第22話 2月奇跡

 大寒を過ぎても、今年は真冬日が続いた。

 このあたりは温暖な地域なのに、毎日最高気温が零度に達しない。手袋をしてもマフラーをつけても、コートを着ても、制服の隙間から山々の凍てついた風が入り込む。

 けやきは竹箒を逆さまにしたようにその枝を冬曇りの空に向けていた。

 週二回だったバレエの練習は、未来ちゃんとの自主練習が加わり、週四回に増えた。

 それ以外にも、くるみ割り人形の動画を観たり、一人で曲を流しながら、家でレッスンしたり、私の放課後は最近バレエで埋め尽くされている。

 飛ぶ感覚はまだわからないけど、曲に入る感覚はつかめてきた。未来ちゃんとの息の合わせ方や、細かいステップ、手の先や足の指先まで踊る感覚だ。

 今までに感じたことがなかった全身から漲る高揚感。昨日できなかったことが今日できる。なんだかここにいると、バレエを踊ると、知らない間に少しだけ自分に自信が持てた。

 

 学校では今でも無視。主役を降りたはずなのに、気が付くと二クミチャでは毎日攻撃の対象となっていた。

 相変わらず私はその的の中心にいた。その渦に巻き込まれると、やはりいなくなったほうがいいんじゃないのかって考える。美波も有砂も私を見ようともしない。

 だけど未来ちゃんはさりげなく情報を教えてくれるようになったし、倉橋は心なしか日の光が差す窓側に来ることが多くなった。

 牧村君も「時間があるときに宇宙の話をしましょう」というメッセージを何度もくれた。それはちょっと厳しいので「バレエがあるから」と断ってきた。

 でもありがたかった。

 

 ――死ぬのは発表会が終わってからにしよう。

 最初はそう考えた。でも今は、

 ――発表会までがんばってみよう。その後はその時考えよう。

 そう思うようになった。

 

 目の前にいるのーちゃんに私は毎日のように話しかけた。応えてくれなくても、聞いててくれなくても、毎日毎日話しかけた。

 「のーちゃん、なんで死んじゃったの? 辛かったよね。誰にも相談できなくて。相談しても解決にならないこと知ってたんだよね? 諒さんのこと、道連れになんてしたくなかったんだよね? きっと何度も考えて、自分がいなくなれば平和が戻るんだとか、自分のせいでクラスがまとまらないんだとか、考えたよね。だけどさ、なんで死んじゃったの? みんなみんな七年たった今でも、ずっとずっと引きずってるよ」

 

 あの日湯川先生に会わなければ、倉橋と話さなければ、私は何も知らないまま死んでいたかもしれない。

 真雪さんと諒さんのことを知ったあの日。私は全部吐き出すように湯川先生と倉橋の前で泣いてしまった。

 真雪さんの気持ちが突き刺さるほどわかってしまったから。

 ひとりぼっちだと、思っていた。心配してくれる人なんていないと思っていた。

 周りがすべて敵に見えていた。

 のっぺらぼうみたいに、表情が見えなかったから。

 誰からも必要とされていない自分が情けなかった。

 なのに何もできない自分が嫌いだった。

 そうじゃないってわかった時、誰かに心配してもらったくらいで、すごくすごく嬉しかった。

 とにかく今はバレエに集中したい。そう思うようになっていた。

 発表会に……倉橋は来てくれるだろうか?

 

 のーちゃんは以前よりじめっとしていない。佇んでもいない。どちらかと言えば私の周りをウキウキ跳ねているように感じる。のっぺらぼうというよりノッペラボウ。

 

 ――ブップー。

 不細工なクラクションの音。パパのミニトラックだ。

 「初音おかえり! 乗って」

 「パパ、どうしたの? 仕事の帰り?」

 「いいから、早く乗って」

 

 わけのわからないまま、私はパパのミニトラックに乗り込んだ。

 轟音の暖かい風が顔を覆った。小さいころからミニトラックの吹き荒らすような暖房が好きだった。凍えていた顔も体も一気に溶けてゆく。乱雑な温風にホッとする。

 沼池を横目に車は山の方角へと走る。

 「パパ、どこに行くの?」

 「連山だ」

 「何しに?」

 「お楽しみ」

 パパは含み笑いを見せた。

 何だろう? その意味ありげな笑顔は。何だろう? お楽しみって。

 今日パパは連山の別荘地で仕事をしていたはずだ。もう終わったのかな? なんでまた連山に戻るんだろう。

 

 細い山道を抜けると別荘地が広がる。幼い頃、夏によく来た憶えがある。その時は緑の葉に覆われて見えなかった景色が遠くまで見渡せる。

 

 「ここだ」

 パパが車を停めて、外へ出た。

 ドアを開けた瞬間に冷気が襲う。海辺の町に比べたら、山の気温は五度ほど低い。目も鼻も口もマイナスの空気が痛くてキュッと閉じる。

 「初音! こっちだ」

 パパが林の中を歩き出した。私もパパの後に続く。歩くたび唇が凍える。

 「パパ、顔が痛い」

 「マイナス五度の世界だからな。もうすぐだ」

 

 ――マイナス五度?

