第23話 涙のバースデー

 平年よりもかなり冷たい山風は町へと吹き荒ぶ。

 のーちゃんがフロントガラスに張り付く。おかげで前が見えない。

 外に出たいのかな?

 待てよ、のーちゃんがいる場所、いつも何かを訴えているんじゃないかって最近思う。

 だから気にして窓の外を見てしまった。

 ――あれ?

 

 ちょうど沼池に車がさしかかった時、けやき中の制服を着たゴールドに近い髪の子が、沼池方面から走ってくる。その姿は普通じゃ考えられない状態だった。

 信号待ちをしていたパパに「ちょっと停まって!」とお願いをして車を端に寄せてもらった。

 髪の毛も制服もびしょ濡れで、短めのスカートの裾には絞った跡。そこから滴り落ちる水。コートもマフラーもなく、制服だけでブルブル震えながら蒼ざめる文果だった。

 「文果!」

 私は大声で呼び止めた。

 一瞬振り向いたけど、私をじっと見つめると、足早に逃げようとした。

 私はその普通じゃ考えられない状態の文果を無我夢中で追いかけた。

 唸るような寒さの風に、身も凍るほどの冷気と、お腹の奥のほうからゾクゾクとつんざく何かに震えていた。不自然な違和感。

 

 文果に何があったの?

 

 やっとの思いで文果に追いつき、文果の腕をつかんだ。真っ白な息が二人の口から何十回も蒸気機関車みたいに交差する。

 

 「文果、どうしたの?」

 「離してよ、あんたには関係ない」

 「だってびしょ濡れ、普通じゃないでしょ」

 「別に、普通だし」

 ブップー。

 パパのミニトラック。

 「今パパと一緒なの、とにかくこれじゃあ、風邪引いちゃうし、車に乗って」

 「いいから、離して」

 ブップー。

 「何も言わなくていいから、とにかく来て」

 「あんたなんかに……」

 クラクションが鳴るたび、文果が振り返る。

 「うんうん、そうだね、私みたいなヤツにね。誰も見てないから大丈夫、誰にも言わないから信じて」

 ブップー。

 「いいから、離せよ!」

 「離さない! こんなに濡れてたら風邪どころじゃなくって死んじゃうよ」

 「死んだっていい。私なんて……」


 ――え?

 文果からそんな言葉が飛び出すとはみじんにも思ってなかった。怯えた猫みたいに震える文果が小さく見える。

 「文果、私のことどう思ってもいいし、この後もこれからも無視してもいいから、今だけは私を信じてくれな……」

 ブップー。

 

 ――こんな時に、パパのバカ!

 「ブッサイクな音!」

 

 パパがあんまりせかすから、つい口に出てしまった。

 何がおかしかったのか、文果がいきなりふきだした。

 「ブッサイクって……」

 「あ、ごめん」

 「なんで、あやまんの? ブッサイクって、笑っちゃった」

 

 カッコつけて追いかけてブップーで笑っちゃった。なんか情けなくて、お恥ずかしい限りですって頭をさげたくなった。だけど文果はそのあとミニトラックに乗ってくれた。震える肩に重さを感じる。とにかく今は、あったまって。


 家ではママがご馳走を用意していてくれた。文果をお風呂に案内して、パパとママに事情を話して、泊めてもらうことを了解してもらった。ママがすぐに文果の家に電話を入れてくれた。ママ、感謝。

 

 バスタオルで髪の毛をふきながら文果がお風呂から出てきた。

 「文果ちゃん、お母さんに連絡入れておいたわよ。今日初音の誕生日だから、文果ちゃんも一緒にお祝いしてもらうからって。ゆっくり泊まっていきなさいね」

 「あ、ありがとうございます」

 文果は観念したようにママに頭を下げ、椅子に腰かけ、ご馳走を頬張った。

 まさか文果に誕生日をお祝いしてもらうなんて、想像もしてなかったけど、今は文果が心配だ。文果と話すことなんてほとんどなかったし、未来ちゃんから「全て文果の指示なんじゃないか」って聞いていたから、文果と一緒にいるこの空間が信じられなかった。

