第8話 6月美波の反乱
コトコトプクプク。
キッチンからママの音が聞こえてくる。
階段を降りる時、いつもの音に安心した。
私のお弁当と朝ごはんを作るママの少し丸い背中に、今日からまた学校へ行くんだなっていう日常を感じた。
少しのため息と、肉じゃがの湯気が混ざり合って、学校に行きたいのか行きたくないのか、葛藤に似た心の戦いが始まる。行きたいわけじゃない。でも行かなきゃならない。
「ねえ、初音、送ってくれて、お見舞いに来てくれた男の子、誰なの?」
キッチンからお弁当箱を運ぶママの顔がニヤけてる。
「ママの予想ハズレだから」
「え? 彼じゃないの?」
「クラス委員を一緒にやってるの」
「なあんだ、そうか」
少し肩を落とすママ。
中学生になってからママはしきりに彼の話をする。
「ママの時代はね、ママの初恋はね」ってちょっとウザい。
いつもの朝、だけど何か足りない。
「あれ? パパは?」
「今日、雨ひどいからお休み。まだ寝てるよ」
清水家はパパとママと私。三人家族。
生まれた時から下町の白岩町で育った。
代々続く植木屋がパパの職業。実はけやきを調べたときにもパパの力を借りてしまった。ママもたまにお手伝いに行く。公園に咲く花木の手入れや、別荘の庭に植えられた枝の剪定から管理などの仕事をしている。
小さい頃、パパに連れられ上町の向こうの連山にも行ったことがある。
夏や冬、春休みを使って別荘地に遊びに来る依頼主のために、木々の手入れに行くのだ。
連山にはリスやイノシシ、鹿も出る。たまに出会う動物たちに驚かされながらも、森の木々から放たれるリラックス成分を思いっきり吸いながら、そこら中走り回った。夏でもヒンヤリする木陰の風にこの身は幼くとも、気持ちよさは十分伝わった。
山は天気が変わりやすく、さっきまで木々の間から出ていた存在感のある太い光線も、瞬く間に薄くなったかと思えば突然雨が降り出す。「初音ー避難だぞー」パパの声と一緒に、ミニトラックに乗り込んで雨宿りをした。
「パパ、この雨いつ止むのかなあ」
「いつになるかな」
「早く止むといいのに」
「初音は雨が嫌いか?」
「だって、お外で遊べないでしょ?」
「そうだな、遊べないな」
「パパは嫌いじゃないの?」
「うーん、パパは、こうやって初音とお話しできるから好きかもな」
「ふーん」
公園から山まで、パパが仕事をする横で遊んだ記憶がある。外の仕事だから休みも天気に左右される。
ようやく熱も下がり、いざ現実に向かおうとママの朝食をガツガツ呑み込んだ。
その時私は、何が起こっても強気で行こうと心に決めていた。
二クミチャも、平平凡凡な議題「オニヤンマのベタついた黒髪について」髪を洗ってない説、ヘアクリーム説、ゴキブリの油説……と、下らない論議が交わされていただけだった。
だから強気で行こう。
美波の探るようなあの瞳と、倉橋の持ってきた不格好な桃の意味を探るために。
「傘持っていきなさいよ!」
運動靴を履いていた私にママがキッチンから叫ぶ。さらに
「運動靴じゃダメでしょ、長靴履いていきなさい!」
エプロンで手を拭きながら、スリッパを滑らせて近づくママの声が、一気に大きくなる。
「長靴はいいよ。天気予報で晴れるって言ってたから」
「まだ雨強いから、ホラ」
そう言ってママは長靴を差しだした。
――めんどくせ。
心で呟いてから玄関のドアを開けるとシャワーのような風が吹き込んできた。
わあ、雨、すごいな。
薄暗い町並みはいつもの通学路。今日は不安を心に潜めたままゆっくり歩いた。
横断歩道には自動販売機の白と、信号の赤がボーっと光る。雨に濡れたアスファルトが鏡となって反射する。傘に跳ねる雨粒が耳元でさらに激しいリズムを放つ。
横断歩道を渡れば、けやき坂東公園。美波は来るだろうか。
濡れた地面に反射した赤が青に変わった。
いざ出陣、と言わんばかりの意気込みで公園を目指した。
坂の上から低い通り道を見つけて、勢いを増す水流。避けても別の流れが足下を襲う。長靴がたまに埋まると、靴下までびっしょり濡れる。
――天気予報の嘘つきめ! 靴下持ってくれば良かった。
私は雨傘をしっかり握りしめ、坂を上った。
下駄箱で靴下を脱いでビニールに入れ、カバンに突っ込んで、そのまま上履きを履いた。
大きく深呼吸しながら廊下を歩いた。
素足に風があたる。
二年二組の四角いプレートを見上げて、もう一度息を大きく吸い込んだ。
甲高い笑い声の中に、上手く溶け込めるだろうか。
肩から掛けたカバンを両手でグッと掴んで教室へ入った。
「おはよー」
いつもより高くて大きめな声でそう挨拶した。
「おっはよー」
おどけた声が返ってきた。
倉橋だ。
その瞬間、ソプラノがテノールに変わる。大地を這うような、低くて、おどろおどろしい合唱が広がる。
何? この雰囲気。
悪役の登場で、場面転換ですか?
