第24話 春一番が吹き荒れて

 窓を打つ風のノックがコトコトと鳴り、次の瞬間、ゴトゴトガタガタと大きな揺れに変化する。

 春一番が挨拶に来た。

 だから私も「あ、どうも」って心の中で挨拶をする。

 風と戯れる……なんて美しい光景ではない。

 つまりはひとりごとである。

 

 相変わらず、クラスはひとつにまとまっている。誰も私には話しかけてこない。

 でも二クミチャには動きがあった。

 文果が先頭を切って始めていた主語のないメッセージがなくなったのだ。それだけでも心の負担が少なくなって、ありがたいと思えた。そんなことがありがたいなんて、去年の私には考えられなかっただろう。

 

 のーちゃんも未だに私から離れず、暢気にフワフワ浮いている。

 だけど今日はなんだか、ソワソワ、ザワザワ、アワアワと、身体をくねらせて忙しそうにあちこちで点在した。教室中を浮きながら瞬時に移動する。

 何かあるかもしれない。

 のーちゃんからの合図を受けて、私は何があっても怖くないと自分に言い聞かせた。

 ぐるりと見渡してみる。

 倉橋は舞伽様グループに囲まれ、中野君は牧村君に冗談ともイジリとも思える雄たけびを浴びせている。それぞれにグループを作って、甲高い笑い声が飛び交っている。

 いつもと変わらない教室。

 のーちゃんだけが、いつもと変わったしなり具合を見せていた。

 

 帰り支度をしていた私の目の前に紺色の何かが横切った。伸びた手が机に一枚のメモ用紙を置いていった。

 

 ――ちょっといいですか? 体育館横の花壇に来てください。

 牧村君だった。

 

 メモ用紙か。何とも古典的な連絡方法だな。

 でも確実でわかりやすかった。

 何だろう? のーちゃんのお知らせはこれだったのかな? 

 

 真っ白な紙が勢いよく頭上を通り過ぎた。

 誰かのテストが舞い上がる。

 春一番のいたずらだ。

 私の髪も制服のスカートも砂埃にまみれてワサワサと音を立てて翻る。その度に目を瞑りながら、一歩一歩体育館へと足を運ぶ。

 

 まったくこんな日に、なんで外?

 ちょっとだけ牧村君を呪った。

 のーちゃんは風なんか敵じゃない。いつものように流されずにプカプカ私の後ろについてきた。

 

 砂嵐の向こうから元気に手を振っている牧村君がいた。

 「清水さんこっち」

 「牧村君、砂、大丈夫なの?」

 「メガネですから」

 「そうかもしれないけど」

 「あ、そうだ、新しい本が出たんですよ。宇宙についての」

 「え? そんな話?」

 そんな話ならわざわざ外を選ばなくても……。

 「いえ、清水さんの顔見たら思い出してしまいました」

 「過冷却?」

 「まあ、もっともっと詳しい話です。そして最も興味深い内容です」

 「ふーん、それでここに呼び出したの?」

 「いえ、それはまた別の話です」

 「じゃあ、何?」

 「もう少ししたら、わかると思います。僕、いつも花壇の横で放たれる香りや営みを見ながら本を読むんですが……」

 お花の横で本。牧村君らしいけど。きっと花が綺麗だからはなく、その成分や仕組みなんかが魅力なんだろうな。

 のーちゃんはその花壇の上でグルグルまわっていた。

 

 「最近、ちょっと、気になることがありまして。気になるというか、まずいことと言いましょうか……」

 「何? まずいことって」

 牧村君は舞う砂に堂々と腕を組み、空を見上げた。

 

 バフォーン、バフォーンとボールをつく音が風と風の間に、体育館から聞こえてくる。牧村君は空から視線をはずすと、頷きながら納得するように呟いた。

 「僕には、どうしようもないことであって、だからと言って誰にも言えず」

 「中野君にも言えないの?」

 「はい、岬君に言ってもきっと、信じてもらえないでしょうから」

 あんなに仲が良いと言っていた中野君が、牧村君を信じなくて、私が牧村君を信じられるだろうか?

