第二十一話 狼

「そうと決まれば、今夜はもう休め。サトのことも依頼のことも明日、道中に話す」


 謎の追っ手がカナメであると判明した以上、サトたちとの合流をためらう理由は、もはやない。かといって、大慌てで合流を目指す必要もない。


 ――そこそこの速度で移動しながら、色々と相談すればいい――

 と、この時は思っていた。


「うーん、気になって眠れないだろう」


 カナメは口をとがらせて、不満を口にする。


「冬の草原でも眠れる奴が何を言うか。夜が明けちまう前に、少しでも睡眠をとるぞ」


 そう言いつつ、ソラは扉から出ようとする。


「おい、どこへ行く」


「店主に空きの部屋がないか、聞いてくる」


「私と一緒には寝られないというのか、ソラ」


 からかうようにカナメは言った。またも冗談である。


「もうちぎりは解消済みだ。妻でもない女と寝床を共にするのは礼儀に反する」


 建前だった。そもそも、相手が妻だろうがそうでなかろうが、ソラにはその気がない。彼とて肉欲がないわけではない。しかし今後、夢を実現して出世したとしても、妻や子などいらないと思っていた。


 ――いざという時、捨てられない物を背負うのは危険だ――

 家や女というものに固執して、すべてを失った人間は数え切れない。

 ――彼らの二の舞になりたくはない――

 ソラはそう考えていた。


「順調に、こっちの文化に染まっているな」


 カナメは、言った。

 大陸中央部の考え方では、妻でもない女と一夜を過ごすのは大きな恥だった。むろん、遊牧世界にあっても歓迎されるものではないが。


 まだぶつくさと何か言っているカナメを置いて、ソラは部屋を出た。予想どおり、カナメに叩き起こされた店主がまだ起きていた。あくびをして、眠気を隠しきれない様子だった。かなりの年配であるから、無理もない。


