第十八話 女ふたり
すでに日は落ちた。
ひとりになった老人は、いつものように切り株に腰かけながら、思索に
老人は確かにアレクもソラも引き留めた。しかし、同じ引き留めるという行為でも、そこに込められた意図という点で、両者は全く違った。
――さらに
アレクの場合は、こういう思いである。積極的な引き留めといってよい。
反対に、ソラの場合は、
――今の段階で、こやつが世に出れば、ただ混迷をもたらすだけかもしれぬ――
『今はまだ、自分のもとに留めておいたほうがよい』という思いだった。消極的な引き留めである。
老人は、彼と出会ったときから、ソラのうちにある何かを感じていた。それは『狂気』と呼ぶにふさわしいものだった。外面は必死に取り繕って、理性的に、賢く、見せてはいるが、内面は激しやすく、何か理不尽に感じることがあると、感情が爆発してしまう。そういった危うさ。
ソラ自身も、自分が持つ負の一面を自覚している。
あの日。サトと共に、敵の族に捕まった日。ソラは、幼き身で敵側の見張りをころした。生きるために必死だった。なりふり構ってはいられなかった。だから、人をころしたこと自体にはなんらの罪悪感も抱いてはいなかった。乱世の習いである。
しかし、後日のサトの言葉を聞いて、さしものソラも自分が怖くなった。
「その……敵をころす時、どうして笑っておられたのですか……?」
ソラ自身にも、笑っていたという自覚は全くなかった。
――俺は殺人を楽しんでいたのか……?――
ソラには時折、感情を抑えられなくなるときがあった。人には当たらない。だが、物には当たった。もちろん、よほど親しい関係の人間にしか、その情けない姿は見せたことがない。
サト、母、父、兄たち、そして『ある女』。見せたのはこの程度である。
けれども、この『ある女』の一言がソラの心を
「おまえは、ヘイムリトンの再来かもしれんな」
一族の歴史どころか、大陸史にすら残る、残虐非道といわれた男の再来。
彼は、当時族長の地位にあった兄をころして、族の頂点に立った男であるから、家族間、とりわけ兄弟間でギスギスが発生するのは無理もなかった。
――俺はヘイムリトンのようにはならない――
ソラはこう誓ったものの、自分に対する恐れは今も
幸い、己を戒め続けたおかげか、以降は、人をころしても、例の不気味な笑いを人に見せるようなことはなかった。
さて、老人は、こういった彼の中のおどろおどろしいものを取り除こうとした。が、うまくはいかなかった。ソラはアレクのように、素直に老人の教えをすべて吸収しようとはしなかったのだ。『賢いから』といえば、聞こえはよいが、ここでの賢さはむしろ邪魔なものであったかもしれない。
――必要なところだけ、かいつまんで理解してしまったのではないか。都合の良い真理だけが断片のみで定着してしまったのではないか――
老人はこう懸念する。
けれども、ソラの意思は固かった。老人が無理やりに止めようとしても、彼はもう止まらなかっただろう。だから、去る弟子の背中を仕方なく見送った。
またもっと具体的な問題も生じていた。ソラが背負っていた『剣』である。
老人が思考を巡らせていると、彼の背後で草が揺れる音がした。
老人は地面に垂れていた
さきほどの音の主だろう。背後で音がしてから、一瞬の間に、前方へと回り込んできたことになる。ありえぬ速さである。
目の前で超自然的現象が起こったというのに、老人は平然としていた。
「驚かぬか。ご老人、あなたはやはりわたしと同類であるな」
夜風が強く吹いた。
謎の女は一旦老人から目を切って、風に
「魔女よ、あの剣を小僧に渡したのはおまえだな?」
どこからともなく、老人の声が降ってきた。
女は辺りを見回したが、老人の姿はどこにもない。
――念の入ったことだ――
彼女は老人の用心深さに感心すら抱いて、いった。
「渡したのはちんけな商人さ。わたしではない」
他愛のない冗談である。老人は黙っている。
まるで、
――くだらぬ冗談はよい――
と言わんばかりだった。
いや実際に彼女の言葉はくだらない。確かにソラに剣を『直接』手渡したのはロイデにいた武器商人である。が、その商人に『剣をチビに渡せ』といったのはほかでもない彼女である。
物言わぬ老人に、あきらめたように女が自ら口を開いた。
「かの者に姿を見られたくなかったのでな。仲介役を使った。お察しのとおり、剣を渡したのはわたしだ。あなたの弟子に」
『かの者』とはもちろんソラのことだろう。
老人はまだ黙っている。
――この女、どこまでわれらのことを知っているのか――
老人とソラの師弟関係を彼女は知っている。ほかに何を知られているのか。老人は警戒せざるをえない。
「あやつには『魔力』はない」
老人はいった。
『魔力』。その名のとおり、魔法を扱える能力のことである。
「ああ、ないな。しかし、あなたも気づいているだろう。奴のゆがんだ部分、それに魔剣が触れれば、剣自体が持つ魔力が増幅される。本来の力は引き出せずとも、並の人間ならば圧倒できような」
ソラの『ゆがんだ部分』。さきに書いた、老人が取り除こうとして失敗した『得体の知れぬ狂気』のことだ。
