第三世界のナギサ

紅葉紅葉

開演/主役による御挨拶

「――たとえば」


 唐突に事務所の中で声が響いた。女性のようなソプラノボイス。

 神話で例えるならば……セイレーンとかが該当しそうな響く声。歌声を聞けば船員を海へ誘い込むあの人魚の極悪版だ。

 幸いその声にそのような性質はない。本質は確かに極悪だが、少なくとも耳が正常な俺が水底にいないのがその証拠だ。


「たとえば、我々が誰かに創られた存在である……と言えば、君は信じるかい?」

「…………」


 問いかけ、ではない。

 その樹海を思わせる深緑の瞳は俺の視線と合っている。本棚と本が積まれた机に挟まれて、俺をその瞳の中の蔦で捉えている。

 だが頷く必要も答える必要もない。彼が俺の名を呼ばないということは、まだ俺に反応を求めていない証拠なのだ。

 好きなアニメを見る時に野次がいたら嫌だろう。それと同じ。彼はまだ感想を求めてない。

 いつもの俺の正解の対応に、彼はそのうなじを隠す白髪を僅かに揺らした。尻尾があれば振っていたのが目に見える。


「僕は信じる。何せ、過去に先人が示している。神は人を作り賜うた。アダムとイブが特に解りやすい。我々は第三者によって生み出された創作物であり、彼らの目を喜ばせるための役者だ」


 決して筋肉質ではなく、どちらかというと痩せ形な印象を覚える体躯。

 そして幼さを残す顔の輪郭のせいで、彼の性別や歳の判断が難しい。最初の頃は後輩だと勘違いしたものだ。

 今は白いスーツを着崩しているおかげで性別は解りやすい。

 男だ。俺と同性で、二つほど年上。鳩胸なので、下手に女装されると間違いかねない。


「であるからにして、この世で起こる出来事は創作者たちが引き起こす演出だ。津波や地震、火事やテロ、などなどなど――であるから、我々はその事象を止める術を持たない」


 話は続いている。一応、小耳には入れているがあくまで対応をするためだ。

 彼の話は、三分の一は戯言で、三分の二は本気の言葉。

 そして恐ろしい話で、それが真実に思えるのだから彼という人間は計り知れない。

 とはいえ、傍から見ればただの狂人か自分を語るのが好きな変人だ。その考えも決して間違いではない。


「惨劇が起こらないということは演出だからね。誰かのおかげで誰かが救われる、事前に災害を阻止するなんてドラマとして十分だ。通君もそう思うだろう?」

「……否定はしません。肯定も」


 ここに来てやっと名を呼ばれ発言権を獲得する。

 俺は口直しも含めて、先程から淹れていたコーヒーを彼の机へ運び、手渡してから来客用のソファに座る。

 勿論、自分用も淹れているので、沈黙で不味くなった口をコーヒー色に染め上げよう。

 ありがとー、と嬉しそうな声が聞こえたが、残念ながらその次の言葉は文句だと知っている。


「ちょっ、通君~。砂糖! 砂糖はいってなーい」

「……ナギサさん、いつも角砂糖を大量に入れるでしょう? だから抜きました」

「えー、最近は自重して六個にしてるよ」


 ……コーヒーという砂糖の沼を形成するこの男を許してはいけない。

 ちゃんとコーヒー豆から淹れているこちらの身にもなってほしい。厳選して、ブレンドもしているのだ。

 料理で例えれば……そう、カレーライスに醤油をかけられる感覚に近しい。絶対に赦さない。

 だが、このまま無視をしてしまえば我慢して飲み始めるのは知っている。

 それが風見鶏かざみどりナギサという男の自堕落な本質であることも。


「それで、否定も肯定もされなかったナギサさん的にはどうなんですか?」

「そうだねぇ……まぁ君らしいというか、一般的な意見はありがたいから、心して受け止めることにするよ」


 それは逆に言えば、自分はその意見ではないということだ。

 彼のいう一般的意見で彼の意見を変えられることはなかった。期待はしていないが、少しばかり残念である。

 砂漠に水を一滴、落とした程度でオアシスは生まれない。オアシスは砂漠の地下から湧き出るもの。

 そこから生命が育まれるのだから、俺の言葉はナギサの砂漠に育みを与えられなかったのだ。


「しかし、思わないかい? この世界の摂理、果たして本当に正しいかどうか。自分たちは本当に自分の意志で生きているのか、動いているのか。誰が証明できるかな」

「証明は難しいでしょうね。なにせ、俺たちは自覚がありませんし」

「恐ろしい話だけどね。ミームに刻まれた、知覚、認識ができないプログラムがそうさせているのかもしれない」


 ナギサが言うミームとは、人から人へコピーされる情報を意味する言葉だ。専門家ではないので詳しい説明を省くが、文化を形成する文化的情報らしい。

 この場合は、この世界で形成された文化的常識、世界的規範を指す。

 先人が作り上げたミームを受け取った現代人は、自分たちが第三者に操られていることが解らなくなった――それこそ、知覚、認識ができなくなったようにプログラミングされてしまった、と彼は言いたいのだ。


「となると、俺たちが青空と認識している天上は、もしかしたら創作者の瞳がぎょろつく空なのかもしれませんね」

「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。少なくとも、過去の先人はそれを神と呼んだ。神の記述は多いからね。もしかしたらこの世界は、一人の神ではなく多種多様な神が作り上げたのかもしれない」


 それこそ僕たち人間のようにね――とそこでナギサはコーヒーを口に含んだ。

 眉を吊り上げているが、どうにか飲めているらしい。よし。


「考えてもみたまえ。この世界の常識に反する物が一体どれくらいあるか。魔法、超能力、錬金術に陰陽道。クローン技術に、携帯兵器、ロボットもあれば、パワードスーツも開発途中……これを、正常な世界だと思うかい?」


 ……ナギサの言葉は突拍子もないものであるが、それが真実であるのは俺が知っている。

 元来なら、そんなバカらしい御伽話を信じる輩は一般社会にはいない。俺も、高校一年生まではそちら側だった。

 彼の右腕をやるようになってから見た世界。人間が空想の物だと無意識ながらも断じてしまう、そんな異常な力。

 それがこの世界には溢れている。


「この世界は狂っている。狂おしいほどに、混沌に。世界は不思議に溢れている! だけど、それを一般人は知らない。過去の作家やアーティストが描いてきたストーリーを夢物語として受け取り、カバーストーリーに溢れた現在いまを享受している」

「……肯定しますよ。否定もしますけど」

「是非とも、その否定の内容を教えてほしいな。ほら、僕は異常だからね」


 ナギサはそう言って微笑んで見せる。

 半ば異常に片足を突っ込んでいる身なので、絶対的な否定とはならないが彼の望みを口に出そう。


「俺ですよ。日並ひなみとおるという人間は、あんたという異常者に出会ってミームから脱した。だから、否定です」

「ナイスアンサー! そう、現在はまだカバーストーリーは生きているけど、綻びが生まれつつある。君のような異常を異常と認識できなかった一般人が、こちら側に来たというのが最高に最上な証明だ」

「おかげで、色々面倒被ってますが」

「そこは……ごめんね」


 ハートマークが飛んできそうなウィンクを向けられたのでコーヒーを啜る。

 欲情はしないし尊敬もしないが、可愛いと思ってしまう俺は既に異常に冒されている。

 異常者に魅入られ、魅入ってしまったのが日並通という一般人なのだ。

 でもコーヒーとカレーの件は許さない。


「この第三世界の綻びの証明である君の存在は大きい。今後、この世界の異常は一般社会に浸透し、神が定めたミームは意味を無くすだろう。その時こそ、僕たちは第二世界からの自立ができるのかもしれない」


 ナギサは俺たちが生きる世界を第三世界と呼称する。

 曰く、我々が神と呼ぶ者が生きる世界を第二世界で、その者たちに神がいるとすれば第一世界というのだとか。

 彼の妄想なのだろうが、話を合わすために記憶している。

 それに、俺たちの活動の最終目的は現代社会に革命を起こすことなのだから。彼の妄言も、一概に妄想とは言えない。言わない。


「……んで、ナギサさんは何が言いたいんですか? もうそろそろ、仕事の話もしたいんですが」

「あぁ、ごめんね。では――結論といこう」


 ナギサはそう言って、机に隠していたスティックシュガーをコーヒーの中に入れる。……糖分が無いと生きていけないのか。

 コーヒーの味が染みた溜め息を漏らす中、ナギサは天井の奥の天上――神に向かって宣言する。


「この第三世界は異常であり正常だ。神と言われる脚本家が創りだした演劇。そしてそこには僕たちのような主役がいる――さぁ、物語の開演だ。この混沌とした世界で、第二世界の諸君の目を楽しませるよう努めないとね」


 ……風見鶏ナギサはそう天上の向こうの誰かに呟く。彼の目は、明らかに俺とは違う世界を見定めていた。セイレーンのように、彼は俺たちとは違うのだ。

 2023年6月4日。今日の仕事が始まる――

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