肆 湖畔
新撰組が母成峠の台場に布陣するころ、倒幕派の軍勢も続々と中軍山の台場に集結した。その数、千五百を超えただろう。正面からの斉射に加え、余力を側面に回り込ませての追撃に、俺たちは到底、耐え切れなかった。
母成峠から若松方面へ撤退する。いや、
混迷の中で斎藤が行方知れずになった。負傷兵を
秋の日が落ちるころ、俺たちは猪苗代の集落にたどり着いた。倒幕派は母成峠で宿陣を張ったが、薩摩軍の一部が残党狩りに繰り出しているらしい。はぐれた者は、無事を祈るよりほかなかった。
猪苗代の集落の外れで大鳥さんと再会できた。伝習隊もぼろぼろになっている。朝には四百ほどいた兵士のうち、今、点呼が取れるのは半数に満たない。生気のない顔の兵士に囲まれ、さすがの大鳥さんも疲労を隠せずにいる。
俺はまだ望みを捨てていない。
「猪苗代で迎撃しましょう。二日持ち応えれば、若松からの増援と合流できるはず。それまでどうにか猪苗代で戦いましょう」
大鳥さんを励まし、新撰組をまとめ直し、猪苗代で迎撃だと繰り返す。猪苗代にも城があり、その城壁に
俺の作戦はほどなくして崩れ去った。
猪苗代に駐屯していた会津藩士が若松への帰還を急ぎ、城から退去するついでに、敵軍に活用されるのを防ぐため、城と神社に火を放った。俺たちが気付いたときには手遅れで、猪苗代城も土津神社も激しく炎上し、手の
風向き次第では、火が集落全体に回ってしまうかもしれない。民は避難を始めていた。家財も何もかも打ち壊して出ていく。
「使えるもんを残してったら、全部、
憎しみもあらわに
「懐かしいよ。京都でも嫌われていたからな。新撰組は共食いも
中でも俺は、血濡れた鬼の副長と、
餓鬼のころに憧れた武士は、こんなふうじゃなかったはずだ。
多摩には野盗が
ああ、引っ繰り返してやったさ。俺自身が、無力な農民から金や食い物を奪う立場になっちまった。
一度はこんな自分を認め、丸ごと呑み込もうと腹を決めた。俺が心底惚れ込んだ武士の中の武士、新撰組局長の近藤勇を盛り立てるためなら、俺は日陰者にでも鬼にでもなってやろう。
その近藤勇を死なせてしまった。新撰組隊士全員を
理想の武士の生き様と、今の俺の
「笑うしかねぇだろう、なあ、近藤さん」
俺は笑った。嵐の来そうな空に向かって笑った。湖を渡る風の
そして、笑っても泣いても何も変わりやしないことを思い出した。
潰走の最中にいつしかほどけていた髪を掻き上げる。ジャケットの袖章が目に留まった。誠の一文字。赤い段だら模様。
まだ終われない。
俺は、右の拳を左の手のひらに叩き付けた。心地よい痛みが左腕を突き抜ける。目を覚ませ。頭を使え。新撰組の局長は俺だ。俺が近藤勇にならなければいけない。
猪苗代から若松へ至る経路上、最後の要衝は
行動を起こすのは明日だ。勝負は明日だ。
宿営へ戻ろうと、俺は
「局長が一人でふらふらほっつき歩いてたんじゃ困るよ。心配を掛けさせないでくれ」
俺も上背はあるほうだが、島田さんはさらに四寸以上も高く、がっしりと肉が付いている。見るからに頼もしい上、俺より七つばかり
風に吹き乱される髪をざっとまとめ、ジャケットの襟の内側に突っ込んで、俺は島田さんと並んで歩き出した。
「心配させてすまねえ。あれこれ考えることがあってな」
「斎藤のことか?」
「ああ……いや、あいつは生きてるだろうよ。悪運の強い男だ。それに、この袖章がある。どうしようもなく心配になったら、術式を破って向こう側に飛べばいい。そこに斎藤がいる。まだそれをする必要がない気がするのは、あいつが無事だからだろう」
「土方さん、話せることがあれば、何でも話してくれ。聞くだけならできるぞ」
「そうだな。近藤さんとは夜通しだって話したものだ。会津に来てからは、どうも俺ひとりで考えちまうことが多い。そして目測を誤る。今回は醜態を
「母成峠、突破されてしまったな」
「突破されるとは思っていたさ。兵力が違いすぎる。ただ、一日で落ちるとは思っていなかった。撤退の直前に斎藤も言っていたが、兵力を分散させるのは間違いだった。明日はうまくやる」
「明日、猪苗代は捨てるんだな?」
「攻めやすく守りにくい土地だ。ここに留まっても、勝ち目はねぇだろう。十六橋まで引けば、若松から突出した会津軍と合流できる。合流後、敵が到着する前に橋を落として、川を要害にする」
「承知した。それからどうするんだ?」
必然の問いだった。新撰組は今後、どう戦っていくのか。
「雪が降るまで持ち応えれば、倒幕派もひとまず会津から撤退するだろう。そこからが勝負だ。戦を海に持ち込む。幕府艦隊の火力なら、薩長の艦隊にも引けを取らない。互角に戦える状況を作って反撃を仕掛ける」
「なるほど」
「近藤さんならそうすると思うんだよ。滅びるまで牙を
願わくは、狼でありたい。犬のように飼い馴らされるつもりはない。幕府の
武士になりたいなどと望まなければ、俺はきっと、もっとうまく生きられた。今ごろどこかの
馬鹿馬鹿しい。そんな人生、今さら未練もない。
愚かで構わない。俺は武士として死ぬ。その日が例え明日でも、泣き言なんぞ垂れ流して逃げ出すほどの軟弱者じゃあないはずだ。
島田さんが、ふっと笑った。
「京都を離れてからの土方さんは、ますます男っぷりが上がったように思うよ。京都にいたころは、花街の女から贈られた恋文の山を自慢するような、しょうもないところで他人の恨みを買っちまう男だったが」
「おや、そんなに恨まれていたか?」
「後ろから刺してやろうかという声が耳に届くほどに。色恋の恨みは深いものだぞ」
「挑まれれば受けて立ったんだがな。まあ、何者が来ようと、返り討ちにしてやるだけだ。優男だと舐めてもらっちゃあ困るね」
眉をそびやかして笑い返しながら、思う。生き死にの境目でこの上なく研ぎ澄まされた今の俺が、俺も好きだ。
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