第17話 10月シンクロ
やっとの思いで迎えたこの日、この時。
制服はすでに冬服に変わり、クリーニング仕立てのパリッとした感触が歩くたびに肌に擦れる。
この二週間、毎日が地獄だった。
耳を塞ぎ、目を閉じ、言葉を失くし、聞こえない、見えない、知らないふりをした。
そうかもしれないけどそうじゃないかもしれない不安に押しつぶされそうになりながら、倉橋からようやくマルをもらって、今日は少しだけ気分もいい。しっかりと襟を正して放課後を待った。
ホームルームが終わった瞬間に、急いで屋上に駆け上がった……ところまでは、記憶にある。
その後の記憶は、おぼろげに、で、ある。
記憶は、とぎれとぎれだった。
ズボンのポケットに手を突っ込んだまま、倉橋は屋上のドアから姿を見せた。大股でゆっくりと歩いてくる。一刻も早く伝えたい気持ちばかりが焦って、足がもつれ、声もかすれた。
「く、倉橋!」
いつもだったらポケットから片手を上げて「うぃーっす」って言うのに、今日は黙り込んでいる。視線は斜め下。口角は上がっていなかった。
「10分だけな」
妙に落ち着き払った態度は、私の気持ちとかなりの温度差がある。急激に自分の心を冷やす術もなく、そのままの温度で口走ってしまう。
「二クミチャが……二クミチャで……」
自分でも何を言っているのかわからなかった。このあたりはあまり覚えていない。
それでも今ある全てを倉橋にぶつけたつもりだった。主語のないメッセージのこと、そうかもしれないけどそうなじゃないかもしれない不安のこと。
二クミチャについての説明を険しい表情で一言も零さずにじっと聞いていた倉橋の口から、
「だったら、『私のこと?』って聞いてみれば? それで私のことじゃなかったらいいんじゃね? 知らん顔してればいいんじゃね?」
いとも簡単に「ごもっともです」と思えなくもない意見が零れ落ちた。
何も言えなかった。ボーっとしてしまった。視界に映る何もかもがぼやけていた。瞳の前に膜が張ってるみたい。
「オレ、時間ないから」
おぼろげな記憶をたどった。
確か私はこう言った。
「約束?」
「クラス委員ね」
「二学期ってそんなにやること多かったっけ?」
倉橋の透き通った瞳の水分が一気に凍てついた。
「それが前期副委員の言葉かよ?」
「え……」
私の心も氷結した。
「磯崎さんは、前期副委員の初音が完璧だったから、どうにか二学期もクラスを良くしようって、毎日いろんな企画を持ってきてくれてる。オニヤンマにも相談に行ったり……」
その先はほとんど覚えていない。
倉橋が舞伽様のことを延々とほめていた気がする。
ただ、わかってほしかった。
一人じゃないって思いたかった。倉橋には知っておいてほしかった。
相談に乗ってくれるって、勝手に思い込んでいた。一緒にいる時間が欲しかった。
きっと携帯を持っていないから、一人で苦しんでる私の気持ちも、二クミチャの恐ろしさも、今どんな状況か? なんてわからないんだ。
だから底なしに続きそうな倉橋の話を、目の前に霞む、ぼやけた景色を、自ら掻き消してしまった。どうしようもなくて、どうにかしたくて、どうすることもできない気持ちを、お腹の中から吐き出してしまった。
「わからないよ! 倉橋には!」
話を遮られた倉橋の細く切れ長の眼。瞳孔がカッと見開き、鬼のような形相に睨まれた。
「わっかんねーよ」
ぶっきらぼうに言い残したまま背を向けると、一度も振り返らずに、倉橋の背中は小さくなっていった。
それから私は何時間そこにいただろう。
屋上のはじっこ。倉橋と私のワードパズル会議の場所だ。
体育座りで膝を抱えて――。
寄り掛かった金網が腕にも背中にも絡みついてゆく。細い金属にどんどん身体が埋まってゆく。全身が固められて動けなくなった。
何を考え、何を思い、何をしていたのか、はっきりと思い出せない。
その間、風に紛れて金木犀の香りが仄かに漂っていた。甘ったるくて苦しい香り。
毎年この香りがするたびに思い出すのだろうか。
こんなみじめな自分を。
昼間の熱気も夕闇に吸い込まれ、虫たちの声が静かに夜を知らせる。
カバンの中からプルプルとマナー音が振動し始めた。
恐る恐るなんて言葉は消えていた。どうでもよかった。ただ振動していたから、鳴っていたから、それだけの理由でカバンから無造作に出して携帯を覗いた。
二クミチャだった。
――呼び出してんじゃねーよ!
