15センチへの告白
雪音の要望により、私は夕日が昇るまでの時間を図書室で過ごすことになった。
そんなことをしていないで今日からでも吹奏楽部に顔を出せという話だが、私が正式に『残る』と言うまでは絶対に出席しないという雪音の意志を尊重して、一緒にサボることにしたのだ。
「帰ろっか」
読んでいた分厚いファンタジー小説を閉じて、雪音は私に帰宅を促した。
私も雪音を模倣して、彼女に従った。
昨日は圭と歩いていた道を、今日は雪音と帰っている。二人並んで、道ではなく堤防の上を進むのは思っていたよりも楽しかった。
「海岸にいこう」
砂浜に下りるための階段が見えてきた時に、雪音はそんな言葉を口にした。
「いいよ」
身体を上下に揺らしながら、石の段を一つずつ下りていく。それが終わると同時に、今までとはまったく異なる感触が足裏に流れ込んできた。
前に進もうとする私の足を飲み込む柔らかい砂。その厄介さはかなりのもので、私は下から視線を外せなくなっていた。
「転ばないでね」
雪音、それは先々進みながら言う台詞じゃないと思うけれど……
波打ち際のすぐ側まで歩いていった雪音は、急に立ち止まってカバンから一枚のシートを取り出した。
「制服が汚れないように、家から持ってきたの。お花見とかで使うやつ」
……なんという用意周到さ。どうやら雪音は、最初から私を誘うつもりだったようだ。
虹色の境界線を砂浜に敷いた雪音は、そこに座るよう私に命じてきた。
砂浜からは、空と海を隔てる境界線がよく見えた。上半分は雲一つないし、下は白い波がいつにも増して光り輝いている。同じ色で同じ大きさの似た者同士は、どこまでも対極的だった。
「綺麗な景色だね。宝箱の中みたい……!」
巨大なクッションと化した砂に腰を下ろしながら、私は雪音に感動を伝えた。
「……もっと綺麗なものが、ここにはあるけどね」
肌が触れ合うほど密着して、雪音も座り込んだ。私は、雪音が窮屈そうに思えたので少し横にズレることにした。
「えー、どれどれ?」
雪音は大きく溜め息を吐いて、この話を強引に終わらせた。
「今朝も言ったけど、私は小春のオーボエが大好きなの」
「私がいるから受験した……みたいなことを言ってたけど、私達って以前にどこかで会ってたっけ?」
「小春は、多分気付いてすらいなかったと思う」
「……その話詳しく聞かせてくれる?」
波のある海面よりも艶やかな雪音の唇が、ゆっくりと開いていく。
「──中三の時、小春も全国大会に出場してたでしょ?」
「分かった。雪音もそこにいたわけだ」
雪音はこくりと頷いた。
只者ではないフルートの腕の持ち主だとは思っていたが、全国経験者ならそれも合点がいく。
「自分の演奏が終わって、適当に他の中学の音を聴いてた私の耳に、頭おかしいんじゃないかってくらい綺麗なオーボエの音が響いてきたの。小春の演奏するオーボエの音が」
「……褒められてる気がしない」
『死ぬほど』なんて表現を口走った私が言うのはおこがましいが、『頭おかしい』という物差しも、あんまりいいものではない気がしてきた。
「一目惚れだった。この人と一緒に演奏がしたいって、本気でそう思った」
「……告白みたいだね」
茶化すために放った発言は、雪音に直撃したようだった。
夕日に照らされていても分かる紅潮。雪音は、すぐに右腕で顔の下半分を多い、顔を私から逸らした。
いつも無表情な雪音が、顕著な感情を露わにした。しかもそれが、まさかの照れだとは……!
「……やば、もふりたくなってきたかも」
必死に照れ顔を隠そうとする雪音の姿を見ていると、思いっきり抱き付いて、髪をわしゃわしゃしてやりたくなる。
もし私が男だったら、きっとこの胸の高鳴りを恋心と勘違いしていたのだろう。私には、神がとても残酷な存在に思えた。
「小春はさ──私のこと、好き?」
「んー? そうだね。好きだよ」
愛情と友情。どちらの意味で問われたのかは分からないが、少なくともライクの感情を抱いていることに違いはない。だから、この肯定は決して嘘なんかではなかった。
そのことをはっきりと雪音に伝えなかったのは、ただの悪心だ。もっと照れてくれれば、その分私もキュンキュンすることができる。そう、己の欲求を満たすことができるのだ。
このように、ワガママで欲張りな人間はすぐに懲らしめられることになる。今から私が体現してみせよう。
「私も好き!」
突然別の人格が宿ったかのように、雪音はこちらに向き直って私を押し倒した。覆い被さる彼女の頬は、もう夕日の色にしか染まっていなかった。
「う、うん。それはずっと言ってくれてたから知ってるよ?」
制服がはだけている。雪音の前なのに。隠さなきゃいけないのに。でも、雪音になら見られてもいいかなって、そんな風に感じている私がいる。
……ダメだな。この子の前では、私は戸上小春を取り繕えない。すぐに化けの皮を剥がされて、正体を暴かれてしまう。
「違う。その好きじゃない」
じゃあ、どの──?
「──戸上小春さん、私と付き合ってください」
……何で私なんだろう。だって、私達は女の子同士じゃないか。それは、少し普通ではなくて、決して言いやすい言葉でもないのに……どうしてあなたは、そんなに素直でいられるの?
