第5話/表 追加作業、運搬、至福の時
「いやあ参ったなぁ追加作業だなんて! はしゃぎ過ぎるのも良くないな」
これっぽっちも反省していないような口振りで、久野は台車を押していく。
その後ろを着いていきながら、僕はその、真っ青な実験着が張り裂けそうな程に引き締まった、ガッチリとした背中を睨み付けていた。
「何がそんなに嬉しいんだ、君は」
「決まってるだろ、名前だよ、名前」
肩越しに振り返った久野の顔は、やはり笑い顔だ。反省していない、ということを隠す気もないらしい。
「所長に名前を呼ばれたことがそんなに嬉しいのかい?」
「当たり前だろ。あんなとびきりの美人とお近づきになれて、嬉しくない訳がない」
「お近づきに、ねぇ」
名前を呼ばれただけで大袈裟な。
「馬鹿、バッカだなぁお前は本当に。良いか? 今までの俺たちは、黒木所長にとっちゃ馬の骨、名も無き
「そうだろうね」
「だが、今日からは違う!」
久野は右手を握り締め、天へと突き上げた。
例の薬品入りケースを山と積んだ台車が一瞬グラリと揺れるが、直ぐに安定を取り戻した。
僕は両手に体重を掛けて、漸く台車を動かしている。腕力の差は歴然、流石は久野悟。腕力ならゴリラ並である。
恋するゴリラは僕の視線に気付くこと無く前を、未来を見詰めたまま続ける。
「俺たちは、名前を呼ばれた。覚えられた。これで俺たちは、彼女の彼女による彼女のための映画で、スタッフロールに名前が載せられるって訳だ! どうだ、大きな進歩だろ?」
「僕が思うに、単に役割が変わっただけじゃないかな。名も無き作業員から、名も無き雑用係にさ」
「それもまた、一歩だな」
その一歩は久野にとっては大きな一歩だが、僕にとっては小さな一歩である。
寧ろ、後退でさえある。何しろこれは通常の作業が変わったのではなく、通常の作業に追加された作業なのだから。
窓の向こうは、夕陽が見えている。普通なら、夕食前の自由時間だ。
ベッドで寝転がりながら、枕元に置いた小型のテレビで、のんびりと映画を見られた筈の時間だったのだ。
「だから、俺の方が多く積んだろ?」
「君が類人猿だと知っていたら、割合はもう少し考えたさ」
昔から、こいつはいつもそうだ。
僕の興味の無いことに夢中になって周りと軋轢を生み、そして僕を巻き添えにする。
「次は君一人で行けよ」
「次かぁ、あるかなぁ」
「………」
うっとりと声を出す久野。
あぁ、これがうっとりとした人間か、と思わず剥製にしたくなるような、色ボケの手本のような雰囲気である。
僕はもう何も言いたくなくなり、窓の外に視線を向けた。
夕陽が眼を焼く。略して夕焼け、という訳だろうか。
間違っているような気はするが、正解も解らない。それに、誰に伝えるわけでもないのだから、間違っていようが何だろうが構わないだろう。
そう言えば、と僕はポツリと呟いた。
「あの部屋は………」
「ん?」
「夢の話だよ」
僕の私室のように使っていた、夢の中のあの部屋。
机がひとつ、ソファーがひとつ。
本棚と、卓上コンロにヤカンが載っていた。
「だから?」
「………木造だった」
「へぇ、随分とまぁレトロだな」
「だよね」
リノリウムでもない、正真正銘の木製だ。
珍しいというか、僕の記憶にはそんなところ無い。
「俺たちが通ってた時点で、学校も合成建材になってたからな」
「歩くと軋む床なんて、経験無いね」
だが、夢には出てきた。
夢の中の僕は、それが当然と思っているようだった――木製の床は勿論、珈琲を湯呑みで呑むような事も。
そんなことをした覚えは、僕には当然無い。
「記憶の再生説は、どうやら却下かな」
「どうだろうな」
記憶説主張者の僕の弱音に、記憶説と対立していた筈の久野が否定した。
「いや、元々対立してた訳では無いけど………何て言うかさ、お前、元々懐古趣味じゃん? そういう映像資料とか、良く読んでたろ?」
「まぁ………そうかな」
「それだろ」
どれだよ。
首を捻る僕を振り返ると、久野はイヤらしく笑った。
「詰まりさ、お前は今は無き木造建築やら、外来語を使わず漢字で当てるような、そういう時代がかった文化を好んでいて、良く情報収集していた。その使い心地とか感触とかも、想像して見たことあるんじゃないか?」
「………ある」
「ほら! それだって立派な記憶だ。お前の想像力が逞しすぎて、お前の脳はさも経験したかのように記憶したんだよ」
「それが、夢に出てきた………?」
「そういうこと」
一切解決、とばかりに、久野は前へと向き直った。
「………君は。案外頭脳派だよね」
「インテリなんだよ、カッコいいだろ?」
「そのにやけ面を止めたらね」
僕は、嫌みで誤魔化した。
だって、言えるわけがない。久野の背中が何だか随分と、頼もしく見えた、だなんて。
「ところでこれ、何処に運ぶんだ?」
「解らないで前を歩くのを止めてくれないか」
全く、締まらない男だ。
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