 だからこそ今、知りたい。本当の文果を。

 

 「文果、私ね、さっきまで、いつ死のうかなってずっと思ってたんだ。でもさっき、パパと連山の樹氷を見て、ハッキリ思ったの。私生きたいって。事情はきっとあって、私には気持ちもわからないかもしれないけど、どう見たって今日の状況は、変だなって思ったんだよね」

 文果はママに敷いてもらった布団の上でパジャマの膝をきつく抱えたまま、顔を上げようとしなかった。

 「『死んだっていい』って文果が言うなんて思いもしなかった。それでずっと考えてたの。もしかしたら、文果も私と同じなんじゃないのかなって」

 「同じにするな」

 抱え込んだ腕が少し緩んだけど、顔の表情は見えなかった。

 「ごめん、同じなんて図々しいよね」

 「違う!」

 のーちゃんはその言葉に反応したのか、文果のすぐ後ろにススッとまわった。

 文果の肩の辺りにいるのーちゃんは、場合によっては憑いたようにも見えるし、背中をさすっているようにも見える。

 でも私は確信していた。のーちゃんは、背中をさすっているのだ。だから私も勇気を持てた。

 

 「……あのさ、濡れてたのは、あのさ……沼池?」

 「……」

 「落ちたの? それとも落とされたの?」

 そう言った瞬間に文果はビックリしたような表情で私を見た。

 その目から大粒の涙がポロンと流れた。

 「落とされた」

 

 ――やっぱり。

 

 不自然な違和感。

 誰に? どうして? どういう理由で?

 ずっとずっと感じていた不思議な感覚。聞いちゃいけないのかもしれないけど、そんなことに介入するのはどうかと思うけど、やっぱり放っておけない。

 ぶつかるしかない。

 「舞伽様?」

 文果は家中に聞こえるくらいの大きな声で泣き出した。私は何も言わずに文果が泣き止むのを待った。私が吐き出せたように、文果もきっと吐き出せる。もっと泣いてしまえ!

 

 泣き止んだかなって思うと、文果はまたヒックヒック始まって、ティッシュを探す手が伸びる。

 その都度私が文果にティッシュを差し出す。

 鼻をかんでゴミ箱に投げる。

 はずれる。

 私がゴミ箱に入れる。

 またポロポロ泣き始める。

 鼻をかむ。

 文果がゴミ箱に投げる。

 はずれる。

 少しボーっとするとまた思い出したように涙が転げ落ちる。

 私がティッシュを差し出す。

 ゴミ箱に投げる。

 「あ、入った」

 思わず言ってしまう。

 「プッ」文果が吹きだした。

 「『入った』って。笑える。あたし、スゲー」

 「文果スゲー」

 私もなんか嬉しくなって真似をした。

 その言葉に目が合ってしまって、文果はちょっとだけ恥ずかしそうに照れ笑いしてからポツリポツリ話し出した。

 

 「あたし、小学校の時イジメられてたんだ」

 「文果が?」

 未来ちゃんに聞いていたけど、あえてそう言った。

 「今よりかなり太めだった」

 「細いのに」

 「今はね」

 「文果ってカッコイーイメージあるから想像できない」

 「朝食はモカコーヒーとトンスト」

 「何それ?」

 「トーストを文字ってね」

 「パンストみたい」

 「何それ?」

 くだらない会話だったけど、文果は次第に心を開いてくれた。

 「あたし、小学校五年の時、転校してきたんだよね。最初は誰にもなじめなくてさ、でも少しずつ友達もでき始めて、ようやくクラスにも溶け込めたかなって思った頃、クラスで社会科見学に行ったんだ。バス乗って県庁とか遺跡とか見に行った時にね、あたしバスの中で寝ちゃってさ、イビキかいちゃったらしいの。それがブーブー言ってたみたいで、バスがトンネルに入ったら『トンが寝てるぞ』『トンネル』そっから始まって……運動は割と得意だったから頑張って一番になった時には『とんかつ』だってさ……。