分からない。八代雪音が分からない。戸上小春が理解できない。私は、どうしたいの? どうすればいいの──!?
悩んだ末に出した答えは、次の通りだった。
「……考える時間を頂戴?」
また逃げるんだ。この意気地なし。
自己嫌悪に陥りそうになっていた私のことを、雪音はとても理解していた。すぐに逃げてしまう人間は、檻の中に閉じ込めてしまえばよかったのだ。
雪音が用意した牢屋は、強制力のある言葉だった。
「今じゃなきゃダメ。でないと、私がおかしくなっちゃうかもしれない。耐えられなくなるかもしれない」
そんなことを言われても困るよ、雪音……
雪音の瞳から、一滴の涙が溢れた。落ちたそれは私の頬を伝って、やがて砂浜に染み込んでいった。
「泣いてるの……?」
「泣いてない。まだ泣いてない」
もう泣いているじゃん、嘘吐き。
「私じゃ頼りないかもしれない。期待に応えられないかもしれない。それでも、私をあなたの右手にしてほしい。一緒にいさせてほしい」
右手……気にしてくれていたんだ。ずっと触れてくれなかったから、てっきり眼中にないのかと思っていたよ。
「小春の代わりに、私が戸上小春のオーボエを吹く。私にはそれができる」
雪音は、涙に込められた思いを丁寧に説明していく。
だから私も、真正面から立ち向かう。
「それは無理だよ、雪音」
雪音の呼吸が止まった。いや、止まったのは時間そのものだ。
その中で唯一動ける私は、自分勝手にものを言い続ける。
「雪音が吹くオーボエは、八代雪音のオーボエだもん。それは、戸上小春の音じゃない」
「──どうしてそんなことを言うの? 私に意地悪しないでよ……」
「これが私。これが戸上小春。それを許容できない人とは、付き合えないよ。受け入れられない人は、付き合っていけないよ」
雪音は、大きく口を開けて反論しようとした。でも、言葉が喉につっかえて、うまく吐き出せずにいた。
やがて彼女は、否定することを諦めた。涙を流すことを止めた。代わりに、太陽にも負けないほど眩しくて尊い笑顔を、私だけに見せてくれた。
「──分かった」
私の上から退けた雪音は、ちょこんとその場に座った。
「私、諦めないから」
雪音の横に並んで、私も口を開く。
「次の挑戦を待ってるよ、雪音」
いつか、本当の私を理解してくれるようになったら、その時は──
「キスしてもいい?」
「……うえっ!?」
相手のことを把握できていないのは、むしろ私の方だった。と言うか、雪音の思考回路を読み解ける人なんて、果たしてこの世に存在しているのだろうか。フラれた後にキスを要求してくる人なんて、ドラマの世界でも見たことがない。
「お願い。したいの……」
やりたいからやるっていうものでもないと思うのだが……
──よし、ここはやんわりと、オブラートに包んで拒否しよう。
「私、初めてだからできないよ……」
ファーストキスは、好きな人にこそ捧げるべきものだ。なので、こう言っておけばおのずと雪音は諦めてくれるはず。
「……私も」
ほら見たことか──あれ?
「私の初めてをあげる。だから、小春の初めてがほしいの……!」
等価交換……! そんな手があったとは。
どうする、私。雪音は相応の価値──覚悟を示している。私の手札には、それを覆す何かがあるか?
否。私は受け入れるしかなかった。
心の籠った真なる愛の告白を否定した罪悪感が、私の拒否権を更に手の届かないところへと移動させる。
「い、一回だけなら……」
私の唇程度で雪音が救われるのなら、喜んで捧げよう。
「でも、あんまり激しいのはダメって言うか、お互い初めてだしやり方とか──」
お喋りで優柔不断な口は、力ずくで塞がれた。
雪音の柔らかい唇の感触、右手によってがっちりと後頭部を掴まれる感触……意識すればするほど身体が熱くなっていって、どうにかなってしまいそうだった。
十秒ほど経った頃だろうか。私は、雪音の欲望から解き放たれた。自分の贖罪から解放された。
「……バカでしょ、ほんと」
私は、自分よりも優れているはずの神童に向かってそんなことを述べた。
「バカだよ、私は」
神童もまた、神童をバカにした。
──悔しい。目が合わせられない。反射的に顔を背けてしまう。雪音が、魅力的な女性に思えてくる。
「何だか、小春のオーボエになった気分」
「ちょ、何かすっごい恥ずかしいからその表現は止めてくれる!?」
まるで私が、大勢の人が見ている前で──舞台の上でキスをしていたみたいじゃないか。
「小春は、オーボエを吹いていたからキスが上手なんだね」
「だから止めてって、もう!」
オーボエとキスには何の関係もない。どちらかが上手だとしても、もう片方まで得意とは限らないだろう。
まったく。相手が雪音じゃなくて圭だったら、今頃ボコボコのボコにしている。
……圭とキス?
「いや、あり得ないから!」
突然の怒号に、雪音は子供のように首を傾げた。
そう言えばあいつ、今日は学校にきていなかったな……
「どうかした?」
「ううん、何でもない」
帰ったら、電話でもしてやるか。
後に判明したことだが、この時圭は三度寝をしていたらしい。
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