15センチへの憧憬

「ただいまー」

 明かりの灯っていないリビングに、明るい声で帰宅を知らせる。当たり前のことではあるが、返事はなかった。

 私は、歓迎されざる我が家にずかずかと押し入って、ソファーにカバンを置いた。

 母は買い物に出ているのだろうか。この時間に帰ってきていないとなると、今日の晩ご飯は簡単に作れる料理なのだろう。

 『まあ、美味しければいいや』という言葉で証明を終わらせ、カバンから取り出したコーラを右腋で抱えた。

 温くこそなっているが、まだ体温よりは冷たい。ひんやりとした感触を楽しみつつ、冷蔵庫の前へと移動する。それから、白い扉を開けて、唯一のペットボトルを中に陳列した。

 コーラのペットボトルを見て、両親はどれほど目を丸くするのだろう。更にそれが、私のものだと知ったらどうなってしまうのか。

金魚みたいな顔をした家族の姿を想像して、私は一人でにやけていた。


 リビングを出て階段を上っていると、二階から妹の日和ひよりが下りてきた。

「あっ、小春こはる姉おかえりー」

「その言葉は、ただいまって言った時に返してほしかったかなー」

 中学二年生の妹、日和。勉強も運動もできて、おまけにメチャクチャ可愛いという色々ずるい私の家族だ。

 部活は帰宅部に所属もとい無所属だが、頻繁に各部活にお呼ばれしているみたいなので、実質全部活に所属していることになる。

 何もない日は、一日中部屋に籠ってネトゲライフを満喫しているというダメ人間なのだが、周りがそのことを知る由もなく……

「あー……その時間はレイドボスと戦ってたわ」

「そっかそっかー。じゃあ、今からお姉ちゃんとも戦おっか」

「遠慮しとくよ。あっ、そうだ。今からアイス取りにいくんだけど、小春姉もいる?」

「んー、もらっておこうかな」

 食べたいか食べたくないかと聞かれたら微妙と答えるくらいの食べたさだったが、今家にあるアイスは二つに割るタイプのものだけだ。一本丸々妹に食べさせて、お腹でも壊されたら堪ったものではない。

「オッケー!」

 ご機嫌な様子で階段を下りていく妹の背中を見送って、私は自分の部屋に入った。

 カバンを机に置いて、制服のままベッドで横になる。シワになるのもはだけているのも、これといって気にはしていない。誰も見ていない自室くらい、気を緩ませてもバチは当たらないだろう。