から始まった本日のワードゲーム。
もう、誰が何を言っているのかさえ、わからなくなっていた。
――何? 何? 呼び出しって?
――振られたらしいよー。
――マジ笑える。
――失恋?
――泣いてるんじゃね?
――泣いても可愛くねえんだよ!
――そうそう。
――ざまー。
――ウケる バクワラ。
――キモッ!
――バッカじゃない?
――そういう人には学校来てほしくないし~。
――失敗作だもんな。
――問題児だろ?
――そうとも言うな。
――よく来れるよな。
――図々しいにもほどがある。
――来ればいいってもんじゃないだろう。
――マジ死んで欲しい。
――殺す?
――八つ裂き ヒエー。
――殺しても死なないんじゃね?
――せーかーい!
――死んだら認めてやるが。
――死ねば?
――一緒の空気吸いたくなぁい!
――汚れる。
――生きてる価値ないし。
――言えてる。
――嫌われてるのわからないのかな?
――わからなかったらただのバカ。
――いなくなったらスッキリするのに。
――BAK。
――バカは死んでも治らない。
会話が成立していた。バラバラじゃなかった。
まとまりのあるクラスだね。私を除けば。
死ねばいいの?
価値がないんだ。私。
生きてることが間違いなんだ。
多数決で決まったら、死んでもいいんだ。
私の代わりなんて、いくらだっているもんね。ここにいてはいけないんだ。
だって、私の居場所が……ない。
私が……ない。私は……ない。私も……ない。ない。ない。ない。いらないんだ。
雁字搦めだった金網の呪い。
「死のうかな」って思った瞬間にスッと解けて身体が自由になった。
突っ立って夜空を見上げる。
星は空に網目を張り巡らせて煌めいているのに、流れてほしいときに流れてくれない。
もしも流れたらお願いするのに。
みんなと仲良くなれますように。
元の私に戻れますようにって――。
パパ、ママ、ごめんなさい。
そう思ったら、一筋、星のようにまあるい涙が流れ落ちた。
鳴りやまない携帯の振動を無視して、金網に手をかける。
うっすらと思い出す記憶の中。ぼんやりとピントの合わないレンズの世界で、私は視界に映るもの、耳に飛び込んでくるもの、肌で感じるものすべてが信じられなくなっていた。
何もかもがどうでもよくなって、考えることもやめて、目の前のぼやけた金網を必死によじ登った。
――サヨナラ。
片一方の足で金網の手すりを跨りかけた時、ぼやけた視界に何かがよぎった。
――え?
影?
跨ったまま、手すりに両手を付けてその影を追う。
――何? 今の?
気を取り直してもう一度息を整える。
ゾクッとする夜気に触れた時、黒っぽい影がさっきより近くを横切った。
――うわ!
またもや影は、目の前に現れ、みるみるうちに大きくなり、人の形となった。
――さあ、こっち。
私の死を待っていたように、大きく、広く、両手を広げた。
「うわあ!」
私はバランスを崩して、屋上側に転げ落ちてしまった。
目をこすって見上げると、私と同じ制服を着た髪の長い女の子……。
――でも。
顔がない! 顔というか、目と鼻と口がない!
――の、のっぺらぼう?
逃げたくても腰がぬけたように、力が出ない。足が動かない。そのままの状態で、両手を使ってカバンと携帯を探した。後ずさりしながら、屋上のドアまでたどり着いた。
やっとの思いでドアを開けて、一目散で学校を後にした。
けやき坂を下り、けやき坂東公園をまっすぐ、横断歩道の信号が赤く点滅していた。
振り向くと、女の子のおばけはまだ追ってくる。
――ヤダ!。
信号が青になった瞬間に飛び出した。
――走る。走る、走る。
振り向かずに走った。息が止まるんじゃないかって思うくらい。
玄関のドアを開けたらすぐに鍵を閉めて、ダッシュでパパとママのいるリビングのソファに顔を伏せ、クッションを抱きしめた。
「おかえり、初音、どうしたんだ? 慌てて」
「遅かったのね」
パパとママの声。無事に帰ってこれた。安心して顔を上げた。
「うん、ちょっとね、学校でいろいろあって……」
――え?
パパとママの背後に……。
――いる。
フワフワと浮くのっぺらぼうのおばけ。
「わあ!」
思わずクッションを投げつけた。
「なんだ、どうしたんだ?」
「初音、どうしたの?」
クッションを投げた方向にパパとママが同時に顔を向けて、同時に不思議そうな顔をして私を覗き込んだ。
「み、見えないの?」
「何なの? ねえ、パパ見える?」
「ん? 何がだ? 何もないぞ」
ガタガタ震えている私を見て、ママは私のおでこに手を当てて、熱でもあるんじゃないかって心配し、パパはクッションを片付けながら玄関まで私の言った何かを探しに行った。
――見えないんだ。パパとママには。
その後、食事をしていても、お風呂に入っていても、顔のないおばけはずっと私の傍から離れなかった。
そわそわしていた私に、パパとママは「何があったの?」と聞いてきたけど、「何でもない、ちょっと疲れたみたい」って答えた。
その日はママにお願いして一緒に寝てもらった。目を開けるとそこにいるおばけの彼女が気になってなかなか寝付けない私に、ママは子守唄を歌ってくれる。もう子どもじゃないけど、今日はママの声で眠りにつけた。
次の日も目覚めたら、彼女はしっかりそこにいた。
ママに頭が痛いと嘘をついた。
学校に行きたくなかった。しかもこんなおばけ付で。
昨日のこともあったせいか、ママは「ゆっくり休みなさい」と言ってくれた。
一日中自分の部屋のベッドに潜り込んで、たまに布団から顔を出し、彼女を確認する。
いる。天井付近にフワフワと。
彼女は何者? 私に憑りついたの?
何度も何度も考える。誰かの霊? 学校で自殺した子? そんな噂あったっけ? 宇宙人? まさかね。物の怪? 妖怪? のっぺらぼうだから。
制服が同じ……ってことは、やっぱり学校に関係あるのかな?
そんなこんなで三日間、学校を休んで彼女とその理由について戦った。携帯はおろか、死のうと思ったこと、二クミチャのこと、倉橋のこと、美波のこと、すべて忘れて、おばけの彼女と戦った。
時に枕やぬいぐるみを投げつけたり、そーっと近づいて触れようとしてみたり、いくら攻撃しても枕はすり抜けてゆくし、触ることもできなくて、戦いにもならない。彼女はフワフワするだけで、何もしてこない。
顔がないから、悲しいのか、恨めしいのか、寂しいのかさえわからない。
いっそのこと油性マジックでかわいいお顔を描いちゃおうかな。そしたら、少しは怖くなくなるかもしれない。
あれもこれも何を試してもどうにもならなくて布団をかぶる。
どうなっちゃうの?
どうしたらいいの?
どうするべきなの?
何もできずに彼女の様子をじっと伺った。
よくよく観察すると、彼女はたまに風見鶏のようにスカートを翻してクルクル回ったりしている。その恰好が何とも滑稽で、怖いという感覚が、いつの間にか平常心となり、彼女のことをのっぺらぼうの「のーちゃん」と呼ぶようになり、私から離れないことが当たり前になりつつあった。
ママやパパは心配していたけど、多分本当のことを言っても信じてもらえない。
見えないのだから。
「きっと夢だ」と自分に言い聞かせ、眠りについて、朝目覚めてもそこにいる。
幽霊の割りには太陽に強いようだ。一般の幽霊のように……一般の幽霊がそうかどうかはわからないけど、朝日が昇っても消えてくれないのだ。果たして幽霊なんだろうか?
摩訶不思議な生き物なのか? イヤ、幽霊だったり、妖怪だったりしたら生きてないから生き物じゃないな。
疑問が疑問となり、更に疑問が覆いかぶさって、ここにいても解決ならないことを三日目の夜に悟った。
――明日から学校行こう。
のーちゃんは富士見学園中学の制服を着ているから卒業名簿を調べよう。確か図書室にあるはずだ。
ネットを使って調べてみたいとも思った。
でも……携帯は見たくなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます