第一演目:一つの命を飲み込んで
1.一般人/嗜好品毒物
「――ッ!?」
最悪の目覚めであった。
ナギサにコーヒーを穢された時や、カレーに醤油をかけられた時、ショートケーキをモンブランに変えられた時より以上に最悪な状況になってしまった。
落ち着いて現在状況を確認する。
俺の名は
記憶が正しければ本日は2027年の6月12日。快晴。梅雨を控えた少し肌寒い空をしていた。
目は隠されている。口に何かを噛まされている。腕には手錠を。加えて縄で後ろに組まされている。足にも枷があり座り込んでいる姿だ。
「……気が付いたようだな」
「…………」
「肝が据わっている。さすが、あの男の右腕だ」
低い男の声だった。合唱なら配役はバスだろう。多少、声が擦れているのが気になるがどうでもよいことだ。
判断するなら、この男が俺を連れ攫ったらしい。その言い回しから恐らくはナギサ関連。このような経験は初めてだが、覚悟はしていたので困惑は思考の中に抑え込めている。
行ってきて良かった、一年に一回の
「…………」
「声も荒げないか……よし」
こちらが動揺していないように判断したのか、俺の頭部に手を触れさせた。視覚が死んでいるので触覚での判断だ。
するりと瞳が生き返る。最初に感じたのは、洞窟を抜けた後の太陽への恨みと、真っ黒な鉄を突きつけられる冷たい感覚であった。
……命の危機らしいことはよく解った。
「…………」
「……銃を突きつけられても怯えもしないのか。お前さん、心、生きてるか?」
余計なお世話である。
これでもナギサという尊敬できるクソッタレな異常者の相棒をしているのだ。
心は何度も折れているし、何度も元に戻っている。そこらの異常者と比較すればモヤシと鉄パイプぐらいの差はあるはずだ。
瞳に感情を乗せているのが表情に出たらしく、そこでやっと男が感嘆の声を漏らす。心が生きていると判断したようだ。
こちらも眼球が光に慣れたらしい。忌々しき太陽の如きランプ。しかし悲しいが、ここは廃工場のようで少しも明るくはなかった。日陰にランプがポツポツとある明るさだ。
「…………」
声をかけてくる男の姿は細身な体躯に黒の防弾ベストという物だった。
刈り上げた黒髪に、少し残してある黒髭が印象的な、ナイスミドルなダンディだ。
本来ならだらしなく見えるはずの皺も引き締まって見えるから、たぶんモテる。
男の俺がそう思うんだから、きっとそうだ。羨ましい。
「強い眼光だ。死に鈍感のようだが、生には敏感と見える」
「…………」
「良い睨みだ。同士にもここまで強い視線を持てる人はいなかった」
想像に任せて良いのならば、軍人関係と見るべきか。身につけた装備と突きつけられた拳銃――記憶が正しければコルト。
銃知識は明るくないが、確かアメリカ軍人がよく使用していたとされる拳銃だ。
……しかし、ついに軍関係に目を付けられるようになったか。いやはや、あの異常探偵も厄介になったものです。くそぅ。
「……暇だな。すまんが、話し相手になってくれると嬉しい」
「…………」
「が、条件だ。喚くな。いいか?」
軍人らしからぬ言葉を吐く。
男の目的が何かは知らない。どうにも外見上では私情を挟むような軽い人間には見えない。
軍人であれば尚更だ。この会話に意味があるとすれば――情報収集、か。
それはこちらの方が願いたいばかりだ。いかんせん状況が不透明すぎて、少しでも情報が欲しい。
ここに連れ攫われる前の記憶もあやふやな物で、もやしラーメンを食べた記憶が最後にあるぐらいだ。
小さく首を縦に振ると、よし、と銃口を向けるのを解いて腰のホルダーに仕舞う。
そして俺の口に入っていた異物を取り外してくれた。布とはいえ気持ちはよくない。ボールじゃなくてよかったと心底思う。
「……喚かないのな」
「約束は守る主義だ。それに喚いたところで、何もならないのは解っている」
スーツのポケットに潜ませているスマートフォンは使えないし、廃工場だから使えたとしても電波が届くかは保証できない。
残念ながら、SFのように脳にチップが埋め込まれていたりもしないので助けを呼ぶ手段はない。
無力ここに極まれり、だ。
「そういうあんたこそ、なぜこうした? 軍人らしくないな。私語は厳禁だと中学でも学ぶ基本だと思っていたが」
「俺は傭兵だ。中学とやらは知らんが、軍の決まりはあまり好めなくてな。たとえお前さんという人質とはいえ、会話は楽しいものだ」
存外、このような荒事に関わらなかったら陽気な男なのかもしれない。
しかし、そうか……傭兵か。軍人の出なのだろうが、どうにも危険度が下がった気がする。俺の危険度は平行線だが。
拳銃の引き金を引いてしまえば、俺の命はこの世からさよならバイバイだ。
「タバコ、吸うか?」
「吸わない主義だ。長生きしたいんでな。中毒はコーヒーだけで十分」
「……コーヒーか。美味いのか?」
「あぁ、美味い。特にあの朝焼けを拝みながらのコーヒーは格別だ。苦みが鈍る思考を蘇らせ、カフェインが死んだ脳に行き渡る感覚は最上であり最高と言える。個人的には水も拘ると尚良い。豆は言うまでもないが――」
「あ、あー、もういい。大体解った」
まだここからコーヒーを淹れる温度などの説明が入るのだが……仕方がない。
どうにもこの傭兵はコーヒーを嗜んだことがないらしい。コーヒーの味を知らない人間にいくら語りかけようとも、その味と香り、色にカフェインの感覚は解るわけがない。
タバコの独特な異臭が鼻孔を掠める。この臭いは嫌いではないのだが苦手だ。個人としては甘いやつは更に苦手。
毒を自分の体の中に取り込んでいくのがハッキリと判るのだ。毒と知って毒を取り込む動物はあまりいない。コーヒーも然りだが。
「こんなにも美味いのだがなぁ……」
「コーヒーだって美味いぞ?」
「一度は飲んでみたいと思っていたのだが、機会がなくてな」
「……どこの生まれなんだ? コーヒーなんてそこらの自販機にもあるだろう。最近の缶コーヒーもバカにできない味をするし、金がないわけではないだろう」
「あぁ、そうだな。この任務が終われば一杯、買ってみるか」
「それがベストだ。一生に一度は飲むべき味だからな。保証する。損はない」
「楽しみにしておこう――ッ、すまん」
傭兵が耳に手を当てた――通信のようだ。
申し訳なさそうに顔を歪める傭兵は、その厳つい瞳を強張らせて短く、
来たか。思いの外に早かった。腕時計が無いのが悔やまれる。時間計測をした方がレポートの作成には役に立つが、残念だ。
「……どうやら、おびき出しができたらしい。直に、戦闘になる」
「あんたは行かないのか?」
「俺はお前の見張りだ。俺がここから消える時は、この命を終える時だ」
それは――あぁ、なるほど。
では、その拳銃だけでは到底、敵わないことを承知の上で戦うというのだな……100。
その言葉は飲み込んだ。男の覚悟に疑問を抱くのは女だけでいい。
俺の記憶が正しければ2027年の6月12日。最低で最悪な役割を押し付けられた男の覚悟を、俺は瞳孔に刻み込む。それが許されるのは、ナギサという異常者の片腕である自分だけだから。
廃工場の奥で、天井の太陽が揺れた。
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