二 斎藤一之章:Fire 白河口の戦い
壱 前線
女のささやく声が聞こえる。
「斎藤さま。起きてくなんしょ、斎藤さま」
時尾だ。
オレはほんの少し、まぶたを開く。時尾の小さな手が、オレの袖に触れようか触れるまいかと迷っている。
手は結局、引っ込んでいった。時尾は再びオレを呼んだ。
「斎藤さま、軍議が始まっつまいます。そろそろ起きてくなんしょ」
オレは目を開けて顔を上げた。
どきりとした。膝をかがめた時尾が、ひどく近い。時尾も、自分から近付いたくせにオレと同じで、息を呑んで目を
「寝ていたのか、オレは」
壁に背を預けて座り込んで、刀を抱いていた。首や背中がこわばっている。
「一時ほど寝ておられました。本当はもっと休んでもらいてぇけんじょ」
「これで十分だ」
「嘘です。十分なはずはねぇべし。今月の初めに会津を出てから今日この白河城に入るまで十五日も、斎藤さまはほとんど寝ておられねぇと、皆、口をそろえています」
「
「だけんじょ、
時尾が眉を曇らせると、垂れた目尻が
「さすけねえ。小言はいらん」
オレはそっぽを向いた。代わりに時尾が、オレにまっすぐな視線を向けた。
「斎藤さまの『さすけねえ』は信用できません。問題ばかり抱えて苦しくても、
「オレのことより自分の心配をしろ。何をこそこそやっているのか知らないが、あんたもろくに寝てないだろう?」
格子の隙間から
今日、会津勢がここ白河城を占領した。オレたち新撰組、総勢百三十人は東南方面の守りを任されている。オレだけが櫓の中で眠りこけていた。局長代理のくせに、だらしない。
隊士のほとんどは江戸や
京都で一緒にやってきた古い仲間のうち、今この白河にいるのは島田さんだけだ。土方さんは会津で怪我の治療をしている。沖田総司は江戸で寝付いたきりで、
時尾が、じっとオレを見ている。
「斎藤さま、おなか減ってねぇかし?」
見つめ返したら、どんな顔をするんだろう。そう思うが、思うだけだ。オレは刀をつかんで立ち上がる。
「減っている。食いそびれた」
「おむすびがあります。島田さまに預かっていただいているから、
時尾が着物の上前を押さえる仕草をして立った。が、細身の
まぶしいような気がして、オレは顔を背けた。
「先に櫓を出ろ」
狭い櫓から肩を並べて出ていくのを見られたら、どんな噂を立てられるかわからない。いや、オレが一人でいる櫓に時尾が入っていくところを、すでに見られていたら。
時尾は、うなずく代わりにお辞儀をした。
「かしこまりました」
時尾の髪が揺れるたび、胸がざわつく。触れてみたいと衝動が起こる。
馬鹿馬鹿しい。オレは何を考えているんだ。男装で紅ひとつ差さない女を相手に、何て浅はかな。
自嘲の思いとは裏腹、立ち去ろうとする背中に、気付けばオレは声を掛けている。
「おい」
はい、と振り返った笑顔から、オレはまた目を逸らす。言葉が続かない。時尾は沈黙を埋めるように言った。
「さすけねぇですよ。わたしが櫓に入るとき、
見透かされている。時尾の勘がいいのか、オレの底が浅いだけか。気まずさを呑み込むと、ささくれた言葉が口から飛び出した。
「斎藤じゃない。何度も言っているが」
「山口二郎さま。わたしもわかっているんだけんじょ、ずっと斎藤さまとお呼びしてきたから」
変えられないわけじゃない。変えたくないんだと告げられたことが、一度や二度じゃない。一人や二人からじゃない。
斎藤と呼ばれ続けることには、もうあきらめがついた。公式文書では山口二郎だし、新たに知り合った会津の者たちからは山口と呼ばれる。それで満足しておく。
名を変えた理由は、斎藤一に敵が多すぎるからだ。偵察、暗殺、裏切り、
「おい」
「はい? 何だべし?」
「明日からのこと」
「わかっています。わたしは斎藤さまのおっしゃるとおり、八重さんと一緒に武器の補修をします。前線には、斎藤さまの許可があるまで出ません」