 最初はさ、あたしも笑ってたんだ。笑ってれば隣にいる子も笑ってくれると思ってたから。でも逆だった。何も抵抗しなかったから、だんだんエスカレートしてきて、外されるのなんて当たり前で、給食に虫を入れられたり、教科書隠されたり、嘘のラブレター贈られたり、『汚ねえ』『菌がうつる』『キモイ』ってあたしの事本気でイジメてきて……」

 「文果……」

 

 気持ちがシンクロする。

 笑っていても、何も言わなくても、何かを喋っても、何をしていても、それがイジメの対象になる。

 私の存在が気に入らないのだ。だから自分がいなくなってしまえばいいと思うしかなかった。

 文果の横顔、腫れた瞼、涙の跡、真っ赤な鼻。過去と現在が摩擦する。こすれあって削り合って、堕ちていく。

 

 一呼吸おいた後、文果は大きなため息をついた。

 「イジメから舞伽様が助けてくれた。友達になってくれた。あたしが自信無くしてた時に『大丈夫、文果にはオシャレの才能あるから』『文果は痩せれば綺麗だから一緒に痩せよう』って。あたし、ファッション系の雑誌見るの好きなんだ。だからビックリした。この人あたしのことわかってくれてるって。舞伽様は誰からも愛される人気者だったから、舞伽様といれば、みんなが認めてくれた。一緒にダンスしたり走ったり、それでスマートになれた。あたしはこの人に一生ついていこう、あたしが守ろうって決めたんだ」

 

 「文果……でも……なんで……」

 「詳しくはわからないけど、舞伽様は倉橋と幼なじみで、昔から倉橋の事好きだったから」

 

 違う……そうじゃない。

 

 「それを知ってるのはあたしだけ。だから二年になった時、どうにか倉橋と舞伽様を引き合わせたかった。だけど倉橋はあんたにちょっかいばっかり出して、舞伽様のことはなぜか遠ざけたりしてた」

 

 真雪さんと諒さんのことがあるから……

 

 「舞伽様、泣くんだ。あたしの前で。あんたをどうにかしてって」

 「どうにかって?」

 「いつもそうなんだ。小学校の頃から。あの日もそうだった。クラス委員を決める日に、舞伽様から頼まれた。あんたを投票するようにって」

 

 それは何となくわかっていた。文果が沼池に落とされたって聞いたときから。不自然だったから。舞伽様って、なんか不自然だったから。

 のーちゃんはじっと聞き耳を立てるみたいに動かなかった。

 

 「あたしだって昔イジメられてたから、あんたにいろいろしてきたことを後悔した。したくなかった。後ろめたさもあった。やめなきゃなって思ってた。だけど舞伽様はあたしがいないとダメなんだ。あたしを叩かないとダメなんだ。あたしをあたしを……」

 文果の腕が小刻みに震えだした。

 「沼池に落としたのも舞伽様なの?」

 文果はコクリと頷いた。

 「最近は嫌なことを全部あたしに頼んでくる。断ると病気みたいに怒り出す。さっきもそうだった。感情的になって落とされた。でも舞伽様だから。舞伽様が輝くためにあたしがいる。千愛里や夏帆は本気であんたがヤバイ奴だって思ってる。舞伽様にとっては千愛里も夏帆もアクセサリー。未来はあんたとバレエが一緒だから、情報を探るために舞伽様が選んだ。美波やアリーを誘ったのも、あんたから全部奪うため」

 

