第8話

 音もない室内で彼は、彼女の帰りが遅いことにヤキモキしていた。

 とはいえ携帯で呼び出すことさえ、虚像の浮いた魂ではできない。何しろ物体に触れることができないのだから。


「ああ、プロポーズできなかったなぁ」


 あの時、あと十五分でも遅れて待ち合わせ場所に行っていたなら、と彼は変えられぬ事実に悲嘆した。


 時は一ヶ月前、夏の暑さもまだ控えめだった。

 彼は定時より十五分早く仕事場を出られて、彼女との待ち合わせ場所に向かった。

 待ち合わせ場所に彼女はまだ来ておらず、約束の時間まで三十分だけだから、とその場で待つことにした。

 約束の時間より早くからそこにいたのが、悲劇への誘いとなった。

 二人の待ち合わせ場所は毎回、付き合う以前から喫茶店の前と決まっていた。

 ここの喫茶店に沿った道路の車通りはいつもまちまちで、人通りも同様いつも往来はおとなしい。

 待ち合わせ時間まであと十五分になった時、軽乗用車が違反スピードを出して彼の目の前のガードレールを乗り越えて店に突っ込んだ。暴走車だった。

 もちろん彼は無事で済んだわけがなく、真っ向から突っ込まれて血溜まりができるほど重傷で身を打ち付けたていた。辛うじて意識は残っていたが。

 彼はこりゃダメだ、と辛うじて残っていた意識で悟ると、なけなしの生命力を振り絞りスマホをズボンのポケットから抜き出して、今しがた仕事を終えたばかりの彼女に宛てて、薄れゆく意識の中メッセージを打ち込んだ。

 すきた、と三文字だけなんとか打ち込めて送信した次には、もう息絶えていた。スマホが彼の手から落ちて硬い音を立てた。

 数十秒経った頃には突然に耳を驚かせた衝撃音に何事か、と事故現場に人が集まってきた。

 数分経った頃には警察と救急も駆けつけて、軽乗用車の運転手となにやら話し合っていた。

 彼女が待ち合わせ場所に来たのは、それから七分後のことであった。       

 人垣越しから見えた事故現場に彼に限ってそんなはずはない、と不意に見舞われた漠然たる虚無感を否定した。

 

「あなた、いるんでしょう……いるなら返事して」


 彼女は懸命に人垣の中で彼を探した。返事を求めた。心臓に血液が流れ込まなくなりそうな息苦しい焦燥が胸の内を巡った。

 しかし彼は見つからず、彼女は彼に電話をかけることにした。もしかすると他の場所で待っているかも、といざスマホの画面を点けた。


「えっ……メール?」


 彼からのメールが送られていると通知が来ていた。すぐに内容を確認する。


「すきた、ってどういうことだろ」


 どういう意味? という折り返しのメールを彼女は送り、彼からの返信をいまかと気忙しく画面を凝視して待ち続けた。返信は来なかった。

 それから数時間後、街を歩き回り彼を探していた彼女のもとに、彼が死んだという凶報が届いた。

 耳を疑う余裕もなく、彼女はスマホを耳に当てたまま路上にへたり込んだ。


「なんで……なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんであの人なの? あの人が何かしたの? あの人がいなくなる必要があるの? あの人が私を呼んでくれることはもうないの? あの人が私の手を引いてくれることもないの? 誰か答えて、答えられないならあの人を返して……」


 電話の相手は用意しておいた慰めの言葉を口に出せなかった。それでも、とにかく事実だけは伝える。


「彼さんの彼女さん、あなたの彼氏さんの遺体は今、〇〇病院に……」

「あの人の遺体なんて見たくありませんので行きません。失礼します」

「ちょっ……」


 引き留める声にも関心なく、彼女は通話を切った。

 道行く人達がへたり込んだ彼女を、どうしたのだろうと心配そうな視線で見て通り過ぎていく。


「あなた、愛しているわ」


 か細い告白を呟いた。誰に聞かすともなく、彼にだけ呟いた。

 暗く落ち込んだ彼女の心中を皮肉るように東の空は暗くなり、夕闇に染まり始めていた。











 




 





 




 

 

 




 


 



 


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