第21話 倉橋の真実

 漆黒の海の沖合にはチラチラと揺れるネオンが穏やかに海面を照らす。イカ釣り漁船の漁火だ。私の横ではのーちゃんがユラユラ揺れる。

 

 未来ちゃんから聞いた話をひとつずつ思い出す。

 以前に比べたらかなりの進展具合だ。

 いろんな理由がわかったけど、だからってどうすることもできない。

 ずっと探していたワードパズルのピース。肝心な何かが抜けている気がする。

 

 「清水!」

 闇夜に混じる冷たい潮の香りが内臓まで冷やす。不意にあったかい声に呼び止められて振り向くと、黒のジャージに首からタオルをかけた、湯川先生がニコニコと笑っていた。

 「先生、こんばんは」

 「清水はバレエか?」

 「はい、今終わったところです」

 生徒指導の怖いイメージとはずいぶん違う笑顔だった。

 「最近どうだ?」

 「え?」

 「学校は楽しいか?」

 「え、あの……」

 「父さんは元気か?」

 「パパ? え? 湯川先生とパパって?」

 「同級生だよ」

 「そうなんですか」

 先生は寒そうに両腕をさすりながら、「清水、ちょっといいいか? 見せたいものがある」そう言うと顔を上げ、ダイビングショップの二階を指さした。

 

 あ、のーちゃん。二階の窓に、のーちゃんが揺れている。私の心もざわつき始めた。

 「先生、ここって……」

 「ジムだよ」

 「あ、私、いいです。帰ります」

 先生を振り切って歩き出す。一歩、二歩、三歩……。あれ? なんか違う。

 のーちゃんは? いないのだ。

 のーちゃんが気になって振り返る。ずっと窓に張り付いて、私の後をついてこない。

 え、なんで? いつもだったら歩くとついてくるのに。

 私が振り向き、二階の窓を見たせいか、先生は「ホラ、清水、行くぞ」と大きな声で笑った。

 先生の背中をちょっと睨みつけながら観念して階段を上った。


 「清水、ここ、座ってろ。お茶とコーヒー、どっちがいい?」

 湯川先生の声がなんとなく聞こえる。

 「清水、ホラ、ここ」

 そう言われてやっと気づき、古ぼけたソファーに腰かけた。

 「お茶か? コーヒーか? ココアもあるぞ」

 私はボーっとしながら

 「ココアで」と答えたけど、意識はブルーの四角いマットを追っていた。

 正確にはブルーの四角いマットではなく、リングでスパーリングをしている人が正解である。

 

 教室での軽いジャブではなく、私に教えてくれた優しいワンツーでもなく、ヘラヘラお道化てばかりいる倉橋じゃなかった。

 

 流れる滴は後を絶たず、玉のような水となってほとばしる。打ち合いはエキセントリックなのにリズムがあって、その流れの美しさに息が止まった。瞳は隙が無く、動きの激しい身体から荒々しいオーラが放たれる。

 

 私の体温も急激に上がっていく。

 出したパンチ一つを追う間もなく、繰り広げられてゆく戦い。

 リングにいたのは、教室の、屋上の、けやき坂の倉橋じゃなくて、紛れもなくボクサーの倉橋だった。

 私は本気の横顔に打ちのめされた。

 

 なんでだろう。涙が溢れてくる。悲しくないのに、嬉しくないのに。私はそのしびれるような光景になす術もなく、ただボーっと見入ることしかできなかった。

 のーちゃんは、ジムの端から端まで踊るように浮いていた。

 

 「そうやってると、当時を思い出すなあ」

 カツンと鳴る音に振り向くと、湯川先生がココアをテーブルに置いていた。私はココアのカップを両手で持って先生を見上げた。

 「当時って?」

 「ああ、七年前もそうやってその制服を着た子がそこに座ってココアを飲んでたんだ」

 「七年前?」

 「倉橋のお姉さんだよ」

 一口飲んだココアの味が甘くて溶けてゆくようだった。

 「お姉さん……、いるんですか?」

 「お姉さんが……いたんだ」

 「いた……って……」

 喉元を通り過ぎると、甘さが抜けて苦さに変わった。

 先生もソファーに腰かけると、懐かしい笑みを浮かべながら話し始めた。

 

 「真雪ちゃんも、いつもそこで磯崎君の練習を見てたから、思い出してね……。七年前に亡くなったんだ」

 

 ――え? 真雪……? 倉橋のお姉さん? 磯崎君……?

 

 「磯崎君って、あの……」

 「諒君だ。舞伽のお兄さんだよ」

 

 ――舞伽様の?