 ただボーっと聞いていた。でも何も感じなかった。他人事のように思えた。私の事なのに。なんというか、不自然な違和感がなくなって、それ自体、自然に思えた。ずっと解けそうで解けなかったワードパズルの答え。形がだんだん見えてきた。

 

 「文果はそれでいいの?」

 「あたしは……いいんだ」

 「でも辛いんでしょ? どうにもできないから泣いたんでしょ? だから死んでもいいなんて言ったんでしょ?」

 枯れ果てたと思っていた目から、また涙が溢れだす。

 「舞伽様は、完璧でいたい人だから」

 

 私は今まで自分が一番不幸だと思っていた。どうしようもないくらい辛いのは私だけだって。文果の涙は心の叫びだ。これでいいわけない。

 「誰にでも優しくて、誰の相談にも乗って、誰からも愛されて。そうじゃなきゃ生きられない人だから。だからあたしが目を瞑ればいいだけ」

 

 違う! 

 

 「文果が文果を犠牲にすることないと思う」

 のーちゃんが文果の肩先で左右に動き出した。「もっと言え! もっと言え!」って応援してるみたい。

 

 きっと真雪さんも、諒さんも、私も、文果も、そうなんだと思う。倉橋だってずっと抱えてきたんだと思う。もちろん舞伽様だってそうだったはずなのに。

 

 「友達だから……。舞伽様は友達になってくれたから」

 「友達だったら、こんなに泣かせないでしょ? 泣いてたら心配するでしょ? 全部文果のせいにしないでしょ? 沼池になんて落とさないでしょ?」

 文果は顔を上げると真っ赤に充血した目で私を見た。

 「あんた……強いね」

 

 強い……。

 

 文果のその一言に、私の目元は急流のような涙で襲われた。

 未来ちゃんにも言われた言葉。

 

 「『強いね』ってみんな言うんだ。その言葉を言われる度にね、『そんなに簡単に強いで終わらせないでよ』って思う。私、強いのかな? 違う。強くなんかない。みんな同じだよ。弱いよ。きっとみんな弱いと思う」

 

 ベソかいた顔は、きっとみっともない、恥ずかしい、強い私じゃない、心を裸にされた私だったと思う。

 文果は目をまんまるくして私を見た。私が泣いているからかもしれないけど、文果の涙はすでに止まっていた。

 「あの、大丈夫? ごめん、あんた、強いと思ってたから、勝手なこと言っちゃって。ごめんね……」

 「ううん、なんかさ、私、強いって言葉に弱いみたい」

 「ごめんね、初音ちゃん」

 

 ――え? 初音ちゃん? その響きは緑色のくすぐったい公園の朝風みたいに、なんだか懐かしくって心地よい音だった。

 

 「初めて名前……呼んでくれたね」

 涙を拭いながら、ちょっとだけくすぐったくてそう言った。

 文果は急に照れ臭そうに「じゃ、あんたに戻す」って言ったから「やだ! 戻さないで!」って私もプチワガママを言った。

 

 「二クミチャは……どうにかなる。あたしが仕切ってるから。でも、舞伽様の指示があったら……その時は……」

 「大丈夫。大丈夫だよ。文果のせいにしないから」

 文果は苦虫をつぶしたような表情を見せた。

 

 きっと板挟みなんだろう。文果だって本意じゃないはず。今日は素直にそう思えた。

 単に嬉しかった。文果と話せたこと。でもどうしようもない切なさもある。

 なんでみんなが笑えないんだろう。

 みんながぶつかって、一つになれればいいのに。

 今の私がいくら声を上げても、誰にも届かないことは百も承知だ。未だにみんなの重荷であることは変わらない。

 だけど一人一人と話せば、みんなちゃんと考えている。みんないろいろあるんだ。

 これでいいとも思っていない。

 文果の現状。いいわけない。

 

 私の隣でスヤスヤ寝てる文果の顔は、頬がほんのり赤らんで、幼い子どもみたいに安心しきっているように思えた。

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