一章

伺候する


(おお、どうやら来たようだな)

 今上きんじょう御門みかどは、心の中でそう呟いた。

 案の定、使いにやった舎人が孫廂まごひさしの前で平伏する。


主上おかみ少納言しょうなごん雅晴まさはる様が、参られました」


「通せ」


 今上の御門――――主上は、そう言って平敷御座ひらしきのおましであるしとねに座られた。




◆◇◆◇◆



 雅晴は、御簾の前でうやうやしく頭を下げた。

 その御簾の奥におわしますのは、この八万十国やまとこくを統べる至高のお方である。


「少納言雅晴よ、面をあげよ」


 御簾の中から凛としたお声がかかる。


「はっ」


 雅晴は、ゆっくりと顔をあげた。

 薄い御簾を隔てた向こうには、雅晴のよく知る今上の御門のお姿があった。


「お召により、参内いたしました」


「うむ。雅晴よ、勤務中に突然呼び出してすまぬ」


 雅晴は少しだけ戸惑った。もう一度頭を下げ、奏上する。


「も、勿体無きお言葉。なれど、私は主上にお仕えする臣下にございます。どうか、お気になさりませぬよう」


 その言葉に、今上の御門は少し微笑んだ。

 雅晴は昔から、人を思いやる心がある。それはここ、大内裏では、滅多に見られないものであった。


「…………そなたはいつも、そう言ってくれるな。治信はるのぶなどは時たまだが、不平を言うのだが」


 今上の御門は、はぁーと溜息をついた。

 どうやら、一番の側近でもある臣下に文句を言われているらしい。


 一方、雅晴は遠い目をした。ああ、そうなのですか…………と。


 ちなみに、治信はるのぶとは、中務少輔なかつかさしょうを務める、楠野葉治信くすのはのはるのぶのことである。

 古くから御門の御一門ごいちもんに仕える楠野葉家の嫡男で、今上の御門に古くから近習きんじゅうとして仕えていた。

 今上の御門の影を務めることもある。



「ま、まぁ……それは良いといたしまして、本日はどのようなお召しで……?」


 そう、雅晴が用向きを聞こうとした時。


「失礼いたします。中務少輔なかつかさしょう楠野葉治信くすのはのはるのぶ、ただいま帰参いたしました」


 新たな声の主がやって来た。

 簀子で平伏し、そのまま直ぐに孫廂の方へにじり寄る。


「おお、噂をすれば。治信、如何であったか?」


「まあまあ、というところですかね。また、叱られて来ましたよ」


 治信は御簾の横にどかっといささか行儀悪く座った。

 どうやら相当疲れたらしい。


「これとこれとこれとこれを明日までに目を通しておいてください。あ、これとこれは明後日までに仕上げておいてくださいね。主上、お・ね・が・いしますよ」


 何故か最後の一部分を強調して、どんどんどんっと滑るように置いた書類を御簾の中に差し上げる。

 …………問答無用とは、まさにこのこと。

 もはや恒例の事らしく、今上の御門も治信のちょっとした不敬を咎めたりはしない。

 それどころか、差し出された書類を脇に置いて、


「ほう、それは如何した?」


 などと意地悪く仰せになる始末。

 治信は眉間に青筋を立てた。


「如何した…………ではありませんよ! 毎回毎回ここが出来てない、そこも出来てない、いつになったらまともに出来るようになるこの若造め、なんて言われるんですよ! いちいち叱られる私の身にもなってお考えください。それはイヤになりますよ。まったく………中務卿なかつかさきょうさまも、大納言さまも、容赦がない…………」


 治信は、はぁーと頭を抱えた。

 それでなんとなく、今上の御門の側近である彼の苦労がしのばれた。

 余程こたえているのだろう。彼の目の下には、くっきりと隈が出来ていた。


(…………。気の毒に………………)

 雅晴は内心、たもとで涙を拭った。

 治信、貴殿の努力がいつかは報われることを祈るぞ…………と。


 そんな雅晴の思いはつゆ知らず、今上の御門と治信の会話は続いていたのだが。


「治信」


 ふいに今上の御門が、片手をあげる。

 すると、「はっ」とだけ短く返事をした治信が立ち上がり、孫廂から出て行く。

 雅晴は察した。人払いか、と。


 しばらくすると、治信が戻って来た。

 彼は、注意深く辺りを見回し、半蔀はんじとみを下ろす。


 それから、孫廂に腰を下ろした臣下を見て、今上の御門は口を開かれた。


「雅晴。実は折り入って相談があるのだ」


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