捌 自刃

 用水路はほどなく、山に穿うがたれたずいどうに吸い込まれた。隧道のまわりの草や石造りの入口には、血で汚れた手形が付いていた。白虎隊はここを進んだのか。


 俺は背をかがめ、隧道に入った。水は俺の膝ほどの深さだが、意外に流れが強い。そして冷たい。片手を岩肌に沿わせながら進む。あたりはたちまち真っ暗になった。風が通り抜けるからさほど長くないとわかったが、気味のいいものではない。


 暗いのは、隧道が曲がっているせいだった。出口のすぐそばに至って初めて、外の明かりが見えた。水を蹴って足を速める。


 飯盛山の中腹に出た。目の前には山影が迫り、視界が利かない。俺は水から上がり、若松を見晴らせる場所を目指して駆け出した。


 脚の怪我の療養中、飯盛山にも幾度か来たことがある。寺と神社と墓がある飯盛山には誰もが入ることができるから、子どもにとって格好の遊び場だった。


 白虎隊もかつてはこの山を駆け回って遊んだのだろう。あの真っ暗な隧道だって、度胸試しの遊び場だったのかもしれない。だから、ほかでもない飯盛山を帰路に選んだのだ。


 雨の名残を留めて湿った山の風に異臭が混じっている。煙の匂い。血の匂い。鼻ではないどこかで感じる、寒気をもよおす何かの匂い。


「あいつらはどこだ?」


 胸騒ぎが強くなる。第六感がざわざわと波立って、つかみどころのない焦りが募る。引き寄せられるように、俺は足を止めることができない。


 声が聞こえた。低い声、幼い声、震える声、泣き叫ぶような声が唱和して、詩を吟じている。


「辛苦そうほういっけいよりつ。かん落落たり、四周星。山河さい、風、わたただよわせ、身世ひょうよう、雨、うきくさを打つ」


 儀三郎が仲間の符丁と呼んだ詩だ。昔の中国の秀才がその身の不遇を嘆きながら、敵国にはくだらぬ、祖国への忠誠を貫いて死のうと決意を詠んだ詩だ。


きょうこうたん辺、皇恐を説き、零丁洋裏、零丁を嘆く。人生、いにしえり誰か死無からん。たんしんを留取して汗青を照らさん」


 何を思った? 何を見た? 白虎隊は今、何をしている? 何をしようとしている?


 墓地を突っ切る。木立が開け、若松の街並みが見下ろせた。城下町、武家屋敷のあたりが炎と煙に包まれている。


 突如、いくつもの悲鳴が響いた。刀が肉を断つ音が折り重なった。血の匂いが鼻を刺した。


 崖を一段跳び下りて、俺は血の海を見た。


「何を、してる……」


 喉が干上がった。膝が砕ける。体がわななく。これは尋常じゃない。頭の中で警鐘が鳴る。だが、退避するにはもう遅い。


 あたり一面、急激に妖気が広がった。


 俺は妖気にとらわれた。臓腑が冷たい手にわしづかみにされ、そのままずるずると引きずり出されそうな心地。おぞましさに耐え切れず、倒れ込む。


 立ち上がれない。ただ、見た。目をらせなかった。


 地獄絵だった。喉を突く少年。腹を切る少年。互いに互いの心臓を突く二人組の少年。岩に噛ませた刀の上に倒れ込む少年。腹に刀を突き立てたまま痛い痛いと叫ぶ少年。


 十数人の少年たちが泣きながら死んでいく。あるいは、死に切れずに苦しんでいる。のたうち回る体から、血とともに妖気が噴き出す。泣き声に獣のほうこうが混じる。目が爛々らんらんと赤く光っている。


 環の力が暴れている。渦巻いてほとばしる妖気が俺をも呑み込もうとする。


「土方さま……土方さま、情けを……おらを、かいしゃくしてくなんしょ」


 儀三郎が血と腸を引きずって這い寄ってくる。ひどく聞き取りづらい言葉は、牙の伸びた口からこぼれ出た。


「なぜ、儀三郎、これは……」

「何もできねかった。橋を落とすことも、陣を守り切ることも、殿を護衛することも……おらたちは、何ひとつ、できねぇまま」

「ちゃんと戦ったじゃねぇか。立派な初陣だった」


「城下に敵を入れたりしねえ、お城も武家屋敷も守ると、おっかつぁまに約束して、だけんじょ、城下に火が……あれは、おっかつぁまや、あねつぁたちや、おらの許嫁いいなずけが、敵に奪われねぇようにと自ら……おらが、約束、守れねかったから……」