「小春姉、入るよー」

「どうぞー」

 袋に入ったアイスを片手に、ツインテールの少女が私のお城の中へと入場してきた。

「小春姉の代わりに、私が半分に割ってあげよう」

「悪いね、日和妹よ」

「苦しゅうない。食べ終わったら、着替えさせてあげるからね」

「えー、自分でできるよ?」

 日和は、両親の何倍も過保護だった。時間を掛ければ一人でできるようなことも、効率が悪いからと言って手伝ってくるのだ。

 身体的にはとても助かっているのだが、私の場合、それ以上に申し訳ない気持ちが湧いてくるから心苦しい。

「やってあげてるんじゃなくて、私がやりたいからやってるだけだよ……合法で小春姉の柔肌に触れられるし」

「優しさの裏にはそんな悪意があったの!?」

 日和は半分に割ったアイスを咥え、物理的に言葉を濁した。

「ほれ!」

 横たわる私の口に、今度はとても冷たいものが突っ込まれた。


 翌朝、寝ながら登校してきた私に、吹奏楽部の部員が姦しく言葉を発しながら集合してきた。

「小春、今すぐ部室にきて! 後おはよう!」

雪音ゆきねが大変なの! ついでにおはよう!」

「おはようが先じゃないの……?」

 私は、どうも朝に弱い。対策として二十二時に就寝してもこの有り様だ。

 欠伸を噛み殺し、なお溢れてくる涙を指で拭って、部員の対処をする。

「すぐに向かうから、先に部室にいっててよ」

 静謐な朝に舞い降りた騒乱。眠気が吹き飛ぶような事態に陥っていなければいいのだが……

 などと、ふわふわした頭で考えながら準備を進める。やるべきことを済ませた私も、先ほどの二人に続いて音楽室へと向かうことにした。


 二階にある教室から、更に二つ分階段を上る。そこから廊下を突っ切って、突き当たりにある部屋が音楽室だ。

 土足は厳禁なので、まだ口を開けたままの靴箱に上靴を入れる。それから私は、大本命である音楽室の扉を開けた。

 部室のど真ん中には、件の雪音と顧問の先生が対面する形で立っていた。

「あっ、小春!」

 誰かが私の名前を呼んだことで、向かい合っていた二人がこちらに顔を向けてきた。

「何かあったんですか?」

 閉じたままになりそうな瞼を必死にしばたたかせながら、二人の言い分を聞かせてもらう。

 初めに開口したのは雪音だった。

「小春、もう部活に戻ってくる気はないの?」

 雪音は発言しながら、力強くカーペットを踏み締めて私の眼前まで接近してきた。

 足取り、声色、表情……どこを取っても、必死そのものだった。

「うん、ないよ──」

 雪音の気持ちを理解していながら、なおこんなこと言うのはとても気が引けた。

 でも、私はここにいても足手まといにしかならない──なれないのだ。

 いない方がいいと分かっていて残るなんて真似、私には絶対にできない。

「分かった」

 雪音は深く頷いて、再び顧問と視線を交わらせた。

「私、吹奏楽部を辞めます」

 とても効果のある目覚まし時計だった。私を蝕んでいた睡魔は即死し、私自身もまた、驚愕で命を落としてしまいそうになった。

「ちょ、どうして……!?」

 意味が分からない。話に脈絡がなさすぎる。よく突拍子もないことを口にする少女だなーとは思っていたが、まさかここまでだったなんて……!

 雪音は、無駄なくその理由を話した。

「オーボエ、一人だけだったでしょ?」

 ……無駄はないが、必要な単語も足りていない。私は雪音に、更なる説明を要求した。

 ただし、答えたのは雪音本人ではなく顧問の先生だった。

八代やしろさんは、戸上とがみさんのオーボエが大好きだったみたいなのよ。だから、戸上さんが辞めるなら自分も辞めるって聞かなくて……」

「はあ……」

 そう言えば、八代雪音はよく私のオーボエの練習を聴きにきていた。この行動には、そんな理由があったのか。

 だとしても、雪音が吹奏楽部を脱退するのは論外だ。

「雪音、全国を目指すんだったらあなたのフルートは必要不可欠だよ?」

「小春のオーボエがない時点で、地区大会すら難しいと私は思ってる」

「褒めてくれるのは嬉しいけどさあ……」

「私は、小春以上のオーボエ奏者を見たことがない。ここに入学したのだって、あの戸上小春が受験をする予定だって聞いたからだよ?」

 一体どこから情報が……って、そんなことはどうでもいい。何としてでも、この頑固な神童を吹奏楽部に残留させなくては。

「戸上小春のいない吹奏楽部じゃダメなの?」

 ──我ながら、とてつもなく意地悪な質問をしたものだ。だって、こんなの否定するしかないじゃないか。周りに排除されないために、自分の居場所を残しておくために、雪音は首を横に振らなければならないのだ。

 ……きっと私は、天国じゃなくて地獄巡りをすることになるんだろうなあ。

「ダメ。戸上小春のいない吹奏楽部じゃ、私はやっていけない」

 一度の台詞で、二回も頷かれてしまった。

「そんなに私を引き止めたいんだったらさ、またあのオーボエを聴かせてよ。事故のことは気の毒だと思う。でも、ここで諦めたらそれは逃げたのと同じでしょ?」

「……はあ?」

 ああ、ダメだ。ごめん、皆。ごめん、雪音。私は今から、最低なことを言うかもしれない。

 私の脳が沸騰してしまうのも、もう時間の問題だった。この脳には、既に思考能力がない。全てが、感情という熱に寄生されている。

 自分でも想像できないくらいの怒りを、知らなかった思いを、雪音にぶつけていく。

「私が、どんな気持ちでここを去ったと思ってるの!? 何を思って夢を諦めたと思ってるの!? 悔しくて、悲しくて、自分に腹を立てて、殺したくなって、死んでしまいたくなって……! 私は、決死の覚悟をしたの! 諦めたんじゃなくて、逃げたんじゃなくて、自分でそう決めたの!!」

