第3話 4月有砂の涙
放課後の教室って、こんなに静か。私たちはいつも、チャイムと同時に外に飛び出していたから、この静けさを知らない。
ガランとただ広いだけの教室。
少し開いた窓からは若葉の香りが心地よく入り込み、『友情・信頼・責任』の模造紙が小刻みに揺れる。学年目標のスローガン。
友情は間違いなくある。信頼もあると思う。
責任は……。どうだろう。私の目標なのかもしれない。
たまに聞こえてくるサクサクと廊下を行き交う人々の足音。駆け足だったり、ゆっくりだったり、耳をすませばこんなによく聞こえるんだ。
音に飲み込まれそう。
「初音!」
「お待たせ」
美波と、有砂。
「うん、ごめんね。つきあわせて」
「いいのいいの」
有砂のくったくのない笑顔。でも有砂の瞳は、私を通してずっと遠くを見ているようだった。その先にある何かを待ちこがれているような、ポーッと桜色に染まる頬。
「ういーっす」
倉橋オズマ。クラス委員。
「ういーっす」
私も真似た。
「あれ? オニヤンマは?」
倉橋がキョロキョロと教室を見回す。
「まだ」
「で、その方たちは?」
「あ、あの、あの……」
「お手伝いです」
有砂のとまどった言葉を美波が助けた。
「ふーん。女って、なんかね」
倉橋は右斜め上から横目で見下ろした。
何、このイヤーな間。空気が汚れる。お手伝いって悪いこと?
「いいじゃん。大変なお仕事なんだし、お手伝いしてくれる人多ければ」
私は汚染された空気を入れ替えようと試みた。
「責任感ねえよね、お前」
「え? 私? 何でよ」
責任感って……、そんなこといきなり言われて何なの?
「もういいから」
有砂が勢いよく席を立った。桜色の頬に流れる涙。
え? 涙……?
「集まってるな、お? なんだ坂井、加藤、部外者は帰れよー」
とっても明るいオニヤンマ。
もう、場を読めないんだから。オニヤンマのそういうスットンキョなところ、なんだかイライラする。
「だから言ったじゃん」
倉橋オズマ。一言多いよ。
その一言が追い打ちをかけたのか、有砂の背中が大きく震える。有砂はそのまま振り向かず教室を出て行った。
「有砂!」
美波が後を追う。
「有砂!」
私も……。
「ほーら、責任感ないじゃん」
言いたい放題の発言に喉まで出かかった言葉をぐっと飲み込んだ。
私は後を追いたかった。私のために残ってくれた有砂にひどいこと言った倉橋なんて、この場に置き去って、走って有砂を追いかけたかった。
でも一理ある。確かに。ここにいるのは私の責任。いくら投票で仕方なく決まったとしても、受けた以上は、副委員長である以上は、ここにいることが、今の私の最大の責任。学年のスローガンで、唯一私にないところ。
後は美波にまかせよう。ちゃんと有砂を守ってくれるはず。
美波なら伝えたいことはハッキリ言うし、何よりも有砂からの信頼度は私より高い。
彼女にまかせておけば、きっと上手くやってくれる。そう見込んだ。私は私の仕事しよう。
結構あるもんだな。前期の行事。ゆえにクラス委員の仕事。
オニヤンマが持ってきた年間スケジュールやクラス委員のノート、前年度学級目標などの資料を確認する。
まず手始めに、クラスの目標を学活で決めるのか。議長に倉橋。書記が私。記録係みたいなもん。その後、ズラッと並ぶ二年生の行事。前期に集中してる。
文化祭、体育祭だの、夏の夕べだの、何これ? 後期は三年生になる準備期間でもあるし、三年生にとっては受験に備えるためにあんまり行事がないらしい。
だからって一学期に詰めすぎじゃない? これ、みんな私たちでまとめるの?
「結構ありますね」
資料に目を通しながら倉橋は細かい予定を長い指で追う。
「だからお手伝い頼めば良かったのに」
言葉を追加したつもりだった。
「おまえ、初音じゃなくて弱音だな」
追っていた指が止まり、垂れた前髪から茶色の瞳が光る。
ムカッ。
瞳に威圧されるのが悔しくて睨み返した。
「まあ、とにかくふたりで協力して、まとめてってよ」
オニヤンマは組んだ両手を後ろの頭につけて上を向いた。
なに、この先生? ノンキすぎ!
