第30話 やる気効果
これで良かったのか悪かったのかわからないまま私たちは玄関を出た。
「清水さん!」
呼び止められて振り向くと、舞伽様が玄関から小走りに走ってきた。
「この間は悪いことをしたって反省してる……ごめんなさい。でもね、やっぱり清水さんのこと、好きになれない」
――え?
はっきり言うところはお父さん譲りだ。
はあ、そうですか……とも言えず。
舞伽様の三メートルほど上の辺りでのーちゃんがふらついていた。
そうだよね、のーちゃん。言わなきゃね。
「あの……私のことは……いいんだけど……お兄さんや倉橋のお姉さんのことは、もう許してあげてほしい」
舞伽様はじっと黙り込み、私から目を背けた。
「倉橋だって、お姉さんを亡くしてるんだよ。辛いのは同じだよ。責任押し付けたら、倉橋だって前に進めない」
「そばに……いてほしかっただけ。お姉さんのことも、諒にいちゃんのことも、もうとっくに許してる」
目を背けたままパーカーの紐を直すふりをする。
「オズマが離れていくのが、怖かったの。一緒にいてくれる理由がほしかったから」
同じ、かもしれない。
私も副委員じゃなくなった日から、いつも当たり前のようにいてくれた倉橋がいなくなったと思い込んだ。運命共同体だと思っていた倉橋に突き放されて、ひとりぼっちになったってずっと思って来た。
ただそばにいてほしかった。だからこう言った。
「素敵な理由だと思う」
舞伽様はビックリした表情で顔を上げた。
「誰だってあるよ。いてほしいときにいてくれないもんだよね。いくら素敵だからってその理由に頼っちゃダメなんだと思う。素敵だから大切にしなくちゃ。倉橋だって舞伽様の笑顔、元気な姿、見たいと思うよ」
舞伽様は私の目の前まで来ると、「これ、どうぞ」と言って一冊のノートを差し出した。
そのノートには「マイ スイーツ レシピ」の文字とケーキやクッキーの可愛らしい絵が描かれていた。
「舞伽様、これって……」
「最初は誰でも上手に焼けないけど、練習すれば大丈夫だから……私が小学校の時にスイーツのこと、書いていたノート」
「いいの? 大事なノートなんじゃない?」
「あげるなんて言ってないでしょ。読んだらちゃんと返して。それに……あんなに不味いクッキー、食べさせられる人が気の毒でしょ?」
舞伽様はツンケンしながらノートを私の胸に押し付けてきた。
「あ、ありがと」
私がお礼を言うのと同時に「それから、文果!」と舞伽様は振り返って文果を見た。
「は、はい!」
文果は頭をビクッと震わせた。
「舞伽でいいから」
文果と舞伽様の間に音のない風が流れ、硬直した文果の口元に柔らかな笑みが戻った。
「あ、うん」
「それから、ストーカー!」
「え? 僕のことですか?」
「他に誰がいるのよ」
舞伽様は腰に腕をあて、仁王立ちしながら牧村君を睨みつけた。
「な、何でしょうか」
「医者になれるもんなら、なってみなさいよ! 医者になったら……医者になったら……考えてあげてもいいわ」
牧村君は医学書を地面に落とし、文果は目を丸くし、上の方でフラついていたのーちゃんは、舞伽様の目の前にものすごい速さで現れ、私の頭の中には「考えてあげてもいいわ」が、円を描くようにグルグルとまわっていた。
「は、はい! 絶対医者になります!」
牧村君はまたもや直立不動のまま、直角に頭を下げ、お辞儀をした。
「いい? 考えるだけだからね」
舞伽様が念を押すように告げた。
顔を上げた牧村君は今までに見たこともないくらい濃度の高い笑みを浮かべていた。
沼池を過ぎ、細い道を通り、けやき並木通りに出るまでの間、牧村君は得意分野の宇宙の話をひとり言のように呟いていた。
「ヒッグス粒子が……暗黒物質は必ずある……いや、わかってる粒子じゃないんだ……うーんだとすれば……」
渋い顔をした文果が「私はここで、また明日ね」と言って、さっさと横断歩道を渡り上町方面へ消えていった。
その後も続きを聞かされながらけやき坂を下った。牧村君の話を半分だけ聞いて、胸に抱えていたノートを開く。
街灯の淡い光がページを照らす。
四年三組、磯崎舞伽。シフォンケーキ、マーブルクッキー、チーズケーキ。パラパラとめくった一ページ一ページに詳細に描かれた絵とレシピ。きちんと注意事項もポイントで書かれていた。
