伍 乱闘
八月二十二日早朝、豪雨。
会津軍を率いるのは鬼佐川こと佐川官兵衛。京都の鬼に環の力を授けられた、会津きっての猛将だ。鬼の張り手を受けたという右の頬には、赤い環が
佐川さんは、角張っていかつい顔にしわを寄せ、風雨を透かして猪苗代の方角を睨んだ。
「連中が来ねぇうちに橋を落とす。見張りを除いて残りの兵士は全員、作業に回すべ。新撰組も伝習隊も力を貸せ」
すでに会津軍は川に入り、つるはしや
「佐川さん、橋の長さはいかほどですか?」
「三十六間だ。橋桁の数は二十三。八十年ほど前に架けられた、頑丈が取り柄の十六橋だ。落とすのは容易ではねぇが、ここで防ぐしかなかんべ」
「雨が我々の敵となるか味方となるか。この雨脚の強さなら、足下も視界も悪い。大砲の到着は遅れるでしょう。敵が銃をどの程度撃ってくるか」
「ああ。刀と槍の戦なら、わしらにも
新撰組と伝習隊、合わせて三百人が早速、川に入った。俺のそばには、新撰組の旗を背負った島田さんと、剣の腕に覚えのある隊士が数人残る。
増援だろうか、会津藩士の一群が橋を渡って駆けてくる。その中に思いも寄らない人物を見出した。
「竹子どの」
いつだったか東山の湯治場で出会った江戸育ちの男勝り、中野竹子だ。陣笠をかぶった男に交じって
竹子の参陣には佐川さんも驚いた。
「何をしている! 戦場は
鬼佐川の気迫に打たれても、竹子は引かない。鉢巻を締め、
「お言葉でございますが、佐川さま、敵はまだ城下に攻め入ってもおりませぬ。籠城の支度だなどと気弱なお言葉、佐川さまらしくないのではございませんこと?」
「万一の備えだ。わしもここを突破されるつもりはねえ。けんじょも、とにかく、
「なぜです? わたくしの薙刀は男に引けを取りませぬ。滝沢本陣で殿をお守りする白虎隊、あんな子どもたちが戦働きを許されるのなら、わたくしにもできることはございますわ」
「薙刀の腕前や年のことを言っているのではねえ! 女子が前線にいる、それだけで舐められるべ。わかんねぇか? 会津にはもう戦える男がいねえ、女子まで引っ張り出さねばなんねんだと、敵は笑うに違ぇねえ」
「笑う者はわたくしが斬り捨てて差し上げます」
「生け捕りにでもされたら
「さようですか。わかりました。戦わせていただけぬのなら、ここで自害いたします。土方さま、
竹子は言い放ち、腰に差した短刀を鞘から抜いて切っ先を喉に突き付けた。さすがの佐川さんも会津藩士も慌てて、竹子の短刀を取り上げようとする。竹子は喉元に刃を据えたまま周囲を睨んだ。
俺はため息をついて竹子に近付いた。
「前に話したときも大した跳ねっ返りだとは思ったが、これほどとはな。覚悟があるのは理解する。ただ、今ここで自害だ何だと騒ぐのはよしてくれ。士気が
短刀をつかんだ竹子の手に、俺は自分の手を添える。奪われまいとして竹子が腕に力を入れたが、所詮は女の力だ。つぼを押さえて手首をつかむと、短刀は呆気なく落ちた。
竹子が苛烈なまなざしを俺に突き立てた。俺は短刀を拾い、泥を払って竹子の腰の鞘に戻してやった。
佐川さんが、ぽかんとしている。
「土方どの、中野竹子と知り合いがよ?」
「一度だけですが、竹子どのの裸を堪能したことがあります。ほどよいぬくもりが心地よい一時でしたね」
無論、心地良かったのは湯治のことだ。竹子には指一本、触れちゃいない。が、含みを持たせた言い回しに、竹子は悲鳴を上げた。
「土方さまっ、何をおっしゃるのです!」
「嘘などついちゃいねぇが」
「誤解を招くではありませぬか!」
「ほう、どんな誤解を招くって? そう親の仇を睨むような目で見るな。おまえさんだって、俺の背中や尻を誉めてくれたじゃねぇか」
「わたくしはお背中のことしか申しておりませぬ!」
佐川さんたち会津藩士は唖然としている。島田さんは苦笑した。冷たい風雨の中でも竹子が真っ赤になっているのがわかる。
茶番はそこまでだった。雨音に交じって、大勢が走る足音が聞こえてきた。敵の先鋒の到着らしい。
