第27話 ここだけの話

 『やればできる看板』で二人と別れて、私は港方面へ足を向けた。

 発表会まであと二十日。

 

 最近ようやく「飛ぶ」感覚が分かり始めてきた練習が、楽しくて仕方ない。

 だけどマリ先生は「まだまだだ」と言う。

 決してほめないのだ。

 今日こそはマリ先生に少しでも認めてもらいたい。

 知らないうちに、意気込みが大きくなる。

 

 鏡に向かってうしろ髪を持ち上げ、アップにする。キュッと丸めてお団子を作る。

 気持ちが引き締まる瞬間だ。

 鏡の向こうにのーちゃんがフワリフワリ揺れていた。

 今日はもっと高く飛べそうな気がする。

 気がする……だけかもしれないけど。

 

 「初音ちゃん、大変だったね」

 教室では話せないこと。ここなら話せる。

 未来ちゃんは今でも変わらず、ここで話しかけてくる。もちろん教室でも会話はあるけど、ここでしか話せないことが、未来ちゃんにとって大切なことだと言う。

 「うん。でも、こうなって良かったと思ってる。あとはこれからだから」

 「私はてっきり文果がやってることだと思ってた。舞伽様がねえ。ちょっとショック」

 「すべて悪いわけじゃないと思うけど」

 「舞伽様グループどうなっちゃうんだろう」

 そうだった。未来ちゃんは、舞伽様たちといつも一緒だったんだ。

 「私のせいかも」

 ポロンと、いつもは決して言わないセリフが零れ落ちる。

 「何言ってるの? そんなことあるわけないじゃん。でも初音ちゃん見てると、危なっかしくて、つい、学校でも口出ししそうになっちゃう」

 「危なっかしいかな?」

 「うん。でも根っこが強いから」

 「未来ちゃん、私ね、強くないよ。本気で死のうと思ってた」

 未来ちゃんの目が丸くなった。

 「……」

 そしてプッと吹きだした。

 「またまた、生きてるじゃん」

 

 そう。生きてる。でも強くない。

 

 「あはは、でもね、何度も壊れそうになったよ」

 とてつもなく素直だ。私。

 

 「そっか……」

 ちょっと困り果てた表情に、負い目を感じて「なーんてね」とおどけて見せた。

 

 未来ちゃんは低く笑うとじっと私を見つめた。

 「『オークと葦』って童話知ってる?」

 「知らない」

 「オーク、樫の木のことね。強いオークは弱い葦の葉をいつもバカにしてたんだけど、強風にオークが根こそぎ倒れたのに対して、葦の葉は、倒れないように自分から折れて根っこを守ったんだって」

 「自分から折れて?」

 「うん、葦笛の踊りについていろいろ調べてたら、見つけた童話なんだ」

 「いい話だね」

 「うん。ここだけの話にしてね」

 

 ちょっとしたご褒美みたいに未来ちゃんがくれる優しさに、私は嬉しくなって大きく頷いた。

 

 「はーい! 練習始めるよー」

 マリ先生の声と共にドアが少し開き、バレエシューズの足先が覗く。アゴで段ボール箱を押さえながら肩でドアをこじ開けて、先生が入ってきた。

 「集まってー。衣装が来たから試着ー」

 順番にマリ先生が名前を呼ぶ。

 「こんぺいとう! 中国……」

 真っ白なこんぺいとうの精。純白のチュチュは胸元にスパンコールが光る。

 赤と黒のスペイン。淡いグリーンの葦笛。

 マリ先生のレッスン生は、幼稚園時代からの繰上りで中学生以上が主だから、メインで踊る子が多い。そのせいかバレエスタジオは華やかな色合いで満ち溢れていた。

 未来ちゃんが胸に衣装をあてて鏡の前で軽やかにシャッセする。

 「試着したら直しがあるから、自分でやってくるように!」

 「はあい」

 

 衣装を身につける。鏡の前の私。

 胸がキュッと音を立てる。

 踊れる……心にやる気が満ちてくる。

 

 昔、憧れた華やかな衣装。フワフワのお姫様。ただ憧れただけだった。ただ、夢見ただけだった。

 腕を上げる。足を上げる。高く高く。

 つま先が愛おしい。

 

 持ち帰った衣装をママだけにそっと見せてお直しの手伝いをお願いした。パパには発表会の日に見てほしいから。

 そして私にはやることがあった。

 明日、舞伽様の家に行くのだ。

 行くと決まった時からずっと考えていたこと。予防接種の時にもらったクッキーのお礼を自分で作ること。

 

 キッチンに立って、薄力粉を袋からボールにうつす。

 目の前が霧のように白く煙る。レシピに従って材料を入れる。バターと砂糖、卵黄。これで良かったのかな? 生地をこねる。こねる。こねる。

 実は初めてなのだ。クッキーを焼くこと。

 舞伽様に対抗したいわけじゃない。

 手作りでお返ししたかった。

 ケーキなんてとても作れないから、シンプルなクッキーを焼くことにした。

 のーちゃんは優雅に外を眺めるように窓越しにもたれかかっていた。

 

 「初音、衣装できたわよ」

 ママがリビングからキッチンに顔を出した。

 「何? その顔?」

 ん? 窓に視線を送る。

 夜の鏡が薄力粉の霧で真っ白になった私を映していた。

 「彼に持っていくの?」

 ママが良からぬ想像をする。

 「違うよ。女の子の友達にもらったクッキーのお礼」

 「なーんだ。そうか」

 「ママが初めてクッキー焼いたのはいつでしょう?」

 ごちゃごちゃうるさい。

 「うーん、中学生?」

 混ぜた生地を両手を使ってめん棒で伸ばしながら仕方なく話につきあう。

 「違います。大学生の時でしたー」

 「そうなんだ」

 適当に話を合わせる。

 「焼き加減がわからなくてね、少し焦げちゃったの。でもね、パパ、『手作りだから美味しい』って言ってくれたのよ」

 「焦げたのに?」

 「手作りだから、気持ちがいっぱいこもってる。その気持ちが美味しかったんだって。初音のクッキーも気持ちが伝わるといいね」

 「うん」

 私の両腕には、更なる力がこめられた。

 

 

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