「連れがご迷惑をおかけしました。迷惑ついでにもうひとつお願いがあるのですが、空きの部屋があるのなら、お借りしたい」


「ありますよ。どうぞ、ご自由に」


 消え入りそうな声が返ってくる。眠たいのか元々こうなのかは、わからないが、覇気を感じない。


「ありがとう」


 鍵を受け取り、立ち去ろうとしたソラだったが、ふと気になることがあり、思い止まった。


「家畜たちが妙に騒がしいようですが、一度見てきたほうがいいのでは」


 そう、少し前に気になった厩舎きゅうしゃに関しての疑問だった。


「本当ですか。あとでちょっと見ておきます」


「いや、狼でも来ていたら、一人では危ない。同行しましょう」


 主人は最初、ソラの提案に渋い反応した。客に護衛のような仕事をさせるわけにはいかないと考えていたのだろう。


 しかし、


「自分の目で確認しないと気になって眠れない」


 とその客に言われてしまっては、どうしようもなかった。どこかで聞いたような台詞せりふである。



 結局、松明たいまつを掲げる主人と共に厩舎へと向かう。

 近くに人の気配を感じたからか、厩舎は静かになった。外側には何もいないし、穴も開いていない。


 ――狼や熊ではないのか。とすると……、盗賊でも紛れ込んだか?――

 厩舎が破壊されていない以上、侵入者は扉から堂々と中に入ったことになる。獣にそれはできない。ならば、人間の仕業である。

 先に入ろうとする主人を制し、ソラは大扉に手を伸ばす。右手には短剣が握られている。

 猛獣の一頭や二頭など問題ではないと、高をくくっていたソラだが、相手が人間なら、話は変わる。さすがに身構えざるを得ない。


 ふたりは中を見て、立ちすくんだ。侵入者の正体は人間ではなかった。灰色の狼である。異常なほど大きい。馬ほどもある。目は燃えるような赤。

 狼はふたりにむかって、ひと吠えした。厩舎の中央に牛耳ぎゅうじるように丸くなっていた『彼女』からすれば、ソラたちのほうが侵入者だったのかもしれない。


「ひいっ」


 主人は恐怖の言葉を発し、腰を抜かす。それに呼応して、家畜が再び騒ぎ出す。

 ソラはというと、笑っていた。手を広げ、まるで旧友を迎えるかのように、歩み寄る。

 灰の巨体は、そんな彼目掛けて、突進する。飛ぶ。押し倒す。

 老店主は、これから起こるだろう惨劇を想像し、目を覆った。


 だが、暗闇の中にいた老店主の耳に飛び込んできたのは、ぴちゃぴちゃという水の音だった。

 店主は目を開けて、驚いた。ソラと狼は、なんとじゃれ合っていた。お互いを舐め合う。地面を転がって、上になったり下になったりする。

 老店主は、目の前で繰り広げられるお遊びに、ただ呆然とした。



「エフを連れてきているなら、そう言ってくれれば余計な苦労をせずとも済んだのに」


 宿を早朝に発って、しばらく行ったのち、ソラは恨み言を吐いた。

 彼が乗っているのは、あの狼である。名は『エフ』という。カナメは到着後、すぐにエフをあの厩舎に入れたらしい。


「すまんすまん。言うの忘れてたわ」


 悪びれもせず、カナメは答えた。彼女はというと、同じくエフの背中、ソラのすぐ後ろに乗っている。


 ソラの馬は、用意してくれたコニウェンには悪いとは思いつつも、資金確保のため、売りさばいた。もし、エレンをトラウィスまで連れていくとなれば、とてつもない長旅である。金はいくらあっても足りない。


 ぽんぽんとエフの頭をなでると、気持ちよさそうに目を細める。大きな切り傷がある。


「久しぶりだな」


 感慨深く、ソラはつぶやいた。


 エフは『フレカトル』と呼ばれる種類の狼である。性別はめす


 『フレカトル』はハノンフェルト周辺の山系にしかいないとされる大型の狼である。彼らは半ば伝説上の動物だった。なぜなら、誰も彼らの巣穴を知らないのだ。どこに住んでいるのか、どこから来るのか、まったくわからない。たまにふらっと人間たちの前に姿を現しては、消える。それも、一度に複数頭目撃されたことがない。人前に出てくるのは常に一頭である。放浪狼を除いて、集団行動が基本な普通の狼とは一線を画す。

 知能は人間に匹敵するほど賢い上、熊や虎など問題にならないほどに強い。気高い性格で、人間に気を許すことなど、ほぼない。だが、エフはソラに気を許している。カナメやサトにも、である。


 出会いは十年前。悪童だったソラはサトを連れて、うさぎを追った。が深追いが過ぎて、山中へと足を踏み入れてしまった。どちらに走れば、元来たほうに戻れるのか、わからない。手詰まりだった。

 狼や虎などの危険な肉食獣の多くは、夜に活発になる。日が暮れたら、死はすぐそこである。

 少年たちは躍起になって、森を駆けたが、むしろ深みにはまっていった。そうこうしているうちに、夜が来た。


 ――なんとか木に登って、夜をやり過ごすしかないか―

 と彼らが諦めて馬を木に繋いだ時、エフが姿を現した。


 今とは違う、獲物を見る目だった。ふたりは恐怖と戦いながらも、武器を取った。巨体が飛びかかってくる。ソラは左に、サトは右に飛ぶ。

 繋がれた馬がエフの視界にはあったはずだ。おそらく、極端に肉の少ない人間の子供よりは美味い。しかし、狼は目もくれない。彼女の標的はあくまで抵抗の意思がある少年ふたりだった。


 エフはサトのほうを向く。

 ――好機だ――

 と、思ったソラは後方から切りかかる。


 が、罠だった。彼女は、くるっと反転するとソラを押し倒した。嫌な音がした。腕が折れたのだ。

 エフは爪を振りかざす。とっさにソラは狼の腹を蹴った。が、びくともしない。

 サトが彼女の頭を斬りつける。血は流れた。痛みはあったはずだ。しかし、普通の狼なら致命傷になるであろう一撃なのに、まったくと言ってよいほど、効いていない。

 一度はソラに向かって振り上げられた爪は、目標を変えて、サトを襲った。腹部に割けるような痛みが走った。慌てて、後ろに回避していなければ、サトの身体は半分になっていただろう。


「おい」


 そのままサトに追い打ちをかけようとした彼女だが、真下のソラに話しかけられ、彼を見る。油断を突いて、ソラは彼女のある部分を殴った。どれだけ強固な体にも弱点はあるもので、今回のそれは鼻だった。

 

 飛び上がる狼。しばらく、痛みで動きを停止させていたが、再び少年たちを見すえた。サトは腹から血を流していた。ソラは折れた左腕に手をやって、苦痛に表情をゆがめる。ふたりとも動けない。満身創痍だった。

 

 決着はついたのだ。あとは食われるだけのはずだった。しかし、エフはそこで攻撃を止め、突如背を向けた。ちょっと行ったところで、また彼らを振り返る。まるで、ついてこいと言わんばかりだった。

 少年たちは相談もせず、ふらふらと後に続いた。異常な精神状態だった。自分たちをころそうとしていた獣である。まともな神経なら、逃げ出す。死の淵に立って、狂ったわけではない。

 ――ついていったほうがいい――

 という予感に近いものがあった。


 森を抜けて、平原に出た。ふたりがぼうっとしていると、いつの間にか狼は消えていた。勇気と力を示したから、見逃されたと少年たちは勝手に解釈した。

 そして探索に出ていた族の仲間に保護された。帰り着くと、当然、少年たちは大目玉を食らった。


 それでサトはしゅんとなったようだが、ソラは懲りなかった。しばらくして、またあの森へ出かけた。今度は、兎ではなく、狼を求めての冒険だった。カナメもついてきた。どうもサトが彼女に問い詰められて、吐いてしまったようだ。


 危険だ、とソラが同行を止めるよう説得すると、


「危険上等」


 という言葉が返ってきた。


 道中、サトとカナメは兎を得る。見逃してくれた礼として捧げるつもりであった。ソラはまだ腕が治っていないので、見ているだけだった。

 森の中を探すと、すぐにあの狼は見つかった。知らないカナメを見て、少し警戒したようだが襲ってはこない。兎をやったが、食べない。だが、ソラたちの気持ちだけは受け取ったようだった。

 

 それから、三人はできうる限り、狼のもとへ足を運んだ。ソラたちは遊牧の民であり、移動も多いから会えない時も多々あったが。狼の名を『エフ』と名付け、遊んだ。背中にも乗せてくれるようになった。

 

 転機はカナメが族を出た時である。彼女を心配したサトは、エフに頼んでカナメの側にいてもらった。 この時、エフは、すでに人の言葉を大部分理解していたのだから、フレカトルという種は恐ろしい。ある族から信仰の対象になっているのもうなずける。いずれは人界の言葉で話せるようになるかもしれない。


 カナメがエフとハノンフェルトを去ってから、ソラは一度もエフとは会っていなかった。昨晩が久々の再会だった。カナメの根拠地パテカドリュで、ひっそりと飼われていたらしい。あの巨体をどうやって、『ひっそりと』飼えたのか、はなはだ疑問である。


 ――しかし、こいつは最初に出会った時と全く変わらない――

 成長もしなければ、衰えもしない。出会ったとき、すでに成熟していたようだから、少なくとも現在、十二、三歳であるはずだ。もっと年を取っているかもしれない。普通の野生の狼など、十年も生きれば十分なのに、またも異常である。フレカトルの寿命は、よくわかっていない。


「大体経緯はわかった。しかし、お前、本当に留学はもういいのか?」


 予定通り、道中、カナメに事の次第を話した。


「ああ。そろそろ潮時だろうと思っている」


 ――ルートたちとの出会いが転機に違いない――

 結局、その確信が留学生という身分を捨てさせた。


「まさか、その姉妹に惚れたか?」


 ソラは突拍子もない質問に肩をすくめた。


「お前は、すぐそういう話に走るな。お前こそ、良かったじゃないか。エレンの依頼さえあれば、しばらくずっと、サトと共にいられるぞ」


 すぐ恋愛沙汰にしたがるカナメに対する反撃だった。カナメがサトに気があることくらい、ソラにもわかっていた。


「ほっとけ」


 少しだけ顔が赤くなった。反撃は見事に決まったらしい。


 くだらない話をしながら、ふたりと一頭は山間部の狭い道をぐんぐんと進んだ。時折、馬で通るのは厳しいだろうという道もあったが、エフにはまったく関係ない。


 すぐ下には、もっと大きく、整備された街道が通っている。しかし、こちらの道のほうが、国境の関所まで微妙に近いのだ。また、一目につきにくいという長所もある。フレカトルに乗っている者など、大陸でもまずいない。目立ちすぎると、何かと不都合が生じる。ずぶといカナメは全く気にせず、堂々と彼女に乗って、色々な場所を行き来しているらしいが。


