肆 誇郷

 目覚めは唐突だった。


 夢を見ていた気がする。何かに追われて逃げるうち、はっと、まぶたが開いた。体が動いた。


「斎藤さま?」


 時尾がオレを見下ろしていた。薄暗い中で、時尾の大きな目が張り詰めている。


 血の匂いがした。汗の匂い、埃の匂い、薬の匂いがした。

 まばたきをする。指を動かす。胸いっぱいに息を吸い込んでみる。


 体じゅうの骨がきしんで痛んだ。腹に鈍い痺れがある。痛みは生きている証だ。オレは命脈を保ったらしい。


「斎藤さま、わたしがわかるがよ?」

「ああ……ここは座敷牢か?」

「はい。死んづまってもおかしくねぇほど痛め付けられて、じょすんべしと思ったけんじょ、目を覚ましてくれてよかった」


 時尾は泣き出しそうな顔で笑った。オレはまぶしくて目をらす。時尾に手を借りてどうにか上体を起こすと、目眩めまいに襲われた。


「無理はなさらねぇでくなんしょ」


 時尾の声が近い。寄り掛かっているんだから当たり前だ。時尾の体は温かかった。部屋は冷たい。オレは寒さのせいで目覚めたのかもしれない。


 何を見るでもない目に、覚えのない柄のあわせが映っている。上等なもので、擦り切れてもいない。寝ているうちに着替えさせられたらしい。


 記憶がよみがえる。オレの体には指一本触れさせないと、時尾は板垣たちにたんを切った。つまり、そういうことだ。時尾が全部やったってことだ。


 じわじわと恥ずかしさが込み上げた。目眩が収まったところで、時尾から体を離す。肌寒さを覚えた。


「……世話に、なったみたいだな」

「わたしでねぇと治せねぇ傷だったなし。お役に立てて安心しました」

「や、その、着替えを……体、汚れていただろう、オレ」


 余計なことを言ったと気付いたのは、言ってしまった後だった。


 時尾は両手で顔を覆って、声にならない声を上げた。嫁入り前の上級武家の女が、男の裸なんか見慣れているはずはない。時尾にとってみれば、とんでもなくはしたない仕事だっただろう。


 気まずい。が、どうしようもない。謝るのも、たぶん何か違う。


 しばらくして、時尾が肩で息をして手を下ろした。たもとから布切れを取り出してオレに突き付ける。誠の一文字と段だら模様。時尾が縫った袖章だった。オレも時尾も互いの顔じゃなく、袖章だけ見ていた。


「捨てずにいてくださったなんて、たまげました。術の効果も消えて、何の役にも立たねぇのに」

「オレの手元に残った新撰組の印は、これだけなんだ」

「大事なお印だから、捨てられねかったがよ?」

「ああ」


 オレは時尾の手から新撰組の袖章を受け取った。汚れて染みだらけで、あちこちほつれている。


「出過ぎたことをしたのではねぇかと、ずっと気になっていました。新撰組の外の者が勝手に、斎藤さまにとって大事なお印をこせっつまって」

「もらったときにも言ったはずだが、嬉しかった。この印はオレの誇りだ。それをあんたはわかってくれた」


「だって、新撰組の羽織も旗も、斎藤さまに似合っていました。京都で初めてお目に掛かったときは、鮮やかなあさ色の羽織でした。その次は黒地の羽織、また別のときは白地の羽織。段だら模様は、わたしにとっても忘れられねぇお印だなし」


「荒くれの、嫌われ者の印だ」

「わたしは、嫌いなんかではねかったです」


 突然、咳払いが聞こえた。座敷牢に下ろされた格子の向こう側、あんどんが作る影が動く。オレは身構えようとしたが、体が鈍い。時尾がオレをかばって進み出た。


 明かりの中に姿を見せたのは、板垣だった。


「そろそろ邪魔してもいがか? 斎藤一に話があるき」

「いつからいた?」

「おんしが目覚める一寸ちっくと前からじゃ。見張りが付くがは当たり前じゃろう」


「土佐の総大将自らが見張りか?」

「たまたま見回りに来てみりゃあ、当直が居眠りしゆう。何ちゅうて起こしちゃろうかと考えよったら、おんしのほうが起き出した。けんどのう、女と仲良くするがは、せめて牢を出てからにしぃや。目障りじゃ」


