第3話/裏 語られた夢

「私、空を飛んでいました」


 その時僕は、陶器の茶碗に注がれた黒々とした液体を覗き込んでいた。

 まるで湯気を立てる泥水のように見えるが、これは飲み物である。そこへ牛乳を一匙、角砂糖を二つ放り込むと、漸く珈琲らしくなった。


 銀匙スプーンで、ゆっくりと掻き回す。

 白い螺旋が、徐々に黒に溶けていく。白は消え、しかし黒も黒のままでは居られない。

 二つの物が出会うとき、互いに以前のままでは居られないものなのだ。


 僕と彼女は、どうだろうか。

 僕は消えるのか、それとも彼女が消えるのか。繊細なのは彼女の方に思えるが、僕とて頑丈ではない。


「飛んでいた」


 僕は鸚鵡おうむのように繰り返した。


「飛んでいたのです」


 至極真面目に、彼女は答えた。当たり前か、彼女は真面目に、僕と夢の話をしたいのだから。

 僕はのろのろと顔を上げる。

 彼女は珈琲を両手で包み込むようにして、ふうふうと息を吹き掛け、冷ましていた。

 顔を上げた僕に気が付いたのか、彼女は僕に視線を合わせてくる。


「上昇下降も自由自在、縦横無尽に飛び回っていました」


 その、上目気味に投げ掛けられた視線から魂を逃すように、僕は質問を投げ返す。


「鳥のようにですか? その、翼が生えて、羽ばたいて?」


 当然の問い掛けだったと思うのだが、彼女はいつものようにくすくすと笑った。


「それでしたら私、『鳥になる夢を見た』と言います。そうでしょう?」

「はぁ」


 まぁ、言われてみればその通りか。

 彼女の周到さは、いつものことではあるし。


「では、どのように飛んだのですか?」

「足の下に何か………力があるように感じました。それは私の意思次第で出力を調整出来るようで、私はさしたる苦労も無く、空を飛び回ることが出来たのです」

「不思議な感覚でしょうね」

「えぇ。初めての感覚でした。

 ………水の中を泳ぐような………いえ、それとも違いますね。泳ぐほどの力も要りませんでしたし、手や足をばたばたと動かすこともありませんでした」


 それは、また。


「楽しそうですね」


 自由自在に空を飛ぶことは、有史以来の人間の夢の一つだ。この場合の夢とは、見るものでなく目指すものであるが。

 何にしても、風を全身に浴びながら遠く高く青空に向かうのは、心地好い体験だろう。夢を覚えていない僕としては、実に羨ましい限りである。


」しかし、彼女は首を振った。

「全く、楽しくはありませんでした」










「見上げた空は果てが無く、何処までも飛んでいけそうで。けれどもやはり、こういうとき、私は誰かに見て欲しいと思ったのです」


 軽く頬を染め、恥ずかしそうに俯く彼女を見ながら、僕は珈琲を口に運んだ。

 少々甘い味に仕上がってしまっている。角砂糖を今度は一つにするべきだろうか。


「何も無い空をただ飛ぶよりも、地上付近を飛び回る方が楽しいでしょう? 家を越えて、車を追い越して、驚き指差す人々の頭上を旋回して見せる方が、夢のようでしょう」

「気持ちは、解りますが」

「だから、私は下へ下へと飛んでいきました」


 降りたのか。

 空を飛べる夢で地上を目指すというのは、僕には解らない。

 普通は上へ、太陽へと目指していくものではないか。


「やがて地上が見えてきて、私は首を傾げました」


 実際にちょこんと小首を傾げつつ、彼女も珈琲を口にした。

 砂糖も牛乳も入れていないようだが、苦くは無いのだろうか。


「そこには、

「え?」

「無かったのです。上空から降りてくる途中で、私は日本の何処を飛んでいたか理解していましたが、だとしたらそこに当然ある筈の都市が、全く影形も無かったのです」

「………跡形も………」

「見渡す限り、地上は緑に覆い尽くされていました。森、林、或いは蔦や苔さえも。植物が地上の支配者となったようでした」


 それは、良い眺めではあるだろう。

 緑は眼精疲労を和らげるとも言うし、気持ちを落ち着けるとも言うし。


 だが、過ぎたるは及ばざるが如し、とも言う。

 植物のある風景は精神に良いだろうが、植物無い風景は、精神を安らかにはしてくれはしない。


「それでも何とか誰か、或いは何かを見付けたくて、私は飛び続けました」


 彼女は慌てただろうか。泣き叫んで、取り乱したのだろうか。

 彼女は、そうであって欲しくない気もする。泰然自若として、世界の滅びを前にしても、悠然と微笑んでいてほしい。


 或いはそれとも、人の死に、社会の滅亡に、嘆き悲しみ涙を流してほしいだろうか。


「やがて、私は見付けました」

「人を?」

「その痕跡を、です。しばらく飛び続けた私の前には、建物が並んでいました。団地というと、想像できますでしょうか?」


 四角い、長方形にいくつもの部屋が規則的に並べられた居住施設だ。

 豆腐に、四角い穴を開けていったような建物、と言えば解るだろうか。僕は知っているから想像出来るが、上手く例えるのは難しい。

 まぁ、現在僕と彼女が解っていれば充分だ。


「大きな椀を想像してください。その縁に沿って、そうした団地が並んでいたのです」

「祭壇のようですね」

「えぇ、私も同じような印象を受けました。だから、団地ではなく窪地の中心を目指したのです」


 大事なものは、中心にあるものだ。


「その途中で、私はあることに気が付きました。いえ、思い出したというか、ほら、夢の中は現実と異なる常識で動いているでしょう? 夢の中の私にとっての常識を、私は漸く理解したのです」

「常識を、ですか」

「禁忌ですね。私が『してはならない』ことを教えていたのです。それは単純なことですが………知りたいですか? 先生」


 楽しそうに、彼女は僕に問い掛ける。

 それは正しく、幼子の如し悪ふざけだ。自分の知っていることを自慢したくて堪らない癖に、自分からはけして言い出さない。


 教えて欲しいでしょう、教えて欲しいでしょう?

 知りたいでしょう、聞きたいでしょう。

 ならば、おねだりして見せて。


 僕はため息を吐いた。

 大人らしく、子どもの悪ふざけに付き合うしか、手は無いようだ。


 観念した僕に、彼女は、慎ましく微笑んだ――。

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