 

 「先生、舞伽様はひとりっ子って……」

 「今はね」

 「……」

 「諒君も亡くなったんだ。真雪ちゃんを助けようとして一緒にね」

 

 湯川先生の遠い目。いつかの倉橋と一緒だった。

 

 「なんで……」

 「真雪ちゃん、沼池でね」

 「自殺ですか?」

 なんとなくそう感じた。

 磯崎 諒。

 倉橋 真雪。

 私がひっかかっていた名前。

 今までのことから推測して――それよりも私の中の何かがそう訴えた。

 「そうだ」

 湯川先生はハッキリと答えた。

 

 「後から聞いた話だと、イジメられていたらしい。らしいじゃいけないな。教師なのに気づいてやれなかった。悔やんでも悔やみきれないよ。学校裏サイトはチェックしていたんだ。教師もみんなシフト制でパソコンをチェックして、当時は抜かりはないつもりだった。それも……つもりだ。抜け道を作って、それを見破って、また抜け道を作る。生徒と先生の戦いだった。それでもまた見つからないように生徒も考える。その対象になってしまったのが真雪ちゃんだった」

 

 芯からの震えが止まらない。そんなこと、知らなかった。手にも足にも体中の細胞が自分めがけて攻撃する。心臓をギュッと握られたように胸が痛くて泣いてしまった。

 「当時は諒君が、ああやってリングの上にいた。真雪ちゃんがそこ。真雪ちゃんの弟の七歳だったオズマ君を連れてね。オズマ君は諒君に憧れてボクシングを始めたんだ。上町から迎えに来たお母さんと一緒にいたのが幼いころの舞伽だ。待っている間、よく二人でチョコチョコ遊んでたよ」

 

 吐く息と吸う息がほとんど一緒になるくらい胸を締め付ける。

 呼吸ができなくて、先生の話についていけない。

 「清水は大丈夫か?」

 

 ――清水は?

 

 「あ、あ、あ、あの……」

 精一杯出た言葉だった。話す言葉が見つからない。

 「正吾(せいご)も心配してたぞ」

 「パ、パパが?」

 「最近、清水の行動が変だって、奥さんも心配してるそうだ」

 ママも……。

 「あと、小野先生もな」

 

 ――え? オニヤンマも?

 

 「小野先生は一学期からいろいろ清水のことを気にして相談してきた。無理矢理クラス委員にさせられて、それでもがんばっていて、席替えはいつも同じ場所で、オズマとの噂もあるって」

 

 オニヤンマ……知ってたんだ。何も言えない。舌が滑らかに動いてくれない。

 「小野先生は、ああ見えて、千里眼なんだよ」

 

 いろんな気持ちが一辺に押し寄せる。体中かけめぐって、涙に変わる。

 真雪さんと諒さんのこと。倉橋の気持ち。

 パパやママ、小野先生、湯川先生の心情。

 

 何もわかってなかった自分にあきれて、腹が立って……。

 

 湯川先生には真雪さんと私が重なって見えたのかもしれない。

 だけど私はなんて答えていいのかわからず、止めどもない涙をハンカチで拭うことしかできなかった。

 

 のーちゃんはやっぱり真雪さんなんだろうか? いつになくのーちゃんのフワリフワリが軽快な気がする。弟との再会を喜んでいるように見える。

 ハンカチでは拭いきれなくなった流れてくる涙を、ぐしょぐしょになった顔全体を、バレエ用の大きめなタオルで覆った。

 

 倉橋が練習を終えて、こちらへ向かって来たのだ。

 

 「やっと、来たな」

 タオルから目だけ出して、倉橋を見た。

 「約束したのに、来ないから」

 倉橋、覚えててくれたんだ。私だって覚えてたよ。だけど、会えるわけないじゃん。ずっとそう思ってた。

 「今な、真雪ちゃんのこと話してたんだ」

 湯川先生がさっき私にした話を説明する。

 「昔の……話だよ」

 倉橋の額から玉のような汗が落ちる。手の上でプルンと生命が宿ったみたいに弾けた。

 いつかどこかで……。

 ――けやきの葉。

 「まだ、青いのに」って倉橋が言った。

 「青いから何?」って私は聞いた。

 「青いのに散るなんてかわいそうじゃねえ?」って倉橋が訴えた。

 「いいんじゃない? 運命なんじゃない? その葉っぱの」って私は突き放した。

 「じゃあ、自分だったらどうする? この葉みたいに若いうちに散っちゃったら」

 

 あの時……。倉橋は伝えたかったのかもしれない。それなのに私はなんだか倉橋のペースに乗せられる気がしてちゃんと答えなかった。

 真雪さんのこと……だったんだね。

 

 なんてひどいこと言っちゃったんだろう。

 なんて気持ちのないことを……。

 

 嗚咽が襲う。胸が苦しい。

 整えることもできずに、自分でも呆れてしまうほど、大声で泣いてしまった。


 灯台の光が漆黒の海を走り、浜辺から港へ、港から道路へ、道しるべのように差し込む。一瞬の光が倉橋の顔を照らして過ぎ去る。

 何回目の明かりが差しただろう。

 二人の間に流れる寡黙な均衡を破ったのは倉橋だった。

 