 下の街道に、黒い人の塊が見えた。


「ちょっと待った」


 ソラは、エフを止める。

 間違いなく、軍隊だった。軍列は整然としている。無駄口を叩く者もいない。一万はゆうに超えている。


「どこの軍だ?」


 のんきに居眠りしていたカナメが、気の抜けた声で尋ねる。


「どうやら獅子が群れているらしい」


 冗談交じりに答えた。

 旗指物の柄は赤い獅子。ソラたちが今まさに向かおうとするアタイ国の軍隊である。


「獅子が牛を助けに来た」


 カナメはつぶやいた。牛とはミクトレンのことである。


「いいや、違う。奴らは獅子でなく、ハイエナだ。竜が狩った牛の肉を少しばかりもらいに来た。ちょっと速度上げるぞ」


 ソラは否定して、エフを焦らせる。


「おいおい、竜ってアシュヴィのことだろ? アタイとアシュヴィが協力して、ミクトレンを食い合うっていうのか」


 ――あり得ないだろう――

 カナメの表情はそう言いたげである。

 彼女とて、仕事柄、商人を相手にしている。だから、主要国の関係を多少なりとも把握しているつもりだ。

 アシュヴィとアタイは、長年血で血を洗う戦いをしてきた、いわば宿敵である。常識的に考えれば、彼らが手を組むとは思えない。


「協力はしないさ。ただの火事場泥棒だ。アシュヴィ軍が首都を囲んでいる間に、ミクトレン領の一部を切り取るつもりだろう」


「なんでそう言い切れる」


 会話の間も、エフは風のように疾走する。カナメの茶色い髪が舞って、ソラの鼻をくすぐる。


「第一に援軍にしては兵を出すのが遅すぎる。第二に、足並みが整然としすぎている。アシュヴィ軍は首都エールイアにまで到達しているんだぞ。助けるつもりなら、悠長が過ぎる。第三に……」


 森が途切れ、狭かった視界が急に開ける。丘の上だ。ずいぶん、遠いところまで見えた。


「頭上からでもわかるくらい、連中は嫌なにおいをぷんぷんさせていた」


 ずっと先に、火と煙が見えた。ソラたちが、サトたちが、目指している国境のほうだった。アタイ軍が、ぷんぷんさせていたのは、血と煙の臭いである。

 

 ――アシュヴィの宿敵であるアタイなら、彼らから攻撃を受けたミクトレン国民を快く受け入れてくれるだろう――

 この予測をもとに、皆がアタイを目指していたのだ。だが、アタイがミクトレンを攻めたのならば、状況は一変する。アタイにとってミクトレン国民は敵となった。


「アタイ軍に捕まったかもしれない」


 ソラは苦々しく、遠方の火の手を見て、言った。

 サトひとりならば、簡単に逃げおおせるだろうが、エレンやルートもいる。彼女たちを守りながら、一国の軍隊から逃げるのは無理である。


 ――抵抗しなかったし、できなかっただろうな――

 ソラは一行いっこうの判断を勝手に想像した。

 

 ――愚かなことだ――

 愚かすぎて、腹が立った。ミクトレンを滅ぼせば、アシュヴィの次の矛先はアタイである。

 

 アシュヴィがミクトレンを攻めた時点で、ミクトレンに使者を出して、同盟を申し込み、二カ国の力を持って、アシュヴィを牽制すればよかった。それだけで、アタイは軍事的に有利に立てた。ミクトレンを障壁に使いながら、戦えるのだから。 まあ、アシュヴィ王はミクトレンの反撃にあって、敗死するので、この考察は、ほぼ無意味なのだが。


 この世界において、捕まった敵国民はどうなるか。しかるべき場所に送られ、強制労働というのが無難なところだろう。

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