第29話 クッキー

 校門前の大きなけやきを右に曲がる。

 まっすぐなけやき並木が住宅街に続く。

 

 文果、私、そしてのーちゃん。

 並木道沿いの歩道を走る自転車を避けるとき、「あ、すみません」程度の会話しか交わさないまま、舞伽様の家に行く近道を通る。

 生い茂った草が両脇に葉先を揺らす。

 冬の名残を消すように、サラサラとなびく風に乗って小鳥たちのさえずりが聞こえてくる。

 『この先危険』の看板が斜めにしなだれる。

 沼池へ抜ける道の先。少し小高い丘が広がる。ここから見える沼池は、連山に沈む夕日に照らされ、黒に近い水面に光が映し出される。まるで満天の煌めきを描くように沼池全体が星空のように輝く。

 

 丘の先に見覚えのある一点の紺。

 ぎこちない足取りで進む私たちの目の前に現れた一点の正体は、牧村君だった。

 「牧村君?」

 呼びかけると牧村君はメガネを片手で上げ、本を閉じ、コチラをチラリと見た。

 「何やってんの?」

 「本を読んでました」

 それは、見ればわかる。

 「フィットチッドとマイナスイオンか」

 「まあ、それもありますが……」

 「待ってたんだろ?」

 文果が横を向いたまま言い放った。

 「僕もお供してよろしいでしょうか?」

 ――は?

 「お供って?」

 「舞伽様の家に行くんですよね?」

 「行きますが……」

 「僕も連れていってください」

 文果はあきれた口調でぶっきらぼうに言った。

 「だからストーカーって言われんだよ」

 「水島さん、僕、意外と役に立ちますよ」

 そう言って牧村君は本を差し出した。

 文果は本をまじまじ見てから「勝手にしろ」と言い捨て、四人の……三人とのーちゃんの先頭を切った。

 

 焼き物のような白壁に、紫色の帳が下り始め、やがて黒に染めてゆく。

 ほんの少しの間だった気もするし、ずっとそこに立ち止まっていたような気もする。

 さっきまで先頭に立ち、勇ましくもあった文果の行き足が弱まり、続く二人とのーちゃんも白壁に投影される夜の始まりをじっと眺めながら、文果の決断を待った。

 

 「行くよ」

 振り向いた文果の瞳は揺るぎなく、迫りくる闇へ挑む決意を物語っていた。

 白壁伝いに病院の裏手へ進む。

 闇に浮かぶ白亜の城。門構えの前でインターフォンを押す。

 「どちらさま?」

 「水島です」

 「文果ちゃん?」

 「はい、あの、舞伽さんに話があって」

 「ちょっと待っててね」

 数分後に玄関の明かりが点り、奥の扉から神妙な面持ちで顔を出したのは舞伽様のお母さんだった。

 「こんばんは」

 文果が声をかけ、私たちも挨拶をした。

 「文果ちゃん、いろいろごめんなさいね。とにかく中に入って」

 

 樫木張りの重厚なドアを開ける。うつむいていた顔が斜め上を向く。それほど広いリビングだった。

 白を基調とした壁に木目のフローリング。

 手前には見るだけで柔らかさのわかるソファー。

 「あの、はじめまして、清水初音と申します」

 舞伽様のお母さんは少し狼狽えると「あなたが清水さん? ごめんなさいね。舞伽が……その……あなたに暴力を……」

 「いえ、そんなんじゃないんです」

 きっぱりそう答えると、不安そうなお母さんの表情にほんのり笑みが浮かんだ。

 「ここで待っていて、娘が焼いたの、召し上がって」と、紅茶と共に出されたクッキーを手のひらで案内すると、小走りで部屋を出て行った。

 

 あ、おいしい。

 私はカバンをキュッと抱えた。奥に眠る私のクッキーとは大違い。こりゃ、出せないよなあ。

 のーちゃんは私の背中に、後ろからかぶさるようにピッタリと張りつき、私が動くたびに一緒に体を揺らす。もちろん重くもなければ動きにくくもないのだけれど、何となく必死さが伝わってきた。

 

 怖いのかな……。

 のーちゃん、私だって、怖いよ。でも逃げちゃダメ。私も逃げない。見守って、感じたこと言うから。

 

 私の左隣で分厚い本を抱え、じっと天井を見つめる牧村君。右隣の文果は、真一文字に口を閉ざし、一言も話さなかった。

 

 何分たっただろう。

 ドアの開く音と共に、院長先生に連れられた舞伽様がムクれた顔つきで入ってきた。

 後ろ髪を簡単に束ね、赤いパーカーとジャージ姿。いつも身なりはきちんとしているのに、とてもオシャレとは言えないラフさが部屋にひきこもっていた様子を伺わせる。

 

 目の前のソファーに院長先生と舞伽様が座った。

 「お父様は、外してください」

 舞伽様がキリリとつぶやく。

 院長先生は舞伽様の言葉を無視するかのように「このたびは、うちの出来損ないが、申し訳ない」と頭を下げた。

 出来損ないって……。

 私は違うのにと思いながら、倉橋の言葉を思い出していた。

 ――水島と磯崎さんの問題だからな。初音はそのままでいいんじゃね?

