第25話 生きていれば
その日の空は、青く澄みきっていた。
春一番が吹き荒れた昨日なんてなかったかのように。
のーちゃんは静かに私の後を追う。
のーちゃんは乗り越えたの? 乗り越えたら成仏できるんじゃないの? でもここにいるってことは、まだ天には昇れないのかな。
お嬢様である舞伽様が謹慎なんて、ご両親はどんな気持ちだろう。
足下に散らばる春一番の名残をじっと見つめた。
折れた小枝はもうけやきに戻れない。
席に腰かけ、窓の外を眺めた。いつもの仕草はもう私の身についている。
「初音」
聞き覚えのある、懐かしい声が耳を温める。
「美波?」
前髪を指で触りながら美波が申し訳なさそうにチョコンと立っていた。
その後ろに隠れるように有砂が並ぶ。
「美波、前髪一ミリオーケイだよ」
その言葉に美波の表情が和いだ。
「大変だったニャン」
私に向けられた有砂の声。
「未来ちゃんから、バレエの発表会誘われてたの。初音の応援に行くから」
美波が私の隣で笑っている。
「うん。がんばる」
私も笑って見せた。
クラスに人が集まる。
「おはよう」の声が幾つも重なりはじめる。朝の風景。
だけど、昨日とは何かが違った。
口々に飛び交う「舞伽様」の名前。
噂ってやつは非常に速いスピードを持つ習性がある。
今朝、改めて痛感させられた。
舞伽様に支配されていた社会が崩れてゆく。
中野君は、大げさに昨日の話をクラス中に言いふらし、武勇伝を語っていた。
牧村君はその横で黙って本を読んでいた。
千愛里と夏帆は「私たちは何も知らなかった」と弁解に走り、未来ちゃんはニコニコと笑いながら私に向け手を振ってくれた。
みんなが昨日の事件を話題にする。
昨日まで話しかけてこなかったクラスメイトが、普通に話しかけてくる。
「全部舞伽様が仕組んでたって、ひどいよね、わたしたちみんな騙されてたんだ」
「二クミチャだって変だと思ってた」
「初音がかわいそう」
「あんな人だと思わなかった」
「文果が使われてたんでしょ?」
「棒を振り回したんだって? 怖いよね」
「なんで初音ちゃんがターゲットになったんだろうね」
「向かっていったんだって? 文果を助けたんでしょ? すごいね」
……。
手のひらを返したように。
イジメられていた私が、一日でヒロインになった。
倉橋だけは、声をかけてこなかった。
黒板の前でシュッシュっと体を丸くした倉橋が一人でジャブを繰り返した。
朝のホームルームでオニヤンマから「磯崎は体調を崩して休み、水島も風邪で休み」と伝えられた。
解決したはずなのに、モヤモヤから抜けられずにいた。何をもって解決したと言えるんだろう。
クロスワードパズルのワードは揃ったのに、答えが見えない。
あの時……。
私がワードを探したいと倉橋に伝えたとき、
「探したところで、変わらないと思うけどな、この状況」って倉橋が言った。
「なんで? 原因見つかったら、そこ解決すればいいんじゃないの?」私は何も見えてなかった。
「そんな簡単じゃないよ」本当に簡単じゃない。
状況は変わらない。
主人公が入れ替わっただけだ。
解決には結びつかない。
確かに舞伽様は間違っていた。文果は人形じゃない。人間だ。あのまま放っておいたら、精神的にも肉体的にも文果が病んでしまっていただろう。私だってのーちゃんだって浮かばれない。
――でも。
たった一日で形勢が逆転するなんて。
舞伽様は変だった。狂っているように見えた。それでもバランスをとって必死で生きていたんだと思う。そのバランスが崩れてしまったら、どうなってしまうんだろう。舞伽様がいなくても、相変わらずソプラノ音が響く教室を私も相変わらずボーっと眺めていた。
「初音、一緒に帰ろう」
美波の笑顔。少し、はにかんでる。
「うん」
まだ距離感はあるものの、美波と有砂の笑顔は、青かったけやき坂を三人で上ったあの頃と変わらなかった。
のーちゃんの動きも静かだった。スイスイ私の後を追って来た。
校庭を抜け、門を左へ折れる。長いけやき坂がずっと下まで続いていた。
眼下に広がる海の北側には富士山がくっきりと頭を出していた。
どこを歩いても、まだ小枝が散乱する。
それまでずっと黙っていた美波が、「あの……初音、ちゃんと謝りたかったんだ。ごめんね」と美波らしくない小さな声で囁いた。
私はそんなことどうでもよかった。こうして三人で歩けることがとても嬉しくて、「全然平気だよ」って笑って見せた。
「倉橋君のことも、初音を信じてあげられなくて……」
「倉橋とは、本当に何もないんだ。クラス委員になってから、心の支えにはなっていたけど、それ以上は……」
「わかってる、本当はもう結構前から」
「え?」
有砂が美波の腕に自分の頬をつけ、上目づかいで私を見ると「舞伽様グループって何か変だなって思ってたの」と申し訳なさそうに眉をひそめた。
