第4話 4月アリー
長いけやき坂を下った全体を下町と呼ぶ。まっすぐ先には海につながる港町、右には私の住んでる白岩町が、左には倉橋が住んでると言った赤川町が広がる。
坂の下には大きな看板があって「やればできる!」という文字にスポーツ選手らしき人物が栄養ドリンクを片手に笑っている。いつからあったのか看板の角や枠は、ところどころ赤茶色に錆びている。
中学の入学式は、この看板を目印に美波と待ち合わせした。
看板は目立つから、入学当初は待ち合わせに使われることも多いけど、少し経つと「やればできる!」が何となく恥ずかしくて、待ち合わせ場所をみんな変えてる。
私たちの待ち合わせ場所は、けやき坂東公園だ。
その名の通り、けやき坂の東側に広がる小さな公園だ。
私のお気に入りは、公園の奥にあるブランコ。銀の太い鎖はあちこちに深紫の錆がつきはじめ、漕ぐとキーコーキーコー寂しげな音を鳴らす。椅子は木目が削げ落ち、とても新しいと言える代物ではない。
私はいつも、ここで有砂と美波を待つ。
ブランコの他には、砂場があって、古ぼけたスベリ台があって、花壇があって、木々の間を抜けてサワサワと耳元を通り抜ける、緑色のくすぐったい風が吹いて私を和ませる。
二人を待つ時間。少しボーっとしながら軽くこぐブランコ。キーコーキーコー。
行って帰ってくるときのキュッと身が引き締まる朝風。まとわりついた髪がスッと抜け、シャンプーの香りがフワンと漂う。
「初音!」
待ち人来たり!
名前を呼ばれるこの瞬間が大好きだ。
美波が一人で息を切らして走ってきた。前髪が横を向き、額からジワリと汗が滴り落ちた。
「ごめん、遅れた」
「大丈夫」
「ちょっと用事ができちゃってさ、ごめんね」
美波は前髪を直しながら言う。おでこが広いから前髪が乱れるのが嫌だといつも気にしている。そんなに変じゃないんだけどな。
「あれ? 有砂は?」
指が少し早くなった。
「う、うん、今日は先に行くって」
今度は両手を使って直し始めた。瞳が前髪を見ようと上の方でキョロキョロしてる。
「そう……」
眉の下、一ミリ。眉毛が見えないギリギリのところ。
おおらかでドーンと構えた性格なのに、前髪だけはとても気にする美波。だからいつもだったら「大丈夫一ミリオーケイ! おでこ見えてないよ」なんて私から言うんだけど、ソワソワ感が拭えない。どうもそんな雰囲気じゃないみたい。
そのしぐさに一瞬、気になっていたことを聞くのをためらった。でも、ここは、やはり本題に入らせてもらおう。
「昨日、どうだった? あの後。有砂泣いてたから」
美波の指は止まり、少し諦めたように呟いた。
「うーん。相当ショックだったみたい」
やっぱり。
「そうだよね、倉橋のやつ、あんな言い方してさ、有砂の優しさがわかんないやつ」
「うーん。まあ、ねえ」
美波の素っ気ない返事を気にせず私は続けた。
「『初音が大変だから』って一生懸命になってくれた有砂の気持ち踏みにじって、失礼な男だよ倉橋は。女って嫌とか責任ないとか、私たちのことなんも知らないくせに……」
美波が言葉を遮った。
「そうじゃないの、初音、そうじゃないの」
「ん? なんで?」
間が抜けた表情だったと思う。
「うん、あのね、そういう理由じゃないの」
「え? じゃ、私、有砂になんかした?」
美波の両手が左右に揺れる。
「ち、違うの。そういうことでもないの」
「何? 何? 何?」
「あーん、だから、その、有砂は倉橋と一緒にクラス委員したかっただけ」
「へ? ってことは……」
「まあ、そういうことになりますね。ずっと前から好きだったみたい」
あちこち忙しかった美波の瞳がようやく真ん中に落ち着いた。
なーんだ、有砂……。そっか、そうだったのか。
うんうんわかる。好きでもない人に言われても頭にくるのに、好きな人からそんなふうに言われたらそりゃあ深く傷つくよね。
「じゃあ、あの後、有砂大丈夫だった?」
その後が気になって美波に聞いてみた。
「とりあえず、追っかけたけど、ゆっことか、未来ちゃんとか舞伽様とか、いろんな人に見られちゃって……。悔しいじゃん、なんかあったのかって思われたら。だから、途中で追いかけるのやめたの」
「追いかけるのやめた?」
美波は少し早歩きになった。そして、くるっと振り返った。