 「沼池で、水草に絡まってたんだ。葦の葉に。姉ちゃんの近くで、諒さんも発見された。姉ちゃんのせいで、諒さんも死んだんだ」

 

 葦……。

 

 「真雪さんのせいって……」

 「姉ちゃんの携帯電話、最後のメッセージは、諒さん宛だったんだ……『ごめんなさい。諒君を巻き添えにしたくないから。さようなら』諒さんは慌てて探しに行って、二人でよく行った沼池で、溺れていた姉ちゃんを助けようとして亡くなったんだ。結局巻き添えになっちまった。諒さんは病院のひとり息子だったから、院長先生が工面して一般には公表されなかったけど、親父は何度も何度も謝罪に行った。その都度院長先生になじられて、自分だって娘を亡くしてるのに、謝らなきゃならないって辛かったんだと思う。結局許してもらえず、逃げたんだ」

 「逃げた?」

 「姉ちゃんがいなくなって、母ちゃんと親父がしょっちゅう喧嘩するようになって、いろんな板挟みにあって、耐えられなくなったんだと思う」

 「ご、ごめん、私、何も知らなくて」

 「別に、知ってもらおうなんて思ってなかったし。おせっかいなオヤジが気にしてたけどね」

 「おせっかいなオヤジ?」

 「湯川先生だよ」

 「清水は大丈夫か? っていつも練習の時聞いてくるから、本人に聞いたらどうですか? って答えてた」

 「倉橋らしいね」

 口から自然に出てしまった。心のつぶやきが。

 

 「初音は、初音らしくないな。やっぱ弱音だな」

 「え?」 

 ここでそれ? まあ、確かにそうだけど……だから、何も言えないけど。

 

 「一学期、頑張ってたじゃん。何言われても言い返してたし」

 「そ、それは……」

 それは、倉橋がいたから。一緒にいてくれたって思い込んでたから。今、いろんな話を知って……言い訳にもならないけど。

 

 「俺、後期クラス委員に初音の名前書いたんだけどな」

 「え? そうなの?」

 「二票中、一票は俺」

 「じゃあ、もう一票は?」

 「自分に投票する人はいないんじゃね?」

 あ……舞伽様……。

 「あの……ごめんね。私、舞伽様のことも、知らなかった」

 「ああ、磯崎さん? 磯崎さんもお兄さん亡くしていろいろ大変だったから」

 「倉橋も……でしょ?」

 「まあね、でも、昔のことだから」

 

 昔のことって……。違うでしょ。今だってちゃんとあるでしょ? 忘れてなんかいないでしょ?

 「だから、携帯持たなかったの? だから浅く広くみんなと接してたの?」

 「え?」

 きっと真雪さんは、自分がいなくなれば、全て解決すると思っていたんだと思う。きっと諒さんが自分のことで犠牲になるのが耐えられなかったんじゃないのかな? どうにもならない負のスパイラルに巻かれて、身動きが取れなかったんじゃないのかな? 倉橋の気持ちや、お母さんお父さんのこと、亡くなってからも心配だったんじゃないのかな? だからのーちゃんになって、同じような気持ちの私に憑いたんじゃないのかな?

 

 ――もしかして?

 のーちゃん、私の自殺を止めたの? 

 危険な場所から遠ざけたの? 

 両手を広げていたのは「おいで」じゃなくて「ダメだよ」だったの? 

 真雪さんは……真雪さんは……。

 

 「真雪さんは、加害者じゃないよ」

 「……」

 

 倉橋が真顔になった。

 困惑を極める横顔。

 大きく息を吸ったかと思うと、ふと背を向けて、お腹を押さえながら冗談めかして笑った。

 「初音らしいな」

 振り向いた倉橋は、クシャクシャの笑顔だった。

 

 「なによ」

 何を笑われているのかわからなかった。私は本気でそう思ったから言ったのに。

 「ありがとう」

 倉橋の湖みたいな済んだ瞳に波紋が揺れていた。

 

 喉の奥が、熱くなった。呑み込むと今度は胸が熱くなった。その熱さを、私は全身で受け止めた。

 のーちゃんは、倉橋の近くで長い髪をなびかせながらピョンピョン浮いていた。

 

 ――のーちゃん、弟と会えて良かったね。

 そういえば……。

 「倉橋、ひとつ聞きたいことがあるんだけど」

 「なんだよ」

 「真雪さんって、ロングヘアだった?」

 倉橋はちょっと意地悪そうに横目で私を見てから、「今の初音には教えてやらない! 弱音が見えなくなったら教えてやる」と言った。

 「なにそれ」

 なーんかムカつく。真面目に話してるのに。おちょくられているみたい。

 

 「自分にぶつかれよ!」

 右手を高く挙げ、振り返ると、軽やかな足取りで闇に消えていった。

 私も灯台の道しるべに沿って、一歩を踏み出した。

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