一番最後のページをめくった時、ハラリと一枚の紙が落ちてきた。
有頂天の牧村君を放りっぱなしにして拾った紙は、少し茶色がかった原稿用紙だった。
「しょうらいのゆめ
一ねん一くみ いそざきまいか
このあいだ、ママといっしょに、クッキーをはじめてやきました。こながクッキーになるなんて、とってもふしぎで、つくることってたのしいとおもいました。でも一ばんうれしかったのは、おにいちゃんが「まいかのクッキーはすごくおいしい。しあわせなきもちになれるよ」といってくれたことと、パパが「しょうらいはケーキやさんになれるぞ」といってくれたことです。
そのとき、わたしは、しょうらいのゆめがきまりました。
ケーキやさんになって、たくさんの人にケーキやクッキーをたべてもらって、しあわせなきもちになってほしいです」
最後のページには
「まいかのクッキー、おいしかったよ。しあわせなきもちになれるよ。ありがとう。りょうにいちゃんより」のメモと四人で笑う磯崎家の写真が貼られていた。
自然と涙ぐんでいた。
舞伽様の想いが頭のてっぺんをつんざき、割れるような痛みと共に胸がちぎれそうになった。
これが、諒さん。こっちが諒さんの字なんだ。
諒さんをとても身近に感じる。
のーちゃん、見て。諒さんだよ。
笑ってるね。
のーちゃんは私の肩越しからそっと顔を出した。目がないから見えないのかな。きっと見えてるよね。
「僕、やりました、清水さん、気が付きました?」
ようやくひとり言から脱出。私の存在に気づいてくれたようだ。
「ど、どうしたんですか?」
「なんでもない。あくびした」
「僕の話、つまんなかったですか?」
「大丈夫、ちゃんと聞いてたよ。半分だけね」
「あははは、おもしろいですね」
「それで? 何をやったの?」
手で目元を拭いながら牧村君に聞いた。
「過冷却ですよ。ぶつかってバーンです」
「爆発したんだ」
「何もないところから、一粒の光が生じたんです。これは宇宙の原理と同じだ! ああ、すばらしい、いや、何もないわけじゃない、あったんですよ。量子的真空にも、それになる何かが!」
「当たって砕けろ、やってみないとわからないってことなんじゃないの?」
「清水さん! それは違う! そんなに簡単な理屈じゃないんです! 奥深いところでは、一線になるのかもしれませんが」
「どういうこと?」
「宇宙に始められたように、始めることができるんですよ。僕たち、宇宙の一部なんですから」
「はじめる……」
「そういう瞬間って、誰にでも、何にでも、どこにでもあるんじゃないかと思うんです」
牧村君の話で、もう涙は消えていた。牧村効果はすごいと思った。
「あのさ、なんか、不思議とそう思えてきたんだけど」
そう素直に伝えると、牧村君は笑みを浮かべてものすごい勢いで話し出した。
「銀河系だけの歴史を振り返ってみても、現在までに二億個ほどの星が爆発したと考えられています。人間の体の中には炭素や窒素、酸素、鉄といった元素が存在します。これらの元素は星の中心部にある高温の炉でしか作ることができないんです。つまり、星が爆発し、元素を宇宙にばらまき、やがて小さな青い惑星に集まってくれたから、地球ができて、僕たちが生まれることができたんです。ゆえに、元をただせば僕たちは宇宙の一部。宇宙にできて僕たちにできないことなんてないんです!」
「なるほどー なんとなくわかった」
「本の受け売りですけどね」
理に適ってる気がするのがちょっとシャクに障るけど、牧村君の本の受け売りを、まともに受け入れる自分がいた。
「宇宙の一部か」
「そうです。もっと詳しく話すと、宇宙にはまだ見つかっていない暗黒物質と呼ばれるエネルギーがあって、そのエネルギーの占める割合は、全宇宙の七十%以上なんです。そのエネルギーのおかげで宇宙は今でも膨張している。のっぺらぼうの初期のころとは全く違う動きを……」
「はいはい、うんうん、わかった、わかった。今度ゆっくり聞くよ」
それにしてもかなりの高揚感が伝わってくる。
そのテンションの高さから、牧村君は相当機嫌がいいってことはよく理解できた。
舞伽様効果かな。
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