一気に重くなる。さっきから汚れた空気が淀んでる。窓開けなきゃ窓! 全開に!
私の放課後返してよ!
ノンキなオニヤンマと、憎らしい倉橋オズマ。
私の放課後はこんなやつらと時間をわかちあっている。
トーンダウン。ネガティブ。マイナス思考。
こんな言葉たちがこれからの生活につきまとうかもしれない。そう思っただけで憂鬱になった。
書き終えたノートを叩くように閉じてから、大急ぎでカバンに突っ込み、「お疲れ様でした、お先に失礼します!」って声かけて、慌てて教室を飛び出した。
美波たちどうしたかなあ? 待ってるわけないよね。あんなことあったんだから。
カバンの底に手を伸ばし携帯を探る、まさぐる、何かがまとわりつく。
ようやく取り出した携帯電話。有砂と美波からのメールはなかった。
美波に「今、終わった、有砂はどうだった?」とメッセージを送った。
一人で下るけやき坂。こんなに長かったかな?
「おーい弱音、お前の家どっち?」
耳の後ろから聞き覚えのある憎らしい声が近づいてきた。倉橋だ。
「けやき坂下って右、白岩町」
「下まで一緒じゃん、俺んち赤川」
「そう……」
「いろいろ大変だと思うけど、どうにかなるよ」
「うん。そうだね」
倉橋の言葉が耳をすり抜けてゆく。
有砂の涙が気になっていた。何度も携帯を出して覗いてみる。
美波からの返信はまだ来ない。
「携帯禁止じゃね?」
「みんな持ってきてるよ。倉橋は持ってこないの?」
「俺、携帯もってないし」
「え? 家にも?」
「母ちゃんがうるさくて……ってのは嘘。必要ないじゃん」
「今時……? 親の方針で高校に入ってからって人もいるけどさ、自ら持たないの?」
「うん、好きじゃないんだ」
「好きじゃないって、持ってたことあるの?」
「ないよ」
「あー、操作が難しくて、ついていけないんだー」
きっとそうだ、こんなに便利なものはないのに。
「違うよ」
長いマツゲを落とす。頬に陰が差す。
なんか聞いちゃまずかったかな。それとも私の言い方が悪かったのかな。
「アナログ人間なんだぁ」
少しふざけてみた。
「まあ、そんなもん」
笑顔。だけど、やっぱどことなく……。
私は不審な顔をしていたんだろうか? 倉橋が話を変えてきた。
「弱音は部活やらねえの?」
「あのー私弱音じゃなく、初音なんですけど」
一瞬キョトンとした目がすぐに垂れた。
「では初音さん、部活は?」
「うん、週二でバレエだから」
「ああ、学校外活動ね」
――学校外活動。
中学生になって部活に専念する人もいるけど、この学校のシステム、絶対部活に入らなければならないってこともない。でも帰宅部は学校側から注意がくる。
そのかわりに、小さな頃から続けている習い事や、勉強にいそしむのであれば、部活免除となる。もちろん証明書が必要なんだけど。
私の場合、バレエがあった。
だからって、「将来バレエの道に進みたいか?」って聞かれたらそうでもない。
はじめたきっかけは、ママの勧めと、私自身の単なる欲から。
幼稚園の頃、見学に行ったバレエ教室で、同年代くらいの子が、ピンク色の羽が生えたようなかわいいレオタードを着てバーにつかまり、足を高くあげていたあの光景が、衝撃的だったから。
見たことない優雅さと、お姫様のようにヒラヒラ舞う衣装と、足の高さが何とも不思議で、夢の中にいるみたいだった。
それはとっても大げさだけど、当時の私にしてみれば、キラキラ輝いて見えたことは嘘じゃない。今思えば、単にお姫様の世界に憧れた子どもだったよなって。
ずっと続けてきたけれど、練習は毎回同じことの繰り返し。最近何で踊ってるのかわからなくなってきたところ。
だから、バレエは口実に過ぎない。
美波はピアノ。有砂は、お茶とヒップホップ。私は週二でバレエやって、週二で美波と有砂とで、集まってる。その方が私の時間、有効に使えると思ったから。
「倉橋は?」
「オレ? オレはさあ、これだよこれ」
右手と左手、一瞬見えなかった。シュシュっていう風の音も聞こえた気がした。
「ボクシング?」
「弱音、弱音からの脱出方法教えてやる。
まず、足は肩幅、右足少し後ろ、で、うちまた……両脇締めて、そのまま思いっきり右手前に出す」
言われるままにポーズを作ってみる。
シュッ。右手のこぶしに、顔に、体に、風を感じた……。
――ん?