「わかっているならいい」
「足手まといにはなりたくねぇので。だけんじょ、わたしも斎藤さまと同じ、環を持つ身だなし。わたしでなければ戦えねぇ相手もいます。覚悟はできているから、いつでも、戦えと命じてくなんしょ」
時尾は一礼すると、外の様子をうかがって、素早く櫓を出ていった。オレは、ほっと息をついた。
半年ほど前のまだ京都にいたころに、時尾は一武士として、会津藩主の松平
でも、女が戦うなよ。
オレの母方は会津だが、オレ自身は江戸生まれの江戸育ちだ。武芸を修める女なんて、見たこともなかった。
会津の武家の女は、誰もが
***
会津藩主が居城を構える若松には、五つの街道が集まっている。他国とを結ぶ幹線に、江戸街道、越後街道、米沢街道がある。白河街道と二本松街道は、江戸から仙台を経て
二百四十年前、将軍の弟である
正之公の時代は、関ヶ原の戦から数えて四十年ほど後に当たる。越後も奥羽も
それも昔の話だ。今は、正之公が無上の信頼を寄せた江戸の町から発して、敵が攻めてこようとしている。越後や奥羽諸藩が、むしろ会津の味方だ。
会津と江戸とを結ぶ道の中で、その名のとおり江戸街道が主要だ。会津から真南に伸びる江戸街道は、
宇都宮に駐屯する倒幕派は今市に軍を北上させて、江戸街道を進もうとしている。会津藩は、若年寄の
今、オレたちが駐屯する白河は、会津から南西に伸びる白河街道の終点で、江戸から北上する奥州街道との結節点だ。
この白河を、江戸と会津を結ぶ脇道の宿場に過ぎないと見るか。それとも、奥州街道沿いの全域を呑み込むための要の一つと見るか。
白河近辺の様子を偵察して、はっきりした。倒幕派は江戸街道からまっすぐに会津を狙うだけじゃない。奥州街道沿いの諸藩を
現状、オレたちは兵力に不安がある。会津藩が白河方面に当てた軍勢は、老兵や農民兵を含んでいる。新撰組も軍備が足りない。
白河城内を見回って、辛うじて使えそうな武器を掻き集めた。古い小銃ばかりだ。ひとまず地図を手配しつつ、伏兵を置けそうな地点を隊士に探らせている。明日にも自分の足で白河の地形を確かめようと思う。
堀と石垣に囲われた白河城は、小高くなった本丸をさらに堀と石垣で守っている。本丸の
軍議の場となる三重櫓には、会津軍の隊長格が顔をそろえていた。部屋の片隅に女がいて、ひどく目を引いた。
女がオレを見て微笑んだ。何者だ、と目顔で周囲に問うと、五十絡みで白髪頭の会津藩士が答えた。
「会津の武家の娘御で、
「会津への助勢を頼む書状ですか?」
「んだ。二本松藩は倒幕派の脅迫を受けて、白河城を長州藩に渡すと約束させられた。そこへ我々が乗り込んで占拠しただけんじょ」
「この女は、確かな身分の者ですか?」
「篠田家は古くからの名家だぞ。篠田家の父君なら、私もよく知っている。ご子息たちは京都守護の任にも就き、今も日光口に従軍している。したがら弥曽どのは女の身で、兄弟の代わりに白河まで来たのだど」
会津藩士に促されて初めて、弥曽が口を開いた。
「篠田弥曽と申します。戦況が落ち着くまで白河城で保護していただくこととなりました。どうぞよろしくお願ぇいたします。新撰組のご活躍は、
弥曽はオレよりいくつか年上だろう。濡れたような目の、細面の美人だ。
軍議の始まりが告げられた。弥曽は一礼して部屋を辞す。立ち去り際、袖が触れ合いそうになって、オレは一歩引いた。それに気付いた弥曽がわざわざ足を止めてささやいた。
「お気に
「いや、別に」
「お勤め、頑張ってくなんしょ」
弥曽の後ろ姿を目の隅で見送った。少しかすれた声と、うなじに掛かる後れ毛が、妙に強く頭に焼き付いた。
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