陸 主君
悪夢でも見ているかのような光景だった。
火炎と銃撃に追われ、蒼い刀を
橋が振動する。だが落ちない。炎が二人を襲う。鬼が立ちはだかり、刀はただただ石橋めがけて振るわれる。橋は落ちない。
俺は焦燥を抱えるばかりで立ち尽くしている。
突然、脇腹に軽い体当たりを食らった。濡れそぼったシジマが
「土方さま、教えてくださいまし。鉄砲は、ここを引けば弾が出るのですか?」
竹子はヤーゲル銃を構えているが、危なっかしい。脇が開いて銃身が安定せず、銃口の向きも低すぎる。
「よせ。撃ったこともねぇくせに」
「味方が苦戦しているのです。見過ごしてはおけませぬ」
「貸せ、俺が撃つ」
「いいえ、わたくしに教えてくださいまし」
頑固者め。俺は竹子の背後から両腕を回し、竹子の手ももろともに鉄砲を支えた。竹子が小さな声を上げるのを無視して問う。
「弾は入ってるんだろうな?」
「う、撃てる状態だと聞きました」
「
二段になった引き金を引く。銃声。腕の中で竹子が体をこわばらせる。
伊地知には命中しなかった。すぐ傍らで旗を持った兵士がくずおれた。伊地知は気にする様子もなく、炎を放った。
橋の上で炎を受け止めた佐川さんが勢いに呑まれ、斎藤を巻き添えにして吹っ飛んだ。川面に落ちる。鬼から人の姿に戻った佐川さんは起き上がらない。
斎藤が佐川さんを
俺は橋の
「銃を構えろ! 撃て、攻撃しろ! 連中をこっちに渡らせるんじゃねえ!」
己への
藩境突破の急報を受けて掻き集められた兵士と武器は、質がいいとは言えそうにない。だが、橋の長さは三十六間。火縄銃でも余裕で射撃できるどころか、俺程度の
何でもいい、何をしてもいい、無様でもいいからここは勝ちたい。打つ手はないか? できることはないか? 照準の狂った旧式銃を撃つしかないのか?
敵は激しく撃ってくる。伊地知は後衛に下がったが、前陣の砲兵の背後から炎の塊が時折、大砲の弾のような山なりの軌道で飛んでくる。
斎藤たちは川の中に取り残されている。雨脚は弱まらない。上流で鉄砲水でも起こったらどうなる?
炎の塊がまた放たれた。シジマが鋭く鳴く。炎はこちらに飛んでくる。
まずい。やられる。直感しながら動けない。
突如、光の板が眼前に生じた。炎が板にぶつかる。炎が弾け飛ぶ。
「危ういところであったな、土方歳三」
涼やかな声に、俺は息を呑んだ。反射的にひざまずく。即座に、立て、と肩に手を置かれた。
前会津藩主、松平
容保公の年のころは俺と同じ。超然とした風格が誰をも圧倒するというのに、並んで立てば見下ろすほどに小さいと知り、驚いた。容保公は線が細く、まるで少年のようだ。
竹子が悲鳴を上げた。
「殿! 滝沢の本陣にいらっしゃったのではないのですかっ?」
「藩境を破られたと聞き、気が気ではなかった。じっと知らせを待つばかりではいられぬ」
「ですが、藩主
「間違うてくれるな。わしはもう藩主ではない。伏見で負け、大坂から逃げた責で隠居した身。藩主は養子の
「そうはおっしゃいますけれど、会津の要は若殿おひとりではなく、殿と照姫さまもです!」
「なればこそ、わしが戦陣に参じたことは意味を成そう。川の中に取り残された者を救いに行く」
制止の声が四方八方から上がり、俺も島田さんも無礼を承知で容保公を取り押さえようとした。
容保公はすでに飛び上がっていた。翅が風を打って
光景に目を奪われて銃撃を止めた薩摩軍の前衛に、伊地知が再び姿を見せる。
容保公が右手を挙げ、振り下ろす。
「会津勢よ、銃撃を続行せよ! わしはあらゆる攻撃から身を守ることができる。流れ弾など気にせずともよい。だから撃て! 会津を守れ!」
伊地知の炎が再び容保公を襲うが、障壁は破られない。光をまとい、三対の翅で宙に浮く容保公の姿は異形だ。あまりにも神々しい異形だった。
双方の銃声の
いつの間にか白虎隊の少年たちが前線で銃を撃っている。逃げ腰だった者も戻ってきた。散り散りだった新撰組と伝習隊も、それぞれの旗の下に集う。
俺は
「容保公が会津勢の士気を段違いに上げた。こんな仕事は容保公にしかできねえ」
人の上に立つ者が
日新館で出会った秀才、白虎隊士中二番隊の副長を務める篠田儀三郎が、そろいの黒い洋式軍服をまとった二十人ほどの仲間を率い、馬上銃を
「土方さま、私たちに戦闘の教練をお願ぇします」
「生きるか死ぬかの前線で教練もへったくれもねぇだろう。指示に従え。それだけだ」
「はい!」
川に取り残されていた兵士が続々と岸に上がってくる。冷えた体を震わせながらも銃を取り、薩摩軍に向き直る。
岸に降り立った容保公は障壁を消し、全軍に通る声で
斎藤が佐川さんを支えて、俺のもとへ戻ってきた。遠目にはわからなかったが、二人ともずいぶん傷だらけだ。
「昨日は心配したぞ、斎藤。無事でよかった」
「追手を振り切るのに手間取った」
「怪我はなかったか?」
「深手はない」
炎の塊が飛来する。容保公が障壁を広げて受け止める。炎の消えた宙を睨む容保公は、白い顔に疲労をにじませている。異形の力を手にし、銃弾や砲弾から身を守れるといっても、万能ではないのだ。頼り切りにしてはならない。
俺は白虎隊を振り向いた。
「儀三郎、士中二番隊は会津公の護衛と言ったな?」
「はい。本隊の私たちは二班に分かれ、殿の前後をお守りしてまいりました。幼少組は滝沢で待機させています」
「ここの銃撃は激しい。公の御身の安全を確保するのが第一だ。俺が撤退を命じたら、素直に応じてここから引け。いいな?」
「撤退? 戦わねぇのですか?」
「戦略上、それが必要な場合もある」
「戦わずに逃げる? 守り通せず逃げる? 逃げることが必要?」
儀三郎のつぶらな目の奥に赤い光がちらついた。成しかけの環が少年の体に妖気を巣食わせている。
俺は、ぞっとした。忌まわしげに「逃げる」と繰り返す儀三郎から薄気味悪さを感じた。その胸中を隠すため、
「儀三郎、指示に従えと命じたはずだ。返事は?」
「……はい。わかりました。従います」
儀三郎は目を伏せ、
再び上げられた儀三郎の目は黒く澄んで、きまじめだった。俺はほっとして、儀三郎の肩を叩いてやった。
「日新館で学んだ砲術の腕を見せてくれ。流れ弾を食らわないよう、できるだけ体を低くしていろ」
戦いたい、役に立ちたいと
「犬死するなよ」
俺のつぶやきは戦の
***
激しい銃撃戦は夕方まで続いた。雨は上がらない。
敵軍は続々と到着した。圧倒的な火勢に押され、俺たちは撤退を決めた。十六橋からいくらか引いた戸ノ口原の各所に隊ごとに分屯し、一夜を明かす。
容保公は前線に留まりたがったが、戸ノ口原には防塁になるものがない。雨さえ
白虎隊は前線に残った。容保公に直接掛け合い、戦いたいと申し出たのだ。容保公の許可を得た白虎隊に、俺は、後で合流するからと待機場所を指示した。
「右手に見える小高い丘の北の
「わかります。
「俺たちが川岸から撤退したら、敵の一部は橋を渡って明日の払暁攻撃の支度を始めるだろう。夜襲をかけてくるかもしれない。十分に警戒しろ」
「はい。気を引き締めます」
「近くに人影が見えても、味方だと頭から信じて声を掛けちゃならねえ。そいつらがしゃべる言葉をよく聞け。会津の言葉でもなく、俺が使う江戸の言葉でもなかったら、敵だと思って警戒するんだ」
「わかっています。私たち白虎隊が露払いをしておきますから、土方さまたちもお気を付けて」
機敏な仕草でお辞儀をして、白虎隊は撤退した。それを最後に、儀三郎たちの消息が途絶えた。俺たちが待機場所に到着したとき、そこに白虎隊の姿はなかった。
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