序章

大内裏での噂


 時は飛耀ひよう元年、夏。

 五月雨さみだれが降る皐月さつき(陰暦五月)の頃も過ぎ、夏の暑さを含んだ風が吹く、ここ、寧安ねいあん

 そんな八万十国やまとこくの都、寧安京の大内裏では、今日も官吏たちが忙しく働いていた――――――のだが。



「なあなあ知っているか? 大納言様の姫君は、大層な美人らしいぞ」


「何? それは誠か?」


「ああ、なんでも姿形は夕顔のように美しく、和歌うたを詠めばたちまち人を虜にさせてしまう。そんな素晴らしい姫君らしい。まるでなよ竹の姫のごとく、だそうだ」


「そうか、ならば今すぐにでも和歌うたを送らねば…………」



 ここで会話が途切れる。否、聞いていなかった。雅晴まさはるが。


 雅晴は早足で歩いていた。衣冠いかん指貫さしぬきの裾を優雅にさばきながら。


(おい、そこのボンクラ貴族ども。真っ昼間から簀子で立ち話している暇があったら、仕事をさっさと終わらせてこい)

 雅晴は心の中で、盛大に毒を吐いた。

 一度でもいいから、言えるもんなら言ってきたい。

 しかし雅晴は、半年前に今上きんじょう御門みかどから、少納言の位を賜ったばかり。

 それに比べて先程の公達きんだちの方が位が高そうなのは事実。その証拠に、彼らのきぬは、お高そうなで出来ていた。かなりムカつくことに。

 それに、少納言は従五位下じゅうごいのげ殿上人てんじょうびとの中ではかなりの下っ端だ。


 御門のおわします内裏だいり――――それも私的な宮殿である清涼殿せいりょうでんに昇殿を許された者を、殿上人という。

 殿上人の中でも階級の差は当然あるのだが、殿上人か否かで、かなり変わってくることがたくさんある。

 例えば、俸禄ほうろくとか俸禄とか。


 ちなみに、雅晴の父、雅喜まさきは、殿上人ではなかった。

 明経博士みょうぎょうはかせという、大学寮だいがくりょうの博士をしていたのだ。その階級、正六位下しょうろくいのげ。悲しいかな、ギリギリ地下じげ(清涼殿に昇殿を許されぬ者)である。

 というわけで、建ててから二十数年が経ち、ボロくなってきた邸の修理代と、数少ない使用人たちの給料、そして食費などの諸々で、父の俸禄は消えた。

 総じて雅晴の家族は、カツカツの玄米生活をおくっていたのである。



 おおっと話が逸れてしまった。

 というわけで、閑話休題。元に戻ろう。



 今の状況を説明すると、簀子で立ち話をしていた二人の公達の話を、通りがかった雅晴が、たまたま聞いていた。だけである。いや、盗み聞きと言った方が正しいか。


 雅晴は毒を吐き、呆れつつも少しだけ仕方がないか、と思った。


 貴族の楽しみは、権力闘争と色恋。だけ。

 だからと言ったらアレだか、摂関家やそれに連なる一族の者は権力闘争を繰り広げ、権力闘争する・しないに関わらず、貴族の男は理想の女性を求め、訪ね歩く。

 乱れている! 

 と思わなくもないが、それがこの時代の貴族の常識ジョーシキなのだから、仕方がない。

 ゆえに、貴族の男は常に女性の姿を垣間見たり、“どこそこの姫が美しいらしい”などの噂にかなり敏感だった。


 それでも、暇を持て余している殿上人のつまらん話と一蹴しかけたとき。

 ふと、雅晴は顔を上げた。

 書物で隠した口元は、何かを思案するように動く。


「大納言家の姫、か………………」



◆◇◆



少納言しょうなごん雅晴まさはる様。主上おかみがお呼びです」


 不意に呼び止められた。

 後ろを振り向くと、見知った舎人とねりが膝をついている。


(主上――――御門みかどのお召しか)

 雅晴は心の中で呟いた。

 それはすぐに参らねば。


「ありがとう、和太かずた殿。主上には、すぐに参上致しますと、奏上を」


「はっ」


 舎人―――和太の気配が遠ざかる。

 それを見送った後、雅晴は踵を返した。

 清涼殿せいりょうでんへ向かうために。


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