第10話 6月未来ちゃん
『やればできる看板』で倉橋と別れ、まっすぐ港方面へ歩いた。
魚と潮の熟成された海風が、雨の余韻と混ざり合って生温い空気を運ぶ。
夜になれば、丘の上からの山風が吹き、このあたりも涼しくなる。
時折見かけるダイビングショップやサーフショップは、田舎町に不釣り合いな若さを賑わし、両隣の漁師飯やひもの店は団体客のバスで埋め尽くされている。
海沿いの古びた会館。地域のコミュニティーセンター。引き戸の玄関を開け、階段を上ると、私や未来ちゃんが通うバレエ教室がある。
ポワントレッスンが始まるまでは、それぞれがレオタードに着替えて、足首や身体の柔軟を行う。未来ちゃんも髪をお団子にしてクラスでは見せない表情に変わる。
「ねえ、初音ちゃん、今日発表会の曲目決まるんだよね?」
未来ちゃんは当たり前のように声をかけてくる。どうしてここでは話すんだろう。どうも納得がいかないまま「そうみたいだね」と答えた。
「今年は何を踊るのかな?」
「どうだろうね」
何となく自然に話せない。
きっと未来ちゃんはクラスにいればみんなと一緒になって悪口を言ってるはずなのに。そう思えば思うほど、口が堅く結ばれて、つまんない言葉しか出てこない。せっかく話しかけてくれてるのに。
未来ちゃんは私の隣に座り込みトゥシューズのつま先を手でグイッと引っ張った。
聞いてみようかな……。
今なら何かわかるかもしれない。未来ちゃんなら何か教えてくれるかもしれない。
シューズの紐を足首に巻き上げながら横目で未来ちゃんを見た。足首の紐をピッと締め、声をかけた。
「あのさ……」
ガチャッ。
扉の音、ああ、先生……。
ああ、来ちゃった。
私も未来ちゃんもレッスン生みんなが先生の周りに急いで集まる。背筋を伸ばして三番ポジション。バレエの基本足は一番から五番まである。三番はスタンディングポーズ。かかとを反対側の土踏まずにつける。手はアンバ。丸く下に向ける。
「今日は、来年三月に行われる発表会の演目を発表します」
先生の言葉に、内ももがキュッと締まった。
「チャイコフスキー、くるみ割り人形」
手も足もそのままで、みんな隣同士、顔だけが動く。
朝比奈(あさひな)マリ先生。
一条バレエ団出身。
レッスンは厳しいけど、サバサバしていて、後癖のない性格。バレエ教室の先生は他にも数名いるけど、幼稚園の時からマリ先生のレッスンを受けているから、中学に入っても、先生のレッスン日に合わせてクラスを選んだ。
「くるみ割り人形。一幕二場、二幕からなります。時は十九世紀のドイツ。二幕目がメインねー。お菓子の国の女王、金平糖の精やお菓子の精たちがクララを踊りで招く。踊りは、スペイン、アラビア、中国、葦笛、花のワルツ」
毎年演目は変わるけど、私は小学校一年生の時、くるみ割り人形を一度経験してる。だから何となくだけどイメージは掴めてる。
その時は『中国の踊り』を踊った。
赤白チェックのチュチュがかわいかったなあ。髪の毛はお団子二つで頭の両サイドに結び、ピョコピョコとした雑技団を思わせる踊りだった。何より目を引くのは『金平糖の踊り』キラキラで憧れたっけ。今回は何の踊りだろう。
「先生、配役はきまったんですか?」
レッスン生の一人が質問する。
「決まった。これから発表するから」
みんながザワつく。心もザワつく。
「クララ、浅井。金平糖、杉原……」
発表は続く。
「スペインの踊り、竹島、大津。葦笛の踊り、清水、高瀬……」
未来ちゃんと一緒だ。
『葦笛の踊り』か。
聞けばだれもが知ってるあの曲だ。二分三十秒って意外と長いんだよなあ。二人の息がピッタリ合わないと綺麗に見えない。未来ちゃん、バレエ以外でも練習につきあってくれるかなあ。不安になって未来ちゃんを見た。未来ちゃんは背筋を伸ばして、鼻を少し高くして、マリ先生の話を真面目に聞いている。
「清水! ボーっとしない!」
「は、はい!」
こういう不安はかき消したい。何の役にも立たないから。
「まだ半年以上あるけど、もう一年もないんだから、次回から基礎の後に振りを付けていきます。わかった?」
「はい!」
私もみんなも胸を張る。
毎年のことながら、レッスンはここからが長くてきつくなる。
「お父さんお母さん、おじいちゃんおばあちゃん、友達、みんなが来てくれるように今から伝えておくように!」
「はい!」
みんなだけが胸を張った。
友達……。
マリ先生から吐き出された、たった二文字に「はい」の返事ができなかった。
無性に心細くなり身体が震えた。
有砂……美波……。
小学校の頃から毎年花束を持ってかけつけてくれた美波。今年の発表会には有砂も来てくれた。
来年の発表会は?
来ないかもしれない。きっと来ないだろう。来ないはずだ。来るわけがない。
イヤ、未来ちゃんが舞伽様たちを呼べば、美波と有砂も来るかもしれない。
未来ちゃんの応援に。
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