 「清水さんならきっと……あ、来た! 静かに!」

 牧村君の視線をたどり始めたとき、横目に一瞬だけ女子の制服が見え、体育館の裏へと姿を消した。

 

 「こっちです」

 牧村君が片手人差し指を口元に立てながら、反対側で手招きした。

 「おい、星名、何やってんだよ」

 その時、体育館の小窓から中野君が顔を出した。

 「み、岬君」

 牧村君はメガネを直しながら渋い顔をした。

 「おい!」

 もう一度中野君が呼びかけてきた。牧村君、どうするんだろう。

 牧村君は目を閉じ腕を組んでその場に固まってしまった。

 その様子を見て、中野君が外に出てきた。

 強風にランニングシャツとバスパンがパタパタと音を立て、はためいている。バッシュのまま体育館脇に降り立った中野君は、牧村君の前まで来て「何かあったのか?」と聞いた。

 「岬君は……知らないほうが……」

 「何言ってんだお前」

 牧村君は黙ったまま動こうとしない。

 「清水さんと二人か」

 中野君が意味ありげな目つきでじっと見る。

 牧村君は濃度の低い笑みを浮かべると「ち、違いますよ。変な想像しないでください」とボソッと言った。

 

 若干劣勢気味だった牧村君は、覚悟を決めたように微笑むと「何があっても驚かないで下さいよ、岬君」と優勢を極めた光を放った。

 「な、なんだよ」

 中野君は牧村君の態度に驚きながらもその興味はその先に向いていた。

 「こっちです」

 

 牧村君が歩き出した。中野君が続く。その後ろを私が歩く……。

 

 あれ? のーちゃん?

 のーちゃんは花壇の上に浮いたままこちらを見ていた。

 「のーちゃん、おいで」って心で合図しても、のーちゃんは動かない。

 どうしたんだろう……。

 

 のーちゃんの長い髪は左右にバサバサ揺れ、両手はぶらんと垂れ、おばけみたいにうらめしそうだ。

 ――もしかして。

 

 のーちゃん怖いの?

 ここ、何かあるの? 何があるの?

 横目で見た女子の制服。

 ――まさか。

 

 会いたくない人がいるの? 

 真雪さん……。

 私は目を瞑り精神を集中させ「のーちゃん、大丈夫。私がついてるから。おばけなんだから、怖くないでしょ。行くよ!」心で念じてみた。

 のーちゃんは、スルスルっと私の後ろについた。

 

 体育館裏手にそっと足を踏み入れた。

 目の前が見えないくらいの砂埃は薄れ、山から山へ暴風が流れる。その度に枝と枝が交わりあって大きく縦に揺れる。風と風の合間を縫って微かな悲鳴が聞こえてくる。

 誰かがいる。

 

 聞いていたとはいえ、それをこの目で見てしまったら、この身が激しく削られてゆく。きっとそうだから覚悟しなきゃってわかっていたけど、心臓がケイレンを起こす。メトロノームが狂い始めた。

 長く柔らかい髪はライオンのように風に広がる。美しい顔は歪み、濁った瞳は憎悪に満ちているように見えた。手にはゴールドの髪を握りしめ、上下に振るう。まるで、ぬいぐるみを振り回す駄々っ子みたいに、躊躇のない阿修羅の裁きが繰り広げられていた。

 目を瞑り、ただ我慢だけする文果の口元は、苦しみに喘ぐように喰いしばっていた。

 だらんと横になった文果の身体を、風に舞うスカートから伸びた細い足が踏みつける。

 「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」

 喰いしばった口元から呪文のように言葉が零れ落ちた。

 中野君は呆然と立ち尽くし、牧村君は中野君を気遣いながら、横目で私を見た。

 その視線に私も頷いた。

 

 立ち尽くす中野君を置き去りにして、木々の向こうに見える修羅場に乗り込んだ。

 

 あれ? もう!

 中野君の肩脇にのーちゃんが隠れるように顔だけ出す。

 

 気持ちは痛いほどわかる。自分のせいでお兄さんを道連れにしてしまったんだって、真雪さんは思っているはず。

 だから立ち止まっちゃうんだよね。

 舞伽様の前に行けないんだよね。

 でもね、真雪さんも乗り越えなきゃだめだよ。私もね、今決断しないと後悔する気がするんだ。舞伽様と向き合わないと。文果のことは第一だけど、私自身も今のままでいいとは思ってないんだ。

 だから、一緒に乗り越えよう。

 のーちゃん、ホラ、行くよ。

 

 のーちゃんの顔は、動けない中野君の背後で、ゆっくりだったけど、コクリと頷いたように見えた。

 

 裏山に続く林には小枝が列を乱して散らばる。春一番の仕業だ。

 一瞬止んだ風。足下の小枝がパキッと音を立てた。

 阿修羅と化した舞伽様が振り向く。文果を足で踏みつけたまま。

 

 私は文果に駆け寄った。文果の呪文はずっと続く。

 「謝んなくていい」

 身を丸めて「ごめんなさい」を繰り返す文果を抱きしめた。震える身体から伝わる行き場のない不安と悲しみが私の身体に伝染する。

 「文果は悪くないから、謝る必要なんてない」

 文果は私の肩にしがみつき、大声で泣き出した。

 

 「清水さんには関係ないでしょ」

 ずっと黙っていた舞伽様は、うろたえることなく言い放った。

 

 こみ上げてくる感情。思いのままに文果を操り、利用するだけ利用して、自分の利益しか考えない。文果を盾にして自分は傷つきたくないだけ。

 「文果は、舞伽様の人形じゃない!」

 

 冷静だった表情がみるみるうちに鬼に変わる。

 「あなたには、わからない。わかるはずもない。わかってもらいたくもない!」

 「牧村君! 保健室に!」

 私は舞伽様を無視して、牧村君に文果を保健室へ連れていくようにお願いした。

 

 「保健室なんかじゃ、治らないのよ」

 牧村君が文果の傍に近寄ると、それを押しのけ、舞伽様は素早く文果の手を取りながらうっとりと呟いた。

 優雅でしなやかな手が、腕を伝い文果の両頬を包んだ。

 「文果、ごめんね。文果がいなくなったら、私、ダメなんだ。文果は私の友達だよね? いいよ、『舞伽』って呼んでいいよ。文果だけは許してあげる」

 細い指先が文果の涙の跡を優しく撫でる。

 「水島さん、騙されちゃダメだ!」

 牧村君の声は風の轟音に紛れてかすかに聞こえた。

 「ストーカーは黙ってて」

 舞伽様は牧村君を睨んだ。

 ストーカー?

 牧村君はちょっとムッとした顔で「舞伽様、もういいでしょ? やめましょうよ」と促した。

 

 「文果、保健室行こう」

 「文果に触らないで!」

 舞伽様が文果を離そうとしない。

 狂ってる。

 「舞伽様、変だよ」

 釈然としない矛盾を吐き出した。

 

 舞伽様の髪が何度も風にさらわれ、目と口元が吊り上がった不気味な笑みをチラチラ見せる。スクッと立ち上がった舞伽様は、私の目の前まで来ると長く美しい脚で私の足を靴の上からグイグイと踏みつぶした。

 

 痛い! けど負けない!

 

 牧村君に文果を預けて、舞伽様の目を見据えて向き合った。

 のーちゃんが舞伽様と私の幅狭い谷間を行ったり来たり浮きながら走り抜ける。

 

 「オズマの心を返して」

 

 倉橋? 

 

 凄んだ瞳に圧倒されながらも「返すも何も、もらってもいないし、つきあってもいないし、私のものでもない!」正直に答えた。

 「オズマと私は一心同体、深く深く結ばれてるの。同じ悲しみをずっと昔から背負って生きてるの。だから……」

 「だから、何?」

 「いなくなってよ」

 

 舞伽様の瞳は悲しみと欲望と妬みと嫉みに覆われ、一滴の粒となって後から後から溢れだした。きっとその涙の重さは計り知れないだろう。舞伽様だって、お兄さんを亡くして、酷く、辛い思いをしてきたはず。そして何度も繰り返される失望や不安や怒り。それを唯一理解できるのが倉橋だったのかもしれない。

 

 誰からも愛され、いつも笑顔で、誰かのことを心配し、辛いことは我慢して……。

 

 わかる、けど違う。

 

 「私がいなくなればいいの? いなくなったら、何か変わるの? 私が死んでも悲しみは変わらないと思う」

 「何も知らないくせに」

 「お兄さんのこと? 倉橋のお姉さんのこと?」

 舞伽様は驚きながらも憎々しげに私を見た。

 「あなたのせい、全部あなたのせい!」

 

 舞伽様の視線を外すことなく、じっと見つめ返し、何秒たったんだろう。その間、ずっと考えていた。

 私は舞伽様を怒らせるような、悲しみを深めるような、そんなにひどいことをしただろうか?

 私の知らないところで、傷つけていたのだろうか? 私のせいって……。

 

 記憶をたどってみる。だけど、舞伽様とは二年生になって初めてクラスが同じになり、それ以前は「綺麗な人だなあ」とか、「いつも周りに取り巻きがいて、話すこともないだろうなあ」とか、ずっとずっと遠い存在だと思っていた。

 同じクラスになって、「話せたらいいな」「仲良くなりたいな」とは思ったけど、クラス委員騒動があってからは、もっともっと遠くに感じていた。

 話したと言えばインフルエンザの予防接種に、病院に行ったあの日だけ。あの時、舞伽様は優しかった。緊張はしたけど、自分が悪く思われるようなことは話していないはずだ。だから、私が故意に何かをしたとか、近づいたとか、そういうことはないはずだ。クラス委員の件だって、もしも舞伽様が仕組んだことなら、それ以前に私は嫌われていたわけで……。

 

 「私のせいって……私、舞伽様に何かした?」

 「それ、その感じ、清水さんのそういうところ、本当にイライラする。私は何もしてません。私は普通に生きてます。何も考えてません。ヘラヘラと笑って、バカじゃないの? 平和な顔してぬくぬく生きてきた、あなたに腹が立つの。あの時だって……」

 

 舞伽様は一瞬息を飲み込むと一気に吐き出した。

 

 「二年生になってオズマは変わった。それまでは諒にいちゃんのこと、お父様のこと、何でも相談してきたの。当然のように私のそばにいてくれた。なのに……。

 二年生になった頃、『もう過去のことを考えるのはやめよう』って言ったの。

 何言ってるの? オズマのお姉さんのせいで諒にいちゃんは死んだのに。オズマには責任があるの! 私を支える責任があるのに。そんな時、平和な清水さんが横切って『ホラ、ああやって笑ってれば、何も不安なことなんてないんじゃね? 過去じゃなくてこれからのこと考えよう』って……」

 

 私の足を、千切れるくらいの強さで踏んでいた舞伽様の力が弱まっていく。

 

 「なんで、何も考えていないような清水さんと比べられなきゃいけないの? 私が辛いとき、オズマが言ってくれたことをずっと守ってきた。『人にやさしく、相手の良いところを見て、伝えてあげよう。諒さんだって、明るい磯崎さんになってほしいと思ってるんじゃね?』いつもそうやって励ましてくれたから頑張ってこれたのに……なのに……なのに……オズマが変わったのはあなたのせい!」

 

 弱々しく涙を流したかと思ったら、急に怒りはじめる。「清水さん」と言ったかと思えば、「あなた」って言ってみたり、バラバラなヒステリックが舞伽様を襲う。異様なほど熱を浴びた狂気がグツグツと煮えたぎる。

 

 私の感情も沸点に達した。

 「私のせいでも何でもいいよ! でも、文果への暴力は認めない! 絶対間違ってる! 文果だって嫌でも逃れられない苦しさを味わってる! 文果は舞伽様のものじゃない! 過去を乗り越えて未来を見ようとする倉橋だって間違ってない! 後ろばっかり振り返ってたら明日が逃げちゃうよ!」

 

 舞伽様の唇がブルブルと震えだす。瞳の迫力に私は息をのんだ。

 舞伽様は私からスッと離れると、近くに落ちていた太い枝を手に取った。

 

 「あなたに私の思いなんてわからない! どれだけ重くて、どれだけ辛かったかなんて知らないくせに! ひょっこり出てきて口ばっかりでカッコつけないで! その場だけの正義感で決めつけないで! 目障りなのよ! 私の前から消えて! いなくなって!」

 

 舞伽様は、私めがけて枝を振りかざした。

 

 「まいか、まいか、友達でしょ? こっちに来て……」

 

 ――? まいか?

 

 文果のかすれた声が風に乗って聞こえてきた。

 

 その言葉に、体の力が抜けてゆく。

 なんで……?

 

 舞伽様は文果の声に振り向きながらも両手に持った枝を降ろさなかった。

 私は抵抗もできず放心状態のままその枝を見つめていた。

 

 「舞伽様、もういいから!」

 牧村君が舞伽様を止めようと間を割る。

 のーちゃんが狂ったように空中でピルエットを繰り返す。

 

 「おい! 何やってるんだ!」

 その時体育館の方角に人影がチラついた。

 オ、オニヤンマ! 

 中野君がオニヤンマの後を追いかけてくる。

 中野君が呼びに行ってくれたんだ。

 七三に分けた黒髪は風に飛ばされ、おでこが丸見えになる。カッコイイヒーローとはとても言えないけど、この瞬間、オニヤンマが正義の味方に見えた。

 「磯崎!」

 オニヤンマは舞伽様の持つ枝を奪い取ると、遠くへ投げた。

 「清水、水島、大丈夫か?」

 「はい……。大丈夫です」

 私はその場に座り込んでしまった。

 これできっと解決する。文果の言葉が気になったけど、裏事情がわかれば、全部解決する。私のことだってきっと……。


 その日は一人一人呼び出され、簡単な事情を聞かれて、みんな自宅へ帰された。

 幸い文果の容体も軽く、保健室で手当てを受ける程度ですんだ。

 文果は三日間、舞伽様は一週間の自宅謹慎が言い渡された。文果の場合は謹慎ではなく療養という名目だった。「心のケアが必要」とスクールカウンセラーからのアドバイスだった。

 中野君と牧村君が全面的に「原因は舞伽様にある」と主張してくれたおかげで、私は謹慎を免れた。

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