「だけどね、抜けられなかったんだ。あの中にいると、あの世界がすべてだったから。きっと未来ちゃんもそうだったと思う」
美波も、有砂も? 完全に嫌われていると思っていた。完全に誰からもいらない存在だと思われていると……。
「二クミチャだって、書くの嫌だったんだよ。でも、書かない勇気が出なかった。怖かったの。初音に裏切られたって思ってたから、そう言ってしまったから、もしかしたら自分が間違ってるかもしれないって思い始めた頃も、そこから抜け出せなかった」
「初音、ごめんなちゃい」
美波の話に続き、有砂が甘えるように謝った。
「きっと、私だって、そうしてたと思うよ。だからもう、気にしないで……」
ブップー。
パパのミニトラックだ。
「パパ!」
私たちの目の前で車を横づけして、パパは運転席から身体を伸ばして助手席の窓を開けた。
「パパさん、お久しぶりです」
美波がコクリと頭を下げた。
「美波ちゃん、有砂ちゃん、お久しぶり! 初音! 乗ってくか?」
「パパ……『乗ってくか』って、三人乗れないでしょ?」
パパは運転席から降りてくると、トラックの荷台を指して「ココ」と言った。
「もう、パパ、荷台なんて危ないし、乗ってるとこ、見られたら停学だよ!」
パパは「三人で寝れば大丈夫だ。見つからない」とニヤリと笑った。
「は? 荷台に寝ろ?」
「うわあ、なんかいい! 楽しそう!」
有砂がピョンピョン飛び跳ねる。
「今日は、忙しくてな、今別荘から帰ってきて、これから公園なんだ。木の手入れ。できればお手伝い願いたい」
「パパさん、了解です! お手伝いします!」
有砂に続いて、美波まで。
二人は戸惑う私を尻目にさっさと荷台に乗り込むと仰向けになって寝ころんだ。
確かに。見えないや。
私も仕方なく足をかけて荷台によじのぼり寝っ転がった。
「よし! 行くか!」
パパが運転席から叫んだ。
ブルン! 低めのエンジン音が鳴って、ガクンと動き出した。
「キャッ!」
有砂が私の右腕をつかんだ。
「気持ちいいにゃん!」
風はまだ頬を刺す冷たさだったけど、両隣に感じる温もりと、はしゃぐ声が心にジンジン染みてくる。
「ちょっと、初音、見て、上」
重なる枝。
竹箒が逆さまになった先に、青一色。
丸坊主のけやきに、空の青が枝に降り積もってフサフサの葉をつけてるみたい。
「わあ、きれい」有砂の声。
「初音……本当にゴメン」
私の左手は美波の右手に包まれた。胸も、喉も、マブタも熱くなる。
私は空を見上げたまま有砂の左手を包んだ。
溢れる涙は、両頬を伝わり、耳へと流れた。
私はきっと、この青を忘れないだろう。
ガタン。ガタン。トラックが小枝を踏みつけるたび、キャーキャー言いながら手を握る強さが増す。
私の足先あたりから、糸を付けた凧みたいにのーちゃんが大空に舞っていた。
ブブブブルン。
ミニトラックが停まって、パパが降りてきた。
「着いたぞ!」
「はあい!」
けやき坂東公園。有砂と美波と待ち合わせの場所。またここで、待ち合わせできるんだ。そう思っただけで胸が躍った。
公園の木々も枝が折れて散らばっていた。
「パパ、お手伝いって?」
「お前たちは、小枝の回収、パパは修復」
「はあい!」
「こんなに折れちゃって大丈夫なのかな」
有砂が小枝を抱えて呟いた。
「だから修復してるんじゃない?」
美波も続けた。
「でも、多すぎじゃない? かわいそうな気がする」
私も続けた。
「樹はな、元々弱い枝先を自分で落とすんだ。もっと成長するためにね。そうやって自分を守ってるんだよ。ちょっと修復するだけで、再生する。自然の力は侮れないぞ」
パパが脚立を片手に話に参加する。
「でも……、折れた枝は樹に戻れないでしょ?」
パパに突っ込む。
「そうだな、折れた枝は戻れないな」
「この枝だってがんばって伸びてきたのに」
一年前の私だったらきっと、関心もなかっただろう。楽しげに浮かんでるのーちゃんを見ると、倉橋の言葉を思い出す。
葉っぱの命。まだ青いのに。
「枝先が虫食いだったり、弱かったりすると、本体に悪影響が出る……」
「あーわかった!、癌みたいなものだ!」
有砂が叫ぶ。
「まあ、そんなとこかな」
パパが答えた。
のーちゃんは……真雪さんは、癌じゃない。
「でも、切り捨てるのは、どうなんだろう」
なんでこんなこと言っているのか、自分でもわからなかった。
「初音?」
美波が私の異変に気づいた。
「あ、あの、こんなにいっぱい折れちゃって樹は大丈夫なのかなって……」
私はこみ上げてきた感情をごまかした。
「本体が生きていれば、いくらだって再生できる」
パパの横顔は自信に満ち溢れていた。
生きていれば……。
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