第7話

 活況が昼間とは一味違う夜の繁華街に、下品な酒の臭いはしなかった。

 平日の夜だというのに男女連れは多い。仕事帰りの夫とそれを駅で待つ妻、という組み合わせがほとんどだった。

 彼女も仕事帰りなのだが、今日は直接家には帰らず店長と夜の街を練り歩いていた。


「ディナーって、どこに行くんですか?」


 彼女は唐突に尋ねた。


「僕はディナーに誘ったわけじゃないんだけどね」


 苦笑を口元に湛えて店長は言った。

 店長の苦笑を疑問に感じて、彼女は首を傾げる。


「違うんですか、じゃあ何をしに?」

「ディナーはするんだけど……今はまだ本題を口に出せないよ」

「大事な話でもあるんですか?」

「……ここのお店だよ」


 照れ隠しするように彼女の質問に答えないで、店長は西洋レストランの前に止まった。

 彼女はその西洋レストランを、関心さの窺えない目で見つめて呟く。


「ファミレスがいいです」

「え……なんで?」


 西洋レストランから目を離してポカンとなった店長を彼女は見る。そして微笑む。


「ファミレスが好きですので」

「ここのお店が予約制じゃなくて良かった」


 ちょっぴり残念がって嘆息した店長に、彼女はすまなさそうに眉を下げて詫びる。


「我が儘ですみません」

「いや、場所はどこでもいいんだ。雰囲気的に選んだだけだったから」


 じゃあファミレス行こっか、と言葉通り選んだ西洋レストランに執着することなく彼女の注文に応じた。声は明るかった。


「どこのファミレスにする?」

「やっぱり、あそこでしょう」


 着いて来てください、と催促して彼女は踵を返して歩き出した。店長も後を追った。


 歩いて数分、もときた道を遡って二人が着いた店は、名を聞けば日本人誰もが店構えを思い浮かべられるほど有名チェーンのファミレスだった。

 外から中を覗ける透明な窓ガラス越しに、高級感が皆無の庶民的な内装が見て取れる。


「なんか懐かしいな」


 店長の不意な感想に、うっとり彼女は頷いた。


「ほんとですね。懐かしいです」

「ここのオムライス、小さい頃好きだったな。君は好きなメニューとかあった?」

「私もオムライス好きでした。思い出して久しぶりに食べたくなったんですよ」

「だから、ファミレスがいいというわけか」


 二人は思い出のオムライスを、ディナーとして食べることにした。

 店に入ると、明る過ぎるくらいの照明が二人を出迎える。

 適当に空いているボックス席を店内の中央くらいに見つけると、二人は向かい合って腰掛けた。

 彼女がやにわにメニュー表を手にして、満遍なく目を動かして、オムライスの文字を探す。


「あっ、ありましたよ」


 メニュー表にオムライスの文字を見つけて、その上のイメージ写真に人差し指を当てはしゃぐように向かいの店長に知らせる。

 店長はそんな楽しそうな彼女に見惚れたような視線を注いで、柔らかく頬杖をついた。


「やっぱ笑顔が一番だよ」


 店長の独り言はオムライスのイメージ写真を凝視する彼女には聞こえておらず、ふと顔を上げた彼女の頭の上に疑問符が浮かぶ。


「はい?」

「さっそく注文しようか」


 思わず出てしまった独り言を店長は彼女から顔を背けて誤魔化し、注文するために辺りでウエイトレスを探す。

 通用廊下を挟んだテーブルにウエイトレスを見つけて片手を上げ、


「注文いいですか?」


 ウエイトレスは振り向いて、注文表を手に歩み寄ってくる。


「ご注文は?」

「オムライス二つ」

「かしこまりました」


 注文をとるなり、ウエイトレスはお辞儀して颯爽と立ち去っていった。

 二人は当たり障りのない談笑をして、オムライスが運ばれてくるのを待った。


「オムライス二つです」


 店長と彼女それぞれの前に無形の良い匂いをほのかに発散するオムライスが、先程とは違うウエイトレスの手によって置かれる。

 店長がオムライスを見て言った。


「三日月みたいなオムライスだね。ここのオムライス、こんな形だったっけ」

「……はい」


 オムライスを見下ろし、彼女は声量乏しく呟く。

 そして、はらはらと涙を流して幾数の滴をオムライスに落とした。

 突然のことに店長はうろたえ、オロオロ彼女を見つめた。


「どうした!」

「え……なんですか」


 彼女は自分が涙を流していることに気づかず、涙に浸った瞳を店長に向ける。

 その泣き顔が店長の胸を痛く突いた。


「僕の前でそんな顔しないでくれ」

「ごめんなさい、あの人との初デートを、思い出して、しまって……ごめんなさい」


 彼女は顔を上げられず俯いたまま、嗚咽を漏らしながらつっかえつっかえに謝った。

 オムライスの上に水滴が乗っていた。それが水かさを増していく。


「もう泣かないでくれ。死んだ彼だって君の泣き顔は見たくないはずだ」

「そんな、ありふれた恋愛小説みたいな、月並みな台詞で私を慰めようとしたって、私は……」


 嗚咽がおさまるのを待ってから、彼女は続く言葉を放った。


「あなたを好きにはならない!」


 店長は口をポカンと開いて、返す言葉を思い付くだけ考えた。でも、無駄だとすぐに悟った。要するに自分は告白する前に『フラれた』わけだ、と。


「私の一方的な勘違いだったらすみません」


 尻窄みに声は弱くなった。

 店長はなんとかして言葉を出す。


「オムライスが冷めちゃうよ、食べよう」

「あの人と一緒に食べたい」


 涙で腫らして目で彼女は言った。とめどなく涙は溢れていく。


「まだ結婚してないんだよね?」

「あなたを好きには……」


 店長の両の口の端が優しくつりあがる。どこか諦めの色もある。


「その人と結婚したらどうだい?」


 店長の言わんそすることが、彼女は理解し難かった。


「君はその人を『愛してた』わけじゃないだろ、今も『愛してる』だろ。それなら結婚するのには十分な理由だ」

「意味がわかりません」

「実際、僕は君と結婚を前提に付き合いたかった。でも、君の心は揺らぎもしないみたいだから諦めるよ」


 未練のない爽やかな顔で、店長は胸中を告げた。


「だから君も未練のないように、これは店長命令だ」

「そうですか、わかりました」


 彼女は素直に店長命令を聞き入れ、自身の気持ちを確固たるものとした。

 目はまだ腫れていたが涙は止まっていた。


「私、あの人と結婚します」

「君が笑顔でいられる選択なら、それを僕は望むよ。どうかお幸せに」

「はい」


 決然と返事して、彼女は自分の分のオムライスを店長のオムライスの脇まで移動させた。


「私の分のオムライス、どうぞ食べてください。私は今すぐやることができたので帰ります」


 立ち上がりざまに傍のバックを引っ掴み、華奢な肩に提げてファミレスを出ていった。

 店長は未練がましくなるのは男じゃない、として無理して彼女の後ろ姿を見送らなかった。

 黙って目の前に並ぶオムライスに視線を注ぎ、スプーンで端を崩してすくい口に運んだ。


「美味しい……けど」


 忌憚なく光る照明を仰いで、


「彼女の笑顔は明る過ぎるよ」


 そう呟いて、仕事中などに時折見せた彼女の屈託ない笑顔を思い出すのだった。






















 














 


 

























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