 儀三郎の赤い目から涙があふれる。止めどなくあふれる。母を思う子どもの涙だ。守るべきもののために戦う男の涙だ。失えないものを失った、己の弱さに打ちひしがれる武士の涙だ。


「土方さま、おらは、じょすれば……腹を切っても、死ねねぇのです。介錯して、くなんしょ。死にてえ。おらに、情けを、どうか……」


 短刀をつかむ儀三郎の手が次第に形を変える。爪を持つ獣の手だ。腕が見る間に太くなる。白と黒の毛が交互に生えそろう。


 駄目だ、正気になれ。そう言ったつもりだった。妖に堕ちるな。人の姿に戻ってくれ。妖気に侵された俺はあえぐばかりだ。指先ひとつ動かせない。


「あ、ああ、土方サま……アァ、おらに、情ケヲ……」


 儀三郎だけじゃない。死に損ねた少年が、一人、二人と血の海の中で妖に変じていく。涙を流す赤い目が俺をとらえ、いまわの際の苦痛を訴える。


「死にてエ、死ナせてクレ」

「痛ェ、痛ぇ、イテェ、イテェ」

「ああアぁァァああ……ッ」


 やめてくれ。苦しむな。死なせてやりたい。だが、俺には何もできない。


 唐突に、足音がした。

 俺の背後から歩いてきた者がいた。


「こりゃあまた、まっこと、ひどいもんじゃ。どうも奇妙な気配があると思えば、こんな子どもがのう」


 洋装の男だ。男が刀を抜き放つと、刃が蒼い光を放った。

 儀三郎が焦点の定まらない目で男を見上げた。


「お味方デすか……?」

「だとしたら、何じゃ?」

「情けヲ、かけてクなんシょ。死なセて……」


 男は眉尻を下げ、儀三郎の傍らに膝を突いた。震えながら妖と化そうとする体を抱きかかえ、耳元に口を寄せる。


「味方じゃ。安心せい。もう苦しまんでい」

「アりがトウ……ごセェマす」


 男が儀三郎の首に刀を押し当て、儀三郎が目を閉じた。事は一瞬で終わった。


 儀三郎の体を丁寧に横たえた男は立ち上がり、刀を振って血糊を飛ばした。苦しんでうめく瀕死の少年へ近付く。男が刀を振り上げ、振り下ろす。少年が沈黙する。


 男は顔を上げた。


「ここからは若松が一望できるがか。煙が上がりゆうがを見て絶望したか、敗戦の責任を感じたか。何にせよ覚悟を決めて腹を切るとは、子どもながらに立派な武士じゃ。けんど、子どもに腹を切らせる大人どもは無能っちゅうよりほかないのう」


 蒼い刀によって少年たちの苦痛がすべて断たれると、途端に妖気が掻き消えた。嘔吐をもよおしながら、俺は体を起こす。四肢がまだ、わなないている。


 男が血濡れた刀を提げ、俺に向き直った。


「環を断つことは、命を絶つこと。環を断てるのは、環を持つ者のみ。この子どもらは環を持つ自分の手で、あるいは環を持つ者同士で命を絶った。転生もできん永劫の苦しみからは救われたわけじゃ」


 深く息を吸って吐くと、血の匂いにせそうになった。俺はジャケットの袖に爪を立て、男を睨んだ。


「おまえは何者だ?」

「おんし、その顔は新撰組の土方歳三じゃな。男前じゃき、一度見たら忘れん。何じゃ、わしのことは斎藤一から聞いちょらんがか?」


 白虎隊に見せた憐憫は、男の顔から消え失せていた。代わりにあるのは、ぎらぎらとした闘志。いや、殺意か。


「土佐の、板垣?」

「ほうじゃ、わしは土佐の板垣退助。けんど、名乗ったところでお別れじゃのう。わしの名を冥途の土産に、今ここで死にぃや!」


 渾身の太刀が俺に迫る。迎撃は間に合わない。

 俺は袖章を破った。


 何か大きなものにつかまれ、投げ出された。天地が狂い、目が回り、頭の中が真っ暗になる。気が遠のいた。


 ずん、と落ちる感触があった。ぬかるんだ土の匂いがした。

 不意に視界が戻る。


 地面に投げ出された俺を、斎藤が慌てて抱き起した。見覚えのない場所だ。ここはどこなのかと訊く。斎藤は答えた。


「日橋川をさかのぼったあたり。もうすぐ塩川で、米沢街道と合流する。土方さん、何があった?」


 斎藤の破れたの隙間から蒼い環がのぞいている。俺にはそれがない。赤い環もない。だから、ただただ無力だった。


 俺は斎藤を突き放し、地面を殴り付けた。


ちくしょうッ!」


 見開いた両目から涙が落ちた。

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