佐川さんの頬の環が、ぎらりと輝いた。その全身から闘志がほとばしって風を為す。佐川さんは声を張り上げた。
「しめた、大砲はねぇぞ! 乱戦になれば鉄砲も使えねえ! 迎え撃て、突撃!」
先陣を切って走り出した佐川さんの体が、ぶわりと膨れ上がる。
鬼だ。
会津勢は佐川さんの背を追い、鉄砲を
雨の向こうに
鬼が
「撃てぇっ!」
佐川さんの号令に、会津勢が一斉に鉄砲を構え、撃つ。そして再び走り出す。敵がまばらに撃ち返す。会津勢は刀を抜いて距離を詰め、乱戦に突入する。
竹子が単身で敵中に飛び込もうとした。危うい。シジマが、後ろから竹子に斬り掛かってきた敵兵に飛び付いてその体によじ登り、顔を噛み裂いた。
俺は竹子の腕をつかんで引き寄せた。
「背中をがら空きにしてんじゃねえ! 俺の後ろにいろ」
「女だからといって、情けは無用にございます!」
「違う、俺の背中を預けるって言ってんだ。互いに互いの死角を潰して戦う。勝ちたけりゃ無謀な真似をするな」
「……かしこまりました」
真紅の段だら模様の旗が雨中にも鮮やかに映える。新撰組だ、やっちまえ、と
俺は鼻で笑った。
「掛かってこいよ。新撰組はおまえさんたちの天敵だろうが」
「その口、塞いじゃる! 一番首、もらい受けるど!」
低い体勢で突っ込んでくる敵に、俺は泥を蹴り上げた。目潰しを食らって
刀で人を殺すのはいつ以来だ? 最早、鉄砲や大砲で戦う時代だ。刀なんぞ時代遅れ。わかってはいても、なぜだろう、こうして天然理心流の真剣を振るって初めて、己が何者かを痛烈に理解する。
俺は新撰組の土方歳三。
敵の剣を受ける。受け流し、返す刀で斬り付ける。肉を断つ手応え。血しぶきがたちまち雨に洗われる。
剣先を下げ、挑発して待つ。叩き込まれる斬撃は、しかし遅い。軽くいなして刺突。軽装の腹を刀がやすやすと貫く。
「京都や大坂での乱闘より簡単じゃねぇか」
ほんの一年前にはまだ、
鎖帷子は銃弾を防がない。和装を捨てたとき、鎖帷子もお払い箱にした。敵も同じらしい。その軽装なら、斬り合いに持ち込めば単なる
鬼と化した佐川さんを筆頭に、少数の会津勢が多数の薩摩軍を蹴散らしていく。このまま押し切って追い払うことができれば。
突如、
次の瞬間、炎の塊が一団の兵士を吹き飛ばした。敵も味方も、もろともだ。
赤く燃え立つ髪の騎乗の男が、腕を頭上に掲げた。その手のひらから炎が噴き上がる。男が鬼を見据え、にたりと笑った。
男が腕を振り下ろす。炎が走る。鬼が腰をため、張り手を繰り出す。
男が俺を見た。いや、新撰組の旗を見た。
「おはん
吠えるように笑う男は、左目が
薩摩の軍略家、伊地知正治。火砲の扱いに長けた、精鋭速攻の戦術の使い手。眼帯を外さない左目は病後のためと聞いていた。居合の腕は確かなものだが、左脚が悪い。
伊地知の手のひらに炎が生じる。薩摩藩士が、さっと左右に退いた。伊地知は味方の巻き添えも
「させるか!」
凛と響いた声に、伊地知が気を
「斎藤!」
伊地知は手綱を引いた。蒼い剣光が
「しぶとか男じゃ。まだ生きちょったか!」
「そう簡単に死ぬかよ」
「よかど、気に入った! 斎藤一、やはり、おはんはおもしろか!」
「黙れ」
斬り掛かる斎藤の刀を、伊地知の炎の手がつかんだ。斎藤は振り回され、弾き飛ばされる。転がった斎藤を
常人がどうこうできる戦いではない。
我に返った顔の薩摩藩士が橋を指差した。
「今じゃ、橋ば奪え!」
俺も我に返る。真っ先に橋へ突撃しようとする背中に追いすがり、斬る。俺は声高に命じた。
「新撰組、会津藩、突出しすぎだ! 戻れ、橋を背に戦え!」
命じながら下がり、下がりながら敵を
しかし、多勢に無勢。じりじりと追い詰められる。会津勢は一人、二人と脱落する。川に入る敵兵がいる。橋桁を破壊する背後から襲われ、会津藩士が死んでいく。
ごうっ、と空気が
逃げろ、と誰かが叫んだ。そいつはまともな言葉を発しただけましだ。意味を成さない悲鳴を上げて、会津勢の戦意が霧散した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます