15センチの距離

「圭って、好きな人いる?」

 その質問に、深い意味なんてなかった。昨日雪音に告白されたから。ただ気になったから。何となく聞いただけ。

 だから、真剣に返答されて凄く驚いた。圭でも、人を好きになることがあるんだって……私を、好きになってくれていたなんて。

「冗談……だよね?」

 私達は幼馴染みだけれど、誰よりも仲良しだけれど、圭は私のことが嫌いだってずっと思っていた。

「冗談なんかじゃねーよ」

 そう考えていたのは、私だけだったようだ。


 時は遡り、放課後。普通の高校生が、普通じゃないことをできる貴重な時間。

 雪音は、花嫁修行をすると言って私の側から離れていった。吹奏楽部への復帰も、前向きに検討しておいてほしいって言っていたっけ。

 そんなわけで、今日のお相手は一日ぶりの圭だ。

 『お相手』なんて表現をしたものの、現実はそんなにいいものではない。

 話し掛けても無反応だし、考え事をしているのか、歩く速度はどんどん上がっていくばかりで本当に散々な状態だ。

 私は、出会った時から高一の夏休み前までずっとやってきたこと──手を伸ばして圭の袖を掴むという行動をすることにした。

 私と圭は、謂わば飼い主と飼い犬。腕というリードを付けて、速度を一定にする必要があるのだ。

 のろまな私と、先々歩いていく圭を繋ぐリード。それは、どちらにとっても必要不可欠ものだった。

「圭?」

 彼の名を呼んで、右手を伸ばす。袖に触れれば、彼は私のことを思い出してくれる……触れられれば。

 うっかりしていた。癖になっていた。

 私は、今年の夏休みの間に大切なリードを失ってしまっていたのだ。

 たった十五センチ足りないだけで──圭の袖を掴めなかっただけで、私と彼との距離はどんどん開いていった。やがてその隙間は三十センチに、四十五センチに膨れ上がっていって、私達を遠く引き離した。

「圭!」

 彼の背中が小さくなっていく。彼の声が聞こえなくなってしまう。私は、一人になってしまう。

「圭!!」

 心からの叫びだった。今まで出したことのないほどの声量だった。

 圭は驚いて、体をびくりと跳ねさせた。

「どうしたっ!?」

 慌てて振り返った圭は、二人の距離を察してすぐに駆け寄ってきた。

「何で止まってるんだよ!? 置いていかれたと思ったなら走ってくればいいじゃねーか!」

 うん、その通りだよ。今ならきっと、そうしていたと思う。でも、過去の私では、そんなことは絶対にできなかった。

 私は、知らぬ間に逃げていたのだ。

 ──ペットボトルなんて、足で支えれば片手で開けられる。のりしおも、ポテチ専用のマジックハンドを買えば万事解決した。

 吹奏楽部は……雪音の言う通り、見方を変えればいくらでも残る手段があった。

 私は逃げていた。利き腕を失ったという事実から。その恐怖から。

 たった今、そのことを知った。

 雪音のものとは違う種類の涙が、私の内から溢れ出した。

 とても熱くて、しょっぱくて……嫌なのに、どうすることもできなかった。

「お、おい……何泣いてるんだよ? もしかして、俺のせいか? だったら悪かった。悪かった──!」

 ……また謝っている。もう、そんな言葉は聞き飽きたよ。もう、そんな言葉に価値なんてないよ──

「圭は……悪くないよ……」

 私は、また彼を励ました。

 必死に考えて、ようやく放った渾身の言葉だったはずなのに……いつの間にか、こんなにも安っぽくなっていたのだなあ。

 圭が、私を力いっぱい抱き締めた。どうしてそんなことをしたのかは、今でも教えてくれない。でも、とにかく安心した。包んでもらえたことがとても嬉しかった。

「うっ……うぅ……」

 圭の温もりが、私の心にできた氷を溶かしていく。できた水は涙となって、世界に落ちていく。

「何でもかんでも自分一人で背負い込むな。お前には俺がいる。ずっと前から、お前の側にいた」

「うん……うん……!」

 十五センチの喪失は、私に多大な影響を与えた。今までできていたことができなくなる恐怖を植え付けた。一生、この悪魔と一人で付き合っていかなければならないと思っていた。でも、それは誤解だった。

 様々な感情が入り混じり、私の心は酷く動揺してしまっていた。死ぬほど嬉しくて、笑っちゃうくらい悲しくて、どうにかなってしまいそうだった。

 まだ不安定だけれど、私はもう崩れたりしない。こうして、圭が側にいてくれたら、それだけで私は生きていける。

 無関心で不器用でぶっきら棒な男の子だけれど、根は真面目で時折びっくりするくらいの優しさを見せてくれる。とどの詰まり、私はこの人のことが好きだったみたいだ。

「圭って、好きな人いる?」

「……いる。俺は、戸上小春のことが好きだ」

「冗談……だよね?」


 時間は巡り、日本には再び芽吹きの季節がやってきた。

「新入生に、お前のオーボエを見せ付けてやれー!」

「暑苦しいね、小春。スポ根漫画でも読んだの?」

「単に、その音が一番吸引力があると思っただけだよ」

 まさか、約半年で戸上小春と肩を並べる実力者になるとは……これが、神童の実力というわけか。

「ほら、そろそろ出番だよ」

 舞台の上に、楽器達が並べられていく。彼らは奏者の右腕であり、頼れる相棒パートナーでもある。その観点でいくと、私が担当する楽器は雪音か。オーボエ以上に手間の掛かる子だが、まあ、悪い気はしない。

「小春を惚れさせる演奏をしてくるから。これが、私の二度目の告白ね」

「あらら。だったら、真剣に聴かないとね」

 演奏するのは“白鳥の湖”。オーボエのソロが一番の目玉であるこの曲の主人公は、勿論八代雪音だ。

「お前、俺とあいつのどっちが好きなんだよ?」

 私と一緒に裏方として吹奏楽部に復帰した圭が、妙な嫉妬心を燃やしていた。

「どっちもだよ」

 十五センチを失っても、居場所を与えてくれる人がいる。愛してくれる人がいる。それはとても光栄なことで、私は非常に恵まれた存在だった。

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15センチの距離 白鳥リリィ @lilydoll

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