「その前に、魔力に呑み込まれ、破滅しかねない」
ほんのすこし、老人は声を荒げた。
そもそも、あの剣は折れており、現状誰も使えないということを彼は知らないのだが。
折れていても、有す魔力は変わらないため、老人も気づけなかったのだ。
「さあ、どうだろうな。あなたは、あの小僧の行く末を案じているが、わたしはむしろ楽しみだ。やつは大陸全土を引きずり込む。自らの望む世界に、だ。わたしの望みも必ずや叶えてくれるだろう」
こういうと、女は闇へと自分の姿を溶かした。
入れ替わるように、老人が闇から出てきた。そして月を見上げた。
――とにもかくにも、『時代』は動き出したか――
心の中で、そうつぶやくのが精一杯だった。
一方、ソラも、宿二階の一室で、老人と同じ月を、気の抜けた表情で見つめていた。彼の手には、水の入った木製のカップが握られている。いかにも安物である。
靴は部屋を入ってすぐのところに、脱ぎ捨てられ、荷物は武器も含めて、ぼろいソファーの上にほうり投げられている。
老人と魔女の会話を聞いて、ソラのだらしない姿を見た者がいれば、こう思うだろう。
――こんな男が、大陸をどうこうできるものか――
サトたちと合流するため、ソラは当初、夜通し駆ける腹づもりだった。しかし、考えをあらためて、ミクトレンとアタイの国境付近にある村で一泊することにした。普段のソラならば、この選択はありえなかったが、今回ばかりは事情が違った。
ソラは、エールイアを出て、すこし行ったところで、何者かが後方から追ってきていることに気がついた。試しにソラが脇道に入ると、奴も脇道に入る。ソラが止まると、奴も止まる。
――俺を追ってきているとみて、間違いなさそうだな――
敵の存在を確信したソラは、馬を蹴って、急加速。虚を衝かれて、止まってしまった追っ手を置き去りに、さっと脇の林へと飛び込んだ。
そして林の中を駆けた。敵の気配はしなかった。
――上手い具合にまけた――
とソラは思った。
ソラの性格からして、本来は『まく』という消極的行動より、『捕らえる・仕留める』、それが叶わずとも、せめて『追っ手が何者なのかを確かめる』という積極的行動を本当は採りたかった。そうしなかった理由は、彼が身ひとつではなかったことにあった。馬がいるのだ。
敵と交戦した場合、これを失うかもしれない。そして、サトたちに追いつくには、馬は必須である。失った場合の、時間的損失は計り知れない。
というわけで、大変不本意ではあるが、ソラは敵をまくという選択をするしかなかったのだ。
追っ手がいる以上、慌ててサトたちに合流しても、かえって彼らを危険に
だから、
――追手をまいたという完ぺきな確証をえてから、サトたちに合流しよう――
と考えた。
これまで、くどくどと書いたが、結局のところ、『サトたちの安全への配慮』がソラに、『宿で一泊する』という行動を選択させたということだ。
――しかし追っ手は何者だったのか。ただの野盗か。それとも、もっとたちの悪い何かか……?――
野盗ならば、問題ない。わざわざ一度逃がした敵に執着して、追ってくることはもうない。野盗とて、暇だから野盗をしているわけではないのだ。食い
ソラ個人に悪意を持つ人間ならば、今度は逆。こうしている今でも、
――もし、後者であるなら、安易にサトたちと合流できぬ――
しばらく月を眺めながら、姿の見えぬ追跡者の正体を想像していたソラであったが、間もなく、強烈な眠気に襲われ、ベッドに飛び込むことになる。
本人は気づいていなかったが、相当疲労があったのだろう。ロイデを命からがら脱出し、大慌てでエールイアに到着。時を置かずして、今度はエールイアから出発。かなりの強行軍であり、無理もないことだった。ぴょんと跳ねて、布団にくるまるさまは、いまだに彼の幼さを感じさせた。
夜がすっかり更けた。
少年の静かな吐息だけが支配していた部屋で、少々異質な音がした。
窓が開かれる音に相違なかった。隙間から、そっと影が部屋の中に滑り込んだ。
月の光に照らされて、侵入者の姿が明らかになった。
うら若い女だった。背が高い。ソラよりも高い。
衣装は赤を基調とした派手なもので、スカートは短く、そこから伸びた、すらっとした美しい
この侵入者はベッドのすぐ側までやってきた。ソラはよほど疲れているようで、布団にくるまって動かない。
深紅の瞳でそれを確認すると、女は、にやっと笑って、彼の布団に手をかけた。そうして、なんと勢いよくそれをひっぺがしたのだ。
けれども、少年の驚いた顔があるはずのベッドの上には、丸められたシーツのみがあるだけだった。
「なにっ」
焦る彼女の鼻先を、何かが横切り、ベッド真上の壁に突き刺さった。
目を凝らして、確かめると一本の矢であった。
「追っ手は誰だろうかと警戒していたら、おまえだったか」
ソラの声だ。ベッドの真向かいの椅子に座って、悠然としていた。
女はため息をつくと、呆れたようにいった。
「己が婚約者に対して、『おまえだったか』はないだろう、ソラ」
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