「ちょ、ちょっと待って、私弱音じゃないし、脱出もしたくないから」
ゲンコツを遠くに出したまま倉橋をにらんだ。
「そっかなあ、お前、自分をわかってないと思うよ。いい意味でも、悪い意味でも」
なんか、ム!
「っていうか、倉橋に言われたくない! 私のことなんて知らないくせに! 有砂のことだってそう、人の気持ちとか、わかってないのは倉橋の方でしょ! 有砂は私が大変だからって、一緒に手伝おうとしてくれた。なのに、あんた、『女ってイヤ』とか、『責任無い』とか、言いたいこと言ってくれちゃって、責任無いのそっちじゃん。どうしてくれるのよ、有砂泣いてたし」
「スッキリした?」
――え?
「言いたいこと言ったらスッキリしたんじゃね? でね、ムカついたときとか、イライラしたときとか、納得できないことが起こったときとか、パンチ出すと気持ちいいよ」
倉橋は背中を丸めて縮こまった。
と思ったら、右右左左って、グーを放つ。
出す腕が一瞬消える。
なんか、気が抜けた。私一人ばかみたいじゃん。
「初音はさ、そんなとき、バレエのクルクルまわるやつとかやんねーの?」
「くるくるまわるやつ?」
「あ、あと、こういうの」
倉橋は両手を左右に広げて左足を軸に右足を後ろへ蹴った。
「アラベスクか……。でもあんたの変形アラベスク。もっと、足上げるの、こう」
思いきり背中を使って右足を後ろへ蹴りあげる。
「ヤバッ! 気持ちよくね?」
「うーん? 小さい頃からやってるからねえ。別に気持ちいいとか……考えたことなあい」
気持ちいい?
うん。考えたこと無い。
何で私今足あげてるんだろう? とか、何のために踊ってるの? とか、そういうことは最近考えるけど。
そのとき私の顔に、けやきの葉が一枚落ちてきた。
「まだ、青いのに」
倉橋が言う。
「青いから何?」
「青いのに散るなんてかわいそうじゃねえ?」
「かわいそうか」
「しっかり落葉してから落ちたかったよな」
「そんなふうに考たことないから私」
「じゃあ、考えてみろよ」
「……」
一瞬止まった。だって、そんなこと考えたことなかったから。考えてみろって、考えてどうなるんだろう? 無駄のような気がする。
「考えたけど……いいんじゃない? 運命なんじゃない? その葉っぱの」
なんか倉橋のペースに乗せられるような気がして反抗したくなったから、すんごく冷たく言い放った。
「運命か」
「そう運命」
「なんだって寿命があるもんな。じゃあ、自分だったらどうする?」
「へ? 自分って?」
「この葉みたいに若いうちに散っちゃったら」
長細く先のシュッと尖った緑の葉を掌に乗せてジッと見つめる倉橋。
「あのさあ、それこそ考えたことないよ。さっきからなんなの? 別にいいじゃん、どうなったって。こんな葉っぱ一枚の運命についてあんたと語りたくないの」
笑った。ヘラヘラと。お腹を押さえて。思いっきりバカにされてる気がする。何笑ってんのよ。なんか、なんかムカつく、この人。
「まあ、弱音の答えらしいな」
「私、バカにされるの大っ嫌い」
「なんでもさ、入れ替えて考えるとおもしれーぜ、いろんなことわかってさ。これ、やるよ」
さらりと言う。そんなつまんないことを。
よほど暇なんだろうな。
「暇じゃないから、私」
「まあ、いいや、じゃ、明日な」
倉橋が片手を高く挙げた。
私の手の中には、けやきの葉がザラついた感触だけを残していた。
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