「でも大丈夫、夜ね、電話したから。ちゃんと話したよ。家でケーキ食べたら元気出たって。大丈夫だって」
「で、なんで今日は、先に行ったの?」
「うん、なんか誰かと約束があったみたい」
「そっか」
私も美波もそのとき、まだわかっていなかった。有砂の本当の思いを。
「おはよう、有砂」
教室の廊下側、私は有砂の座る椅子に手をかけた。
「あ、おはよう」
どことなく、うつろな目が泳ぐ。
「あ、あのさ、昨日、ごめんね」
「なんで初音が謝るの?」
有砂はゆっくりグーになる右手に視線を落とす。
私の目を見ない有砂に、少しとまどった。
美波の話を聞いてそれなりに安心したものの、私は昨日追いかけられなかったことを負い目に感じていた。それに、有砂の口から倉橋オズマが好きだって聞く前に、美波から聞いてしまったっていう、後ろめたさもあった。
「え、そうだよね。私なんもしてないよね」
ああ、こんな言葉じゃない。
有砂の唇が硬くなる。
「倉橋のやつ、ひどいよね、あんな言い方ないよね」
有砂が倉橋を好きってことは、私はまだ知らないことになってる。だから、こんな言い方しかできなかった。
「倉橋君、悪くないから」
キキッ!
椅子が悲鳴みたいな音を出した。
有砂は唇を噛みしめて席を立った。
「あ、有砂、今日の放課後、どこ行く?」
「クラス委員の仕事あるんでしょ」
「うん、でもなるべく早く終わらせるから、待っててよ」
「ごめん、私……約束あるから」
有砂はまだ私の目を見ない。
「アリー」
その時、文果が、ドアの向こうから顔を出し、有砂に向かって手を振った。
「あ、うん」
有砂が走った。急ぎ足で。そして、文果と一緒に教室を出て行った。
アリー?
なんでそんなに馴れ馴れしいの?
今まで有砂のことなんて見向きもしなかったくせに。文果のことが急に疎ましく思えてくる。
有砂は私の仲間。
気軽に声かけないでよ。
そんな心の叫びが聞こえてきたけど、有砂に限って……ないない……でもでも……やっぱり不安になった。
文果は舞伽様グループのサブリーダーのような存在。どうして有砂が文果と一緒に出ていくのか、私には理解できなかった。
と同時に、心臓が何かに押しつぶされそうになる。私は美波を探した。
いない。美波がいない。
黒板の前にシュッシュと体を丸くした倉橋が、チラッと横目で私を見た。
何事もなかったように、右拳を決めて、席に着いた。
おまえのせいだ!
私は心の中で倉橋のせいにした。
誰でもいい。誰かのせいにしたかった。
とても重要な問題のように感じる有砂の態度。今日一日中それは変わらなかった。
何度か話しかけようと努力はした。メールも入れた。返信はない。読んでくれてもいない。
でも、舞伽様グループに囲まれた有砂に、声を掛けることができなかった。
美波と一緒にトイレに行った時、有砂のことを持ち出そうと、喉まで言葉が出かかったけど、何となく言うべきか言わぬべきか迷っていたら、美波に問題を提示できないまま放課後を迎えてしまった。
美波だってきっと有砂の態度に不安を感じているはず。せめて少しでも美波と話したい。
クラス委員の仕事を遅らせてでも。
「美波!」
廊下を抜け、階段の手前で美波に追いついた。制服のスカートがフワリと広がった。
「帰り、一人なの?」
美波は、何となく浮かない顔をしながら、片手に持っていた携帯電話をポケットに入れた。そしてニッコリ笑いながら言った。
「うん。有砂は約束があるって、今、メール来たから」
「私も送ったんだけど、既読になるのに、返信来ないの」
美波の浮かない表情は、すっと消え、私に向けられたほほえみが私を安心させた。
その安心と、残り少ない時間を有効に使いたかったのとが一緒になって、きわめて短く美波に伝えた。
「ねえ、今日の有砂、変じゃなかった? 私の目を見ないし、舞伽様グループに吸い込まれちゃったっていうか、美波感じなかった? 有砂、変だよね?」
美波は、私に顔を近づけ肩から提げるカバンを少し直した。
「うん、私もそう思った。舞伽様グループがなんで有砂のこと『アリー』なんて呼ぶのか不思議じゃない?」
「そう! それに、なんで舞伽様グループにいるのかわかんない。昨日一日で、何があったんだろう?」
「言えてる」
美波はカバンを両腕で抱えた。
「昨日有砂は、ケーキ食べて元気出たんだよね? 大丈夫って言ったんだよね?」
私はもう一度美波に確認する。
「うん。電話したら『ケーキ食べたら元気出た』って『もう大丈夫』って言ってたから」
「そっか」
「落ち込んで帰ってケーキでも買いに行ったんじゃない? 有砂ケーキには目がないから」
「携帯は? 何かメールとか……。二クミチャにも問題なかった気がする」
二クミチャ。
二年二組の携帯グループチャット。
学校は携帯電話持ち込み禁止だから、主に家に帰ってから賑わいを見せる。クラスのほとんどが二クミチャに入ってる。
最初は連絡網の代わりになるし、おもしろいこと書いて笑える居心地のいいチャットだった。それも、クラス替え後三日間だけ。
一年の時のクラスチャットも、冗談交じりの悪口や、既読になっても返信しない人たちや、一定のグループに歯向かったりする人たち、いわば、チャット内で言う「非常識」な人たちに対して、カースト制度的ランクがつけられる場所だった。
去年それを経験して、バカらしいとは思うものの、極力何か言葉で返すか、スタンプでまかなって来た。
実際私は既読になっていようが、返信が遅かろうが全然平気だったのに、どこでどういうルールができたのか、何をもってそう感じるのかもわからないまま、みんなに従った。
みんなそうだったと思う。
一年の時より上級者になる。
二クミチャでそういうことが起こっても何気なくさりげなくみんな返していた。
誰も的にはなりたくないからだ。矢が射さると痛いからだ。だから誰しも上手に切り抜ける術を心得ていた。
その二クミチャも昨日から変わった様子はなかった。
しかし分析が終わってもなぜか納得できない。問題は今日の有砂の態度だ。
昨日それだけ元気になったっていう有砂。
それと、今日の態度とどう関係があるんだろう。
「まさかとは思うけど、倉橋と私がクラス委員になったのが、気に入らなかったのかな?」
たったそんなことで、今までの友情がなくなることはないと信じ切っていたものの、不安は顔を見せたり引っ込めたりしている。
「ねえ初音、初音はクラス委員やりたくなかったんだよね?」
美波がゆっくりした口調で質問する。
「もちろん」
私は大きめに頷いた。
「そうだよねえ、初音がそう思うこと自体、考えられないし。ましてや、たったそれだけで、有砂が変わるとも思えない」
美波は階段の手すりに片手を置き、「うーん」と唸って天井を見上げ、少し考えてから結論を出した。
「まあ、あんまり詮索してもかわいそうだし、とりあえず、私もまたメール入れてみる、会ったら話しかけてみるから。初音、クラス委員の仕事あるんでしょ? もう行かなきゃまずいんじゃない?」
そ、そうだった。倉橋、怒ってるかな?
「ご、ごめん、美波、また明日ね! なんかあったらメールして!」
そう言って私は振り返ると、学校の規則を無視して廊下を走り抜けた。
「ごめんなさい! 遅れました!」
「十分遅刻でーす。責任ねえよなあ、弱音ちゃん」
倉橋は椅子の背にもたれながら時計を見た。
弱音でも何でもいい。今日は私が悪い。責められても仕方ない。
「で、問題解決したの?」
「へ? なんで?」
「そりゃあ、クラスメイトだし、一日同じクラスにいるわけだから、何となくいつもと違うなってのは、わかるでしょ」
「あ、うん。ごめんね、遅れたのは私が悪い。責任ないって言われたら今日は認める。でもね、私たちにとって重要な問題だったから」
なんか言い訳がましいけど、私にとっては正当な理由だった。
「私たちにとって重要な問題か」
「そうだよ。有砂も美波も私の友達だもん」
「私たちにとって重要な問題って大切だと思うよ。でもさ、弱音は、自分が安心したかっただけじゃねえの?」
ホーントにムカつく。
「だから謝ってるでしょ、遅れたこと、そんな嫌みな言い方しなくてもいいじゃん」
――安心したかっただけ。
そうかもしれない。私が不安だったから、美波を探したんだろう。私が安心したかったから、クラス委員の仕事を遅らせてでも美波と話をしたかったんだろう。でも、それは美波だって同じはず。美波と私が話すことで両方が救われるなら、それでいいと思う。
それがなんでいけないの?
――安心したかっただけ。
悔しいことに、その倉橋の一言に、私は夜中まで悩まされた。
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