第9話
指輪の箱が入った紙袋を片手に、彼女はドアを開けて帰宅の定型文を投げた。
「ただいま、あなた」
もちろん返事はなく、部屋の中は真っ暗だ。それでも彼女の口に柔らかな笑みが浮かぶ。
照明を点け紙袋から指輪の箱を取り出すと、仏壇に向けて微笑んだ。
「あなた、これが何かわかりますか?」
誰もいない空間に、彼女の問い掛けは虚しく溶け込んでいった。
彼女は仏壇の前に歩み寄って指輪の箱を左手のひらに乗せてうっとりと眉尻を下げた。
「指輪ですよ、結婚指輪。先ほど買ってきたんです」
彼女はふぅ、と一息ついて表情を引き締める。
「あなた、結婚しましょう」
固い決意の笑顔をして彼女は、はっきり口にした。
仏壇の写真の彼から返事は当然聞こえない、でも思い出の中の彼からは返事が寄越された。
「そのプロポーズを受ける以外に、俺が満足できる選択はないぜ」
思い出の中の彼は真っ直ぐに彼女を見つめて、そう返事をした。
二人の口に同じような微笑みが浮かんで、次第になんだか可笑しくなってきて声を漏らして笑い合う。
しかし彼女の笑いは段々と小さくなっていって、部屋に静けさが戻ってくる。
「あなたに触れられないのは残念ですけど、あなたは私の心にいるんだわ……それで我慢します」
彼女は気もないのにホロリと涙を溢す。慌てて片手で目元を拭う。
「涙がでてきました、あなたの前で泣くのは初めてですね」
ニッと寂しさの欠片もない笑顔で、彼に言った。
「私のウェディングドレス姿、楽しみにしててくださいね」
眩しいぐらいのスマイルでふふっと悦に入った声を漏らし、指輪の箱を彼の遺影の傍にそっと置いた。
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