 

 「初音、ホラ、そこ」

 パパの声に誘われてそっと目を開けた。

 ――わあ。

 「きれい」

 枝と枝の間に煌めく氷のアート。真っ白な雪が樹木を覆っているみたい。よく見るとその雪がところどころ透けて枝を囲む。あの雨上がりの日にけやきの葉に乗った水滴と同じように、それぞれの樹木の色を鮮やかに透かす。白色の中に浮かぶ氷の世界。樹木の上には、のーちゃんが気持ちよさそうに浮いていた。

 「樹氷だよ」

 「樹氷?」

 「お誕生日おめでとう、初音」


  ――あ。

 そうだった。すっかり忘れてた。昨日まで覚えてたのに。今日で私は十四歳になった。

 

 「初音が生まれた日、パパは仕事で山にいたんだ。今日みたいにね。初音は早産だったって話、ママから聞いたことあるだろ? まだ予定日は先だったし、朝、家を出る時、ママは元気だったから、連絡が入るまで知らなかったんだ。携帯に連絡があって、産まれたって聞いたときは単純に嬉しかった」

 パパは懐かしむように、樹氷を見上げながら話してくれた。

 「十四年前の今日もこのあたりで樹氷を見た。この地域は暖かいだろ? 樹氷ができること自体珍しい。まあ、奇跡に近いな」

 「奇跡?」

 「ああ、奇跡だ。樹氷は、マイナスの空気中にある水分が樹にぶつかった衝撃でできるんだよ」

 「それがなんで奇跡なの?」

 「水分は通常マイナスになれば氷になるだろ? だけど空気中が安定してると水のままで彷徨ってる。樹や草や地面にぶつかって氷になるんだ。こんな地域で、そんな条件になることは滅多にないから奇跡なんだよ」

 

 それって……。過冷却?

 

 「耳、すまして聞いてみると、聞こえるから。樹氷の音」

 そういえばさっきから、ピチピチパチパチって氷のオルゴールみたいな音がしていた。

 「この音を聞いて、パパな、初音って名前を考えたんだ。樹氷も初音の誕生も奇跡だったから」

 

 ――奇跡……。

 

 マイナスの世界なのに、なんだか目の辺りがあったかくなって、涙が出てきて、頬をつたって、パリパリっていう音を立てた。

 

 「今日はママがご馳走作って待ってるから、あとでお祝いしような」

 初音は弱音なんかじゃない。

 初音は奇跡の名前なんだ。

 私に奇跡なんて起こせるわけないけど、可能性はゼロじゃない。

 ゼロだけどゼロじゃない。

 何も無いけど、何かあるんだ。

 マイナス五度の世界で水が氷になるためのきっかけ。

 彷徨って彷徨って……過冷却でビッグバンだ。

 

 点と点が一つになった瞬間、線になって心に届いた。

 メトロノームの心地いい響きが心臓に伝わる。

 

私……生きたい。

 

 ミニトラックの中では、パパが懐かしそうに昔話をする。じいちゃんが植木屋をパパに継いでほしくて、何度も喧嘩になった話。パパは意外にも、大学時代にボクシングで全国大会に出場していた話。ラストマッチで湯川先生に負けてからは、ボクシングを捨てた話。

 だから家にはボクシングに関するものが何もないんだって話。

 ママと大学時代に出会って、幸せにしたいと心から願うようになり、実家で修行して五年たってママと結婚した話。私が産まれた後すぐにじいちゃんが亡くなった話。

 パパがこんな風に私に話してくれたことは、幼かった頃、ミニトラックの中で話した記憶しかない。いつも朝は眠たそうな顔で食事して急いで出かけていくし、夜は町の消防の手伝いをしたり、町内会で走り回っていたから。私が話すのはいつもママだったから。

 「初音、パパに何でも話していいからな」

 きっときっと、心配してくれてたんだ。

 パパもママも。

 

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