「黙れ。てめぇら、こいつに何もしなかっただろうな?」

「ちょっかいを出しちょったら何じゃ?」

「殺す」


 板垣はいきなり笑い出した。時尾の細い後ろ姿から殺気が立ち上る。板垣は気にする様子もなかった。太い格子に手を掛けて、座敷牢をのぞき込む。


「おんしら、似た者同士じゃのう。人質は無事に生かしてこそ人質としての価値があるっちゅうがを、おんしらから学んだぜよ。単なる力業では、おんしらを封じ込めることは難しい。こんな格子が何の役に立つろう? けんど、おんしらはそこでおとなしくしちゅう」


 時尾が声を上げた。


「条約があんべし。わたしは約束を破らねえ」

「ああ、わしも信用しちゅう。おんしらの目には光がある。戦に負けて国を奪われて明日をも知れんっちゅうがに」


「土地でも武器でも差し出してやんべ。奪いてぇだけ奪えばいい。けんじょも、魂と誇りは決して差し出さねえ。五十年、百年経っても、あなたがたが都合よくすべて忘れっつまっても、わたしたちは屈辱を忘れねえ。わたしたちの怒りは消えねえ」


 板垣は首をかしげた。いつしか真剣な目をしている。


「会津はわしらに一切の協力をせんと言うがか? そりゃあ困る。新政府は力を蓄えにゃあならん。日本は、外国と対等にやり合える国にならにゃあならんのじゃ。そのために、会津の武士には力を貸してもらいたい。そして、斎藤一、おんしにも」

「てめぇの配下に就けとでも言うのか?」


「わしでのうても構わん。無論、わしの下に来るなら、それがいちばんいけんど」

「願い下げだ」

「愛想のない男じゃのう。剣士として、将帥として、間者として、得がたい能力を持っちゅうがに、このまま埋もれるつもりがか? 能力を活かして食っていこうとは思わんがか?」

「てめぇに世話をされる筋合いはない」


「会津藩士の沙汰はまだ確定しちょらんけんど、おそらく開拓じゃ。になるか陸奥むつになるか、いずれにせよ不毛の雪国に送ることになるろう。斎藤、おんしは行かんでもい。会津の生まれではないき、理由を付けて配下に呼ぼうっちゅう者は沢山こじゃんとおる」


 時尾がオレを振り返った。おびえたような顔だった。

 オレは袖章を握った拳で胸を打った。痛みが、ずんと響く。


「誰の指図も受けない。オレは、オレの選んだ道を行く」

「わしらとともに来るつもりはないっちゅうわけか」

「オレは会津を選ぶ」


 板垣は不敵に笑った。


「おぉの、馬鹿者べこのかあめ。苦労しぃや。まあ、かわいい嫁さんと一緒なら、苦労のし甲斐もあるかもしれんけんど」

「不愉快な言い草だな」

「いちいち目くじらを立てなや。おんしとはいずれまた会うろう。仕事がほしけりゃあ東京に出てきい。こき使うちゃるぜよ」


 野心のぎらつく目をして、板垣は去っていった。いつの間にか起きていた見張りが、言い訳をしながら板垣を追い、叱り飛ばされて戻ってくる。


 緊張が解けたのか、時尾がへたり込んだ。


「安心しました。斎藤さまが会津を選んでくれて」

「何を今さら」


 時尾が頬にえくぼを作った。オレは、息をついて寝転がって目を閉じた。


「斎藤さま、具合あんべはまだおつらいがよ?」

「ああ。起きていられない」


 体じゅうがだるくて頭が重かった。それだけじゃなく、胸の奥がよじれるように痛かった。

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