優しい絶望
名前ある誰か
第1話僕の日記
その日、僕の絶望は始まった。
この十七年の人生で僕が一度も絶望しなかったと言うと嘘になる。少々。少しばかり嘘だ。
誰もが通るだろう思春期、もしくは今もその真っ只中、友達が少ないことで悩んだり、その友達が離れていったことで悲しんだり、少ない僕の人生にも色々あった。
高校生になってからはもっと深刻な問題にも直面した。苦しんだけれど、担任教師に健康の問題は早かれ遅かれ生きていればいつかは直面するものだよと言われて諦めた。
諦められた自分にびっくりだ。
誇らしくさえあった。
でもそれも過去の話。僕は今、出会ってしまったんだ。
総合病院に来たのは入院中の祖母を見舞う為だ。
祖母は体こそ弱ったかもしれないが、頭はしっかりとしている。
階段から落ちて骨折したのだ。
高齢の骨折は治りにくい。だから入院したのだが、見舞いに来た僕にプリンを渡そうと、折れていない足を動かし手を伸ばす。
このままでは冷蔵庫とベットの間に祖母が落ちてしまう。
結局は僕が祖母を支えて元の体勢に戻し、自分のプリンを自分で取った。
「清信ちゃん、まだまだプリンあるから持って帰ってちょうだい。おばあちゃんこんなに食べられないよ」
遠慮がちにもらった二個目のプリンが絶望なんて概念から転がり落ちた僕を変えてしまうとは思いもしなかった。
病室を出て、てかてかした廊下を歩き、一階のロビーに着いた。僕はもう一つの用事の為に受付に行き用が済むと同じ椅子が並ぶまるで昆虫か爬虫類か何かの卵みたいな所へどっしりと腰を下ろした。
平日のせいか、まだ午前中だからかロビーに人はあまりいなかった。待ち時間が退屈なので、僕はプリンをカバンから出した。
プリンを密閉しているざらざらした紙をはがす。そこで僕はスプーンがないことに気付いた。
目の前に艶やかな黄金色の固まりを目にして捨てることもできず、食べることも駄目だなんて。
僕はこの日一度目の絶望を味わった。
前歯でプラスチックのケースをかじる。そしてプラスチックケースを斜めにして舌を伸ばす。
誰も見ていないと思い舌を動かして何とかして食べようと試みた。
そこに僕と同じ年くらいの女の子が現れ、怪訝そうな顔をした。
二回目の絶望。
プラスチックケースを元に戻し、しなくてもいいのに笑った。ごまかしにはならなかったと表情の固まった女の子を見て思う。
瞬間的に決意が固まり、立ち上がってゴミ箱へプリンを捨てようとした。
「待って」
背中から女の子の声がした。
恐る恐る振り向く。声が怒っていたからだ。
「せっかく生まれてきたのに投げるなんてかわいそう」
意味を深追いはしなかったが、プリンを捨てようとしたことで女の子が怒っているのは確かだ。
「ごめん」
悪いと思う暇もなく僕は謝った。
「スプーンあるから、スプーンで食べて」
頷いた僕はもう元には戻れないと思った。
満足げな笑顔が突如目の前に咲き誇ったからだ。
嫌な予感しかしないのは、顔の火照りと心臓の脱線したみたいな鼓動を自分で意識してしまったからに違いない。
その女の子は再び椅子に座るよう僕を促した。当然のように僕の隣に腰を下ろす。
彼女は小さなリュックサックの中を探り袋に入ったスプーンを取り出した。幾つかあるスプーン入りの袋のうち一つを切り離す。
「使って」
「ありがとう」
スプーンを袋から取り出し、はたと横を見る。彼女は僕がスプーンをプリンに向けるのを微笑んで見ていた。
「よかったら……」
もう一個のプリンを彼女に差し出した。
「いいの?」
僕は頷く。
僕はスプーンの袋をもう一つ千切った。
小さなスプーンでプリンを一口ずつ口に運ぶ。その綺麗な動きとプリンの滑らかさと唇の形の美しさに心奪われた。
何やっているんだ。ただの下心じゃないか。
プリンなんてプリンなんてプリンなんて。
スプーンを使ってプリンを口に掻き込むのはあっという間だった。
ちらと横を見る。
食べるのに時間をかける彼女。
すぼむ唇。
僕と同じスプーン。
突如冷たくなった。身体中に汗が沸きだしたのだ。
プリンはあとどれくらいか。彼女はいつ行ってしまうのか。
このままプリンの消えるのを待つだけなんて。
違う。待ってなんかいない。待ってなんかいない。
「じゃあ」
軽く挨拶をして去ろうとした……した、はずだった。
「あ」
頬に指が突き刺さった。
でも僕が見たのは彼女の目だった。嘘のように笑っていた。きらきら輝いていた。
「ほっぺにプリン付いてるよ」
プリンを取って食べる。僕の頬に付いたプリンを。
「あ、ごめん、嫌だった?」
首を横に振った。我ながらぎこちない動きだと思う。
その動きに対して、優しい微笑みが返ってきただけだ。さりげなく。何の気なしに微笑んだその表情が僕の心臓をついた。
僕は本当は心臓の病気ではないかと勘違いするほどに。
「あのさ」
一言目ははっきりしていたのに、その後がダメであった。
「僕は僕はプリンをたくさん持っていて、その、ばあちゃんのれ、冷蔵庫に。たくさんあるから、良かったら?」
あれ、なんかおかしくなったぞ?
僕の笑った顔は醜いに違いない。下心が見え見えでないか。
「君のお祖母さん、プリンたくさんあるんだ?」
一瞬真面目になった顔は僕になにかしら負の感情を抱いたからに違いない。
立ち上がった彼女の背中。離れていく。
何しているんだ、僕は。
俯いた。床に落ちている埃を探してこの時をやり過ごそうとした。
「いいよ」
ポンと小さな音。ゴミ箱の前で振り返った。
「私、あなたみたいな人嫌いじゃないかも」
ロングヘアが揺れて彼女の口の端が上がっている。
「病院に通っているの?」
僕は頷く。
「次回はいつ?」
「来週の水曜日、同じくらいの時間には」
「じゃ、待ってる」
手を振る彼女に見送られて僕は病院を出た。
すぐに気付いた。
こんなの、ただの嘘でないか。
病院に戻る、程よい温度の空気が流れている。
ロビーに彼女はいなかった。
名前を呼ばれ診察室に僕は向かった。
その後、病院横の薬局で薬をもらう。
青空の天井が高く広がる昼下がりの出来事だった。
そして今、僕はこうして日記に向き合っている。
僕の病気は決して命にかかわらない。心の病気だから。
だから問題なのだ。
もし恋人なんてできたら長く相手を苦しめることになる。
恋人。
彼女。
僕はなんておこがましいことを。
彼女と言いながら、彼女の名前すら知らない。
それでいい。
もう心置きなく彼女を忘れられる。
そうか。
僕はこうして誰にも心打ち明けずにこの世から時間をかけて消えていくのだな。
文字がにじんで見えない。
一人、消えていく。
彼女のような優しい微笑みを二度と見ることなく。
心が墨のような黒に描き消されていく。
今日、僕は絶望を知ったのだ。
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