美波と有砂が一緒に廊下側の席からこちらを見ている。
「有砂、美波、おはよ」
私はいつものように声をかけた。
「……」
二人は顔を見合わせてから、何も言わずにその場を立ち去った。
休み前まで美波と一緒に上ったけやき坂。今日は一人で上ってきた。
美波が来なかった時から、本格的に覚悟していたものの、いざ無視されるとこの上なく心細くなる。
――いったい何があったの?
あの言動から考えてみた。
「倉橋に送ってもらったんだって? 昨日倉橋に寄りかかって歩いてる初音の姿、見た人がいて」
私と……倉橋? まさかね。
このままの状態では、有砂のときと同じことになる。美波を追いかけなくちゃ。
階段の踊り場に美波と有砂、そして、文果。私は大きな声で呼びかけた。
「美波!」
こちらをチラリとも見ない。
美波が私を無視してる。泣きたい気持ちを抑えながらもう一度言った。
「美波! 話があるの。私、何かした?」
「うっせーんだよ」
文果が小声で吐き捨てる。
大きな声なんて恥ずかしくて出したくなかったけど、美波だけは失いたくない。
「お願い美波、話聞いて」
美波はうつむいたまま、何も言わない。唇は貝のように硬直し、開こうとしない。それでも私は美波に話しかけた。
「美波、五分でいいから話聞いて!」
美波は、文果をチラッと見てから、「文果、初音と話したいの、少しだけでいいから話させて」とようやく決心を固めたように口を開いた。文果は仕方なさそうに頷くと、アゴで美波に合図を送った。
階段を一段一段下りてくる美波。
意思のある顔つき。
笑みもなく、ただ私をじっと見つめ、前髪を気にせずまっすぐこちらへ向かう。
怖かった。美波の表情。
意見するときの瞳だ。
「初音は嘘つきだよね」
「嘘つき?」
「うん。嘘つき」
「私、嘘つきじゃないよ」
「いい? 嘘つきじゃないって言う人はみんな嘘つきなんだよ」
何が言いたいの? どういうことなの?
このまま美波を失いたくない。
美波に嫌われたくない。
「ちょっと、美波、何があったの?」
美波の耳元に小声で話しかけた。
「私、お見舞いに行った次の日も、初音のお見舞いに行こうと思って、家に行ったの」
踊り場まで聞こえるくらいはっきりした口調で美波が答える。
「え? でも……」
来なかった。
美波は私が熱を出して二日目に一度来ただけだった。
「倉橋がいたから」
ああ、あの時か。
「あ、あのね、クラ、倉橋、お見舞いに来てくれたんだ」
ただお見舞いに来てくれただけ。
堂々と言ったつもりだったけど、少し声がひきつった。美波に言おうとしてることが、空回りにならないようにって、思えば思うほど、噛みがちになる。
「噂は本当だったってことだよね。倉橋を見て、確信した。私達は初音に裏切られた」
「う、裏切ったなんて、そんなことないよ! し、信じてよ! 私、あいつとは何でもないよ」
「信じたよ、ずっと、信じてた。でも、初音が倉橋とつきあってるなら、そう言って欲しかった。私にだけは」
「だ、だから、つきあってないって」
「つじつまがね、あわなかったの。初音をずっと信じてきて。でも、ようやく確信した。だから、もう、私に話しかけないで」
何が何だかわからない。
例え倉橋とつきあっていようが、話しかけないでなんておかしすぎる。もちろんつきあっちゃいない。
「違うんだよ、美波、お願い、ちゃんと聞いてよ!」
去りゆく恋人を必死で追うストーカーのように、美波に……すがりついた。
バシッ!
払いのけた。
私の手を……。
汚いゴミを捨てるように、まとわりつく虫を追い払うように。
美波……。
美波、行かないで。
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