第2話星空の下

「彼女だ」


「彼女って誰だ?」


「ほら」


 僕が僕に仕方ないなあと言う感じで言う。首をすぼめる僕。


「誰もいるわけ」


 暗闇だった。僕が見えるのがおかしいくらい。


 振り向いたらいた女の子は長髪でプリンを持っている。


 彼女は、光って見えた。


「何で君が」


 彼女は整った唇と煌めく目で笑っている。僕は彼女の名前を呼んだ。彼女が僕に近付く。唇が開く。なんて言っているんだろう。


「……」


 小さな唇が、僕の目の前に来た。そして。


「……」


 僕は布団ごとベットから落ちていた。規則的な音が耳をつんざく。目覚まし時計。唇。女の子。そして目の前に近付いて……。


「ただの欲求不満じゃないか」


 呟いた声は廊下にいる妹にまで届いたらしい。


「え? お兄ちゃん不満なの?」


「うるさい!」


 放り投げた枕はドアに当たった。


「今日は皆で病院に行くんだから早く帰って来てね」


 妹の声がして階段を下りる音が聞こえる。


「水曜日か……」


 今日は父を除く家族皆で、祖母を見舞いに行く日だった。


「学校サボるなよ」


 家を出ると、背中から妹が話しかけ、返事をする間もなく僕を追い抜いて行く。妹は学校のことを知っているのだ。


 教室に入ると賑やかな喧騒が響く中、まるで息をする場所を探すように窓際の席まで来た。


 窓を開けると一陣の風が吹き、真っ白なカーテンが波打った。


 誰かの教科書やノートもページを変えたらしいが、僕は気にしない。誰も僕を振り向いたり気にしたりすることがないからだ。


 入学以来、僕の心にある壁は厚く、幸いなことに苛められることもなく、存在を気にかけられない者になったらしい。


 ほっとしている。


 友達がいらないのかと言われれば、勿論、欲しい。


 けれど気にかけられないことで自分の心を守る隠れ蓑ができたことも確かなのだ。


 誰とも話すことなく学校での一日を終える。


「お兄ちゃん、遅い」


 妹が病院の前で手招きしている。家から近い中学校と僕の通うバス通学の高校では、病院までの距離が違う。


「もう、のろいんだから」


 妹は遅いと同じことをもう一度言う。言い訳する暇はなしだ。


 母と妹と一緒に祖母の病室へ向かった。ところが祖母の部屋には別の人が入っていた。


「部屋を移ったんだわ」


 ナースステーションで母が新しい部屋を聞き、無事祖母に会うことが出来た。


「あらまあ、三人で、いらっしゃい」


 祖母はにこにこと僕らを見て笑った。笑いながら冷蔵庫を指すので、今朝見た夢を思い出した。


「清信ちゃんどうしたの?」


「あ、いや」


 祖母は僕らにプリンをすすめた。


 プリンを持つ女の子……あの、彼女を思い出す。


「それにしても突然部屋が変わったから、お迎えが近くなったのかと思ったわ」


「おばあちゃん」


 母は『何を言っているの、ただの骨折だし治るわよ』と言い、はははと祖母が声を上げて笑う。


「お迎えが来ても、じいさんの所へ行くだけよ」


 祖母の笑い声に僕の心臓がズキンと鳴る。


 そう。僕は死んだ時に会うべき人は父と母と妹、そして祖母に祖父くらいだ。


 祖母みたいに大切なパートナーはいないだろう。


「今は絶対安静よ」


 母の忠告に祖母がハイハイと答え、僕らは手を振り合って別れた。


「本当、お兄ちゃんたら無口でどんくさいんだから」


 妹の苦言を上の空で聞いている。何だか僕は頭がぼうっとしてきた。薬の副作用で眠いのかもしれない。風景が一瞬ぼやけて見えた。


 心の病は僕の心臓を突き刺すことなく周りからじわじわと『心』を責めてくる。僕はこんなふうにじわじわとした恐怖に支配されていくのだろうか。


 プリンを持った女の子……。


「ねえ、お兄ちゃん、あの人知り合い?」


 妹の視線の先に長髪の唇が綺麗な女の子がいた。白いワンピースを着ている。夢じゃないかと思って自分の頬を叩いた。


「何やってるの、お兄ちゃん?」


 少し離れた所にいた彼女が近付いてきた。


「待っていたよ」


 僕は天使がお迎えに来たのかと思ってぼーっとしてしまった。


 背中をぼんぼん妹が叩く。