 

 「舞伽、あたし、舞伽を守りたい」

 その時、文果が口火を切った。

 舞伽様は何も言わなかった。

 「でも、我慢しない」

 「文果ちゃん、その通り、舞伽を鍛えてやって、何しろ弱いから。ワッハッハ」

 腕に注射針を刺した時みたいに、院長先生は舞伽様を嘲笑った。

 「今回の停学も、大学受験に関わってくるからね、医大に行ってもらわないと困るんだよ」

 「またその話? 関係ないでしょ。お父様は外してください」

 「関係ないわけないだろ、お前はこの病院を継ぐんだ」

 「はっきり言いますけど、舞伽は医者じゃなくて、パテシエになりたいって思ってるはずです」

 

 いつの間にか「舞伽」って呼び捨てになってる。文果の意思なのかな。文果が応戦すると、舞伽様の肩がピクッと揺れた。

 院長先生は怪訝そうに文果を見下ろし、火消しに走った。

 

 「文果ちゃん、分かってほしいのは、これは磯崎家の問題なんだ。こんなクッキー一つ、誰にでも焼けるんだよ。舞伽にはこの病院を継いでもらわないと困るんだ」

 優しげな口調だったけど、針のごとくチクっとする重々しさを感じた。

 「うちは、ひとりっ子だからね」

 「諒にいちゃんが死んでからはね」

 院長先生を遮り、舞伽様が火種を広げる。

 「諒はお前と違って良くできる子だった。あんな事故さえなければ……」

 な、なんか、肩が重い。のーちゃん?

 「お前が諒の分までがんばらなくてどうする」

 「諒にいちゃん、諒にいちゃん、諒にいちゃん! お父様はいつだって、そうやって私と諒にいちゃんを比べて、私のこと見てくれてないでしょ? 私が作ったケーキもクッキーも、諒にいちゃんが死んでから、一度だって食べたことなかったよね? 私が好きなこと、私ががんばってること、認めてくれたことある?」

 涙が溜まった目元から、一筋、二筋と押さえきれずに流れ落ちる。

 

 「舞伽、私は認めてるよ」

 文果が間に入る。

 「舞伽、お前が医者になったら認めてやる」

 院長先生と舞伽様の攻撃戦が激しさを増す中、左隣の膝が揺れている。妙に気になる。

 「医者になんてなりたくない!」

 「病院はどうなるんだ」

 「知らない!」

 

 左隣の揺れが止まった。

 「あの!」

 急に立ち上がった牧村君は直立不動でこう言った。

 「ぼ、ぼくが医者になります!」

 

 ――は?

 烈火のごとく燃え盛った炎を消したのは牧村君だった。

 広いリビングが静まり返った。

 

 「今、ぼく、医学書を読んでいます。理系のぼくにできることは医者になって、婿に入ることです」

 目が点になるって、こういうことなのかな?

 「何を言ってるんだ君は」

 院長先生の怒りの矛先が変わった。

 「牧村君、何言ってるの?」

 院長先生とほとんど同時に発せられた舞伽様の声は頭から突き出るような高い声だった。

 

 「いや、あの、もちろん、もっと自分を磨いて、勉強もして、医者になったらの話で……。でもぼく、本気です」

 だからストーカーって言われるのか。

 

 「牧村君と言ったね? 君が医者になるのは勝手だ。だがな舞伽をやるわけにはいかないんだ」

 院長先生がまともに返す。

 「いえ、もらおうなんて思ってません。ぼくを差し上げます」

 

 確実に主役を奪われた文果が、片手をおでこにつけて頭を振っていた。

 「君は医者をバカにしているのか?」

 確かにそう受け止められてもおかしくない。

 いかんせんこのままでは……。

 「あのお、うちもひとりっこで代々続く植木屋ですけど、パパはもう諦めてます」

 とは言ったものの、牧村君には及ばず。

 考えて絞り出したセリフに自分で呆れた。

 

 考えるな。感じたことを伝えろ。

 考えない。考えない。

 院長先生が一口で飲んだ紅茶をガサツに置く。

 のーちゃんが私の背中から離れ、テーブルの上でプカプカ浮かんだ。

 

 あっ、クッキー。

 「あのお、院長先生、せっかくなので、舞伽様のクッキー召し上がってみてください。あと……」

 きっと出番はないなと思っていたカバンの奥のクッキー。カバンから取り出してそっとテーブルの上に置いた。

 

 「あの、舞伽様から以前頂いたクッキーのお礼です。初めて作ったんです。不味いと思いますが、どうぞ召し上がってください」

 

 文果はすかさずラッピングを解いて不格好なハート形を小皿に配った。

 配られてしまったからには、みんな手を付けないわけにはいかない。

 「いただきます」

 文果がハートをかじる。紅茶に手を伸ばす。もう一口食べる。紅茶を飲む。

 「うん、いけるいける」

 

 牧村君が一気に頬張った。ゴホゴホしながら紅茶を飲み干す。

 

 舞伽様が手で割って口に入れる。何も言わずに片割れを小皿に戻す。

 「お父様もどうぞ」

 文果が再度促す。

 

 「そうだね、せっかく作ってきてくれたんだ。頂こうかな」

 そう言って私が作ったクッキーを口に運んだ。

 「こりゃ、本当に不味いな」

 そこまではっきり言わなくても……。

 「舞伽様のクッキー食べてみてください」

 私が勧めても院長先生は手を伸ばさなかった。

 

 「あの、私、とても落ち込んでるときに、舞伽様からクッキーを頂いて、すごくすごく美味しくて、がんばろうと思えました。私だけじゃないんです。友達もそうです。いろんなことで悩んでいた時に、舞伽様から手作りケーキを頂いて、その子は救われました。舞伽様のスイーツを食べたくて、たくさんの人が、夏の夕べのスイーツショップに並びました。みんな笑顔になれました。舞伽様のスイーツは人の心を和ませるそんな力を持っているんです。だから、召し上がってみてください」

 

 カチコチに緊張しながらも、素直に感じたことを言えた気がした。

 院長先生は黙ったまま舞伽様のクッキーを一つとりあげ、口に放り込み、目を閉じたままゆっくり飲み込んだ。

 


 

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