましたよ』って残しておこうと思ってさ」
そうか、とだけ僕は呟いた。
そうさ、と久野は頷いた。
言っていることは確かに正しい。ただ、少しだけ運が悪かっただけだ。
もしもメモ帳か余分な紙でもあれば久野だってそちらに書いた筈だろう。その切れ端をケースに載せるか、或いは実験器具で挟むか、手は幾らでも考えられた筈だ。
だがあいにく、不幸にも、僕らの手元にはメモは無かった。更に不幸なことに、黒板とチョークはあった。
詰まりは、そういうことだ。
「………早く帰ろう」
「ん、そうだな、いい加減腹も減ってきたしなー」
そういう意味ではないが、どうでも良い。
名前まで書かれている以上、いずれは露見するだろうが、面と向かって責められるような事態だけは避けたいのだ。
とにかくさっさと帰ろう。僕はそう決意して、部屋をあとにする。
部屋の主を探すつもりもない――可能ならば、何処かで死んでいて欲しいくらいだ。
「………あ?」
「何だ、どうかしたかい?」
久野は無言で振り返ると、モニターが見えるように脇へ退いた。
表示を見て、僕は眉を寄せた。
「『利用不許可』?」
赤く表示されているのは、そんなエラーメッセージだ。
僕は自分の身分証を翳してみる。………結果は同じだ。
「故障かな?」
「おいおい」
久野はひょいと片眉を上げて見せる。
おどけたような仕草だが、その奥の瞳は笑っていない。
僕だって、事態の深刻さは理解している。これがどんな種類の異常であるにしろ、僕らには復旧の手段がない。
「階段は?」
「同じシステムだろ、だったら入れない。研究員は?」
「探してみるしか無いけど、どうかな」
ここに来るまで、来たときも含めてだが、僕らは誰ともすれ違っていない。
結構な音量で話ながら歩いていたのに、ドアから顔を出して注意するものも居なかった。逆に、話し声を聞いた覚えもない。
「研究室が無人だったのは、もしかして、皆帰った後ってことじゃないのかな」
「最高の予想だなそれは。とすると、もしかして。この地下には俺らだけか?」
「可能性としては有り得るね」
「ごきげん」
ため息を吐いて、僕らは辺りを見回した。
静かだ――人の気配はない。
「方法は二つ。ここで明日、研究員が出勤するのを待つか………」
「探すか、だな」
ニヤリと笑った久野の様子を見るに、どうやら答えは一致しているようだ。
僕らの好きな映画ならば。ここでじっとするような大人しい展開は有り得ない。
盛り上げてやるとしようか、
「お。日向、ここ開いてるぜ」
「
「あ、ずりぃ。俺もそれ言うからな今度」
手近な研究室に押し入る。
ここも呂号六号室と同じ、整理整頓されている。研究に必要とおぼしきものが整頓して並べられ、余計なものは無く、人の気配もない。
「僕だったら、コーヒーメーカーくらい置くね絶対。こんな、『人生とは研究と見つけたり』みたいな禁欲的な生活は御免だ」
「学者版の葉隠? 面白いな、書けよお前」
「冗談だろ、クロロベンゼンの組成式に読者が着くわけないだろ?」
「誰でも一度は買うと思うね。それで終わりでも、ヒットには成るさ………っと、あったぞ」
「「
久野が示したのは、備え付けの通信機器だ。
今は消灯しているモニターに、カードリーダーとダイヤル。まさに【良し】だ。
僕は一先ず、カードリーダーに身分証を通してみた。
「エラーか」
「だろうね」
しかしながら、今も昔も通信機器にはある機能が付いている。
特にこうした、事故や事件が起きた場合の初動が何よりも重視されるような、私設研究所ならば、それは絶対にある。
「………ビンゴ」
ダイヤルボタンから少し外れた、機器の一番下に、目指すボタンはあった。
「緊急用の直通ダイヤル。完璧だな」
赤く着色されたそのボタンを、長押し。
基本的にこういうボタンは、誤作動防止にそうした、起動そのものに制限があることが多いのだ。
予想通り、一秒程度の長押しで画面は点灯した。
『こちらは黒木研究所緊急用回線です』
「ごきげん!」
久野の言葉と口笛を無視して、僕は『通信中』と表示されたモニターに顔を近付けた。
「えっと、こちらは研究所地下一階です。僕は作業員の津雲日向。運搬業務の後、エレベーターにアクセス出来なくなりまして………」
『………津雲日向』
通信先、若い女性の声に何やら固さが混じったような気がして、僕は首を傾げた。
それも、一瞬のこと。
『もしかして、作業員久野悟も同行していますか?』
「してます」
『………』
「もしもし?」
『………失礼しました、津雲さん。エレベーターにアクセス出来ないということですね』
僅かな沈黙の後、オペレーターは立ち直ったようだ。
恐らく、事故そのものに慣れていないのだろう。だとすれば、実に申し訳ない限りである。
『現在その階層に、研究員は一人も居ません。現在の研究室は伊号一号室ですね』
「あ、はい、そうだと思います」
『解りました。そちらに権限を持ったスタッフを向かわせます、そこで待機してください』
「解りました」
『………逃げて』
「え?」
モニターは消灯した。
最後の最後、通信が終わる直前。何か、妙なことを言われたような気がしたが。
「どした?」
首を傾げる僕に、久野が尋ねてくる。
指向性スピーカーか、僕との通信は、それなりに近くに居た久野にも聞こえなかったらしい。
「ここで待てとさ。今、スタッフが来てくれるらしい」
「そっか、そいつは助かる。………しかし、迷惑掛けちまったかな」
「それはまぁ、多分ね」
だよなぁ、と肩を落とす久野。
何を扱っているのは知らないが、名前を出すのも憚れるような大手製薬会社が造った極秘研究所だ。取り扱うのが合法的で安全なものだとは、そういう映画好きな僕らでなくとも思わないだろう。
そこの、しかも地下施設での事故だ。保安セクションは大慌てだろう。
「黒木さんに、悪印象与えちまうよな………」
「君が気にするのはそれだけか」
僕はため息を吐いた。
事態はそれどころじゃあない、下手をしたら、騒動の責任を追及されてこのままクビという可能性だってあるのだ。その場合、違約金の危険性まで出てくる。
そうなったら、こいつのせいにしてやる。
覚悟を決めた、その時だ。
「………ん?」
ガチャリ、という音が、静かな部屋に響いた。
何だと顔を見合わせる僕ら。その頭上から、白い煙が降り注いだ。
「ちょ、ゴホッ、おいっ、何だこれ!!」
「甘い匂い………ゴホッ、これ、まさかっ!」
吸うなと警告するより早く、咳き込んでいた久野が床に倒れた。
くそ、と僕は内心で毒づいた。
さっきの音、あれは間違いなくドアの鍵が閉まった音だ。僕らを閉じ込め、そして、この、けむりで………。
僕の意識は、そこで途切れた。
電源を落とすような唐突さで、視界も記憶も、闇に呑まれていった――。
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