「お母さん先に行っちゃった。私も行くね」


「妹さん?」


 はっとする。夢から覚めたみたいだ。


 激しく頷くと、後ろから声が流れてくる。


「帰って来なくていいからねー」


 僕はむせそうになった。


「行こう」


 彼女の手があっという間に僕の手首を握った。冷たかった。


「ど、どこに」


「プリン、忘れたの」


 そして僕達は祖母の部屋にいた。


 僕と彼女は並んでプリンを食べる。


「清信ちゃんの彼女かい」


「違……」


「はい。いつも清信さんのお世話になっています」


 思わずむせた。


「ほら、清信君、また頬っぺたにプリン付いてるよ」


 彼女は僕の頬に指を当て、自分の口までもっていく。赤い舌が見えた。


「ほほ、らぶらぶねえ」


 満足げに祖母が微笑んで僕は体内が血で一杯になるのを感じる。今度は僕が彼女の手首を持つ番であった。


「またね」


「なんでお祖母ちゃん置いて行っちゃうの? まだ話したかったのに」


 悪びれもない彼女の物言いに寒気が走った。勘違いしないで欲しいのは、僕は彼女を嫌いになったのではない。嫌いではないけれど、恥ずかしい。そういうことだ。


「ばあちゃんの前であんなこと……」


「ごめん。謝る。今日は解散する?」


「解散って……」


 ここで別れたら二度と会えないではないか。いや、それがいいんだ。僕は自分の立場をわきまえなくては。僕は健康そうに見えて……健康ではないんだ。


「うーん、やっぱ止めた!」


 彼女の言葉は静かな空間にちょっとうるさいくらいだ。


「待った、声が……」


「解散は止めにしよ。ね?」


 僕は彼女から手を離せそうにない。


 彼女は慣れた様子で病院の階段を見つけ、どんどん上る。


「待って」


 とうとう屋上の扉が開いた。


「見て。夕暮れだよ。綺麗な夕暮れは明日晴れるって教えてくれるの」


「それが、どうしたんだよ」


 情けないけれど、僕の息は吸って吐いて、落ちつく暇がなかった。体力のなさばかりが理由ではないと、心臓の鼓動が知らせている。


「疲れた?」


 どきどきして疲れてないとは言えず首を横に振る。


「じゃ、もう一つして欲しいことがあるの」


「何?」


「キス」


 思わず彼女から手を離した。


「ひっ」


 変な悲鳴まで出てきた。


「駄目?」


 ドキンドキンドキンドキン。


「駄目とかでないけど……キスって突然するもんじゃなくて、その」


「そうだよね」


 夕日に照らされた彼女の顔は夕暮れみたいに悲しくさせる何かを持っていた。


「その」


 駄目だ駄目だ、自分の立場をわきまえろ。


 いや、だからこそわかるんだ、彼女の顔に浮かぶ何かしらの悲しみが。


 僕の頭は混乱していた。駄目だ、と、彼女への同情的な気持ちの間で、振り子が揺れている。


「帰ろうか」


 彼女は屋上の金網から手を離した。


「待って」


 言葉は頭よりも先に発動していた。


 彼女が僕の方を見る。目を軽く閉じる。何をされるのか怖くないみたいだ。ぎゅっと力を入れるのでもなく、まるで花びらのように綺麗なまぶた。


 近付こう近付いて、そう、このまま……。


「あ」


 口を開けっ放しなことに気付いた。このままでは彼女に近付けない。


 冷や汗が冷たい。


 体が固まって動かない。


「はあ」


 思わず出たのは溜め息だった。


 彼女のまぶたが上がる。少し潤んだ瞳が現れる。


「なんてね」


 笑って誤魔化したのだろう、彼女の表情もまた固かった。


「ごめん」


「あ。日が沈んだよ。本当はこれが見たかったの」


「ごめん」


 求められたのに出来なかったことと、思わずたかが外れそうになったこと。僕はもう何を謝っているのかわからなかった。


「ほら、一番星」


 でも彼女が笑うのなら、僕はいいんだと思った。


「もう少し一緒にいてくれる?」


 微笑んだ彼女と、幾つかの星達が笑っていた。


 そっと彼女の手を取った。


 横に並んで薄明るい空の星を見上げる。


 夢のような、一時。




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