 全てを持っている雪音に、私の痛みを否定されるのがどうしても許せなかった。

 知ったような口を利く彼女に、思いをぶつけるしか方法がなかった。

「ちょ、小春……?」

 自分で言うと途端に説得力がなくなってしまうけれど、私は普段、穏やかで誰に対しても優しく接するように努めてきた。周りも、同じ思いでいてくれていたんだと信じている。

 顧問の先生も同級生も先輩も、皆私から距離を置いていた。それが恐れからきたものだってことは、顔を見ればすぐに分かった。

 大人しいやつこそ怒らせると怖い。これは、まさしく真理だったのだろう。

 まあ、これで雪音も怖じ気付いてくれたことだろう──そんな“普通の人”に対して抱く感情を“普通じゃない人”に向けていたことを、私はこれでもかと言うほど分からせられることになる。

 しっかりと地に足を付けて私の気持ちを傾聴してくれた雪音の姿は、戦国武将のように勇ましかった。

「──そんなに苦しいんだったら、吹奏楽部に居続ければいいじゃない」

 声に震えがない。感情が振れていない。

 どうして動揺していないのだろう。何でそこまで強くいられるのだろう。

 脅したつもりでいた私の方が、いつの間にか雪音に慄かされてしまっていた。

 ……でも、私が負けるわけにはいかない。私は、この恐怖に立ち向かわなければならない。

 私がはっきりと伝えた心の声は、雪音によってしっかりと否定されることとなる。

「だから、それが迷惑になるんだって何度言えば分かってくれるの──」

「迷惑じゃない!!」

 迷惑じゃ、ない……?

「少なくとも私は、そうは思わない」

「手を失った人ができることなんて、ここにはないよ……」

「ある。小春──私に、オーボエを教えてほしい」

 虚を突かれた私は怒りすらも失って、全身を本当の無というものに支配されてしまった。

 何を選択すれば、全てが丸く収まるのだろう──それを考えるためには、少し時間が足りなかった。

「……ごめん、すぐには答えが出せないよ」

「分かってる。これは、真剣に考えるべきことだから」

 音楽に対して天才的な才能を有している雪音ならば、きっと私を越えるオーボエ奏者になれるだろう。しかし、オーボエという楽器は一朝一夕で演奏できるようになるほど簡単なものではない。今年の大会の出場を──もしかしたら来年すらも、一切合切捨て去るくらいのリスクは発生するだろう。

 長い目で見れば、複数人いるフルートから一人もいないオーボエに雪音を引き抜くことは悪くない選択だ。だが、短期的に考察すればどうだろうか。三年生の先輩が、それを許してくれるだろうか? 最後の挑戦を、みすみす諦めてくれるだろうか?

「……一時休戦ね」

 顧問は、込められていた力を息と共に吐き出した。彼女の脱力具合は、そのままへたりこんでしまうのではないかと思えてくるほどだった。

「ほら、早く教室に戻りなさい? もう、授業が始まってるわよ」

 音が聴こえたわけでも誰かが指示したわけでもないのに、私達は皆、息を揃えて時計の方を向いた。

「やっば!」

「せっかくの無遅刻無欠席記録がー!」

 止まっていた時間が動き出したかのように、生徒達は慌てふためいて扉の前に殺到し始めた。

「担当の先生には、部活の集まりがあったって伝えておきなさい。責任は、全部私が取るから」

「流石先生、話が分かる!」

 口では綺麗なことを言っているが、表情は心を正直に表していた。

 先生、綺麗な顔が引き攣っていますよ……

「私のせいで……ごめんなさい、先生」

「戸上さんは何も悪くないわ。当然、八代さんもね」

 先生の苦笑に苦笑いを返して、私もドアに群がる小鳥ちゃん達の仲間入りをしようと、まだ失っていない足を一歩進ませる。その時、雪音が私を呼び止めた。

「ねえ、小春。今日の放課後、時間ある?」

「あるけど……?」

 今まで以上に険しい面持ちの雪音。一体、何の話をするつもりなのだろう……?

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