第二話 真理
――えらくぶしつけなご老人だな――
いくら年下とはいえ、初対面の人間に、あまりにも礼儀に欠けた声のかけかたをする人だ、と少々不快そうに、ソラは老人をみた。
かの人が身に着けているフードつきのローブは、よれよれのぶかぶかで、いかにもだらしない。背は高く、目は丸くおおきく、あごにはたっぷりとひげをたくわえている。一応、小剣を腰に装備している。
――浮浪者か隠者か。どちらにしろ、気難しそうな人だ――
「おまえ、えらく前かがみになって書を読みふけっておるようだが、死んでいるのか?」
ソラの、なにかいいたげな視線を全く気にも留めずに、彼の読む書物をのぞき込みながら、老人はいった。
――確かに、俺は今肩に力をいれて、読書をしていたわけだが、それが『死んでいる』とはどういうことか?――
まだソラには老人のいわんとするところが理解できていない。
「ほれ、おまえが今もたれておる、この枯れ木と、むこうの柳の木を見よ」
老人はもっていた
そのあと、今度はすこし離れたところにある柳の木を指した。
「むこうの柳の木は、いかにも
「そのとおりです」
ソラは教えを施すような老人の態度に、木にもたれかかるのをやめて、居住まいを正した。
「では、両者に強い風が吹いたならば、倒れるのは、どちらか?」
――なるほど『柳に風折れなし』か――
ソラにも老人の真意がつかめてきた。
「倒れるのは、まちがいなく枯れ木でしょう」
粛々と答える。
「では、あそこの普通の木と、この枯れ木は?」
「どちらも折れるかもしれませんが、先に折れて倒れるのは、間違いなくこの枯れ木でしょう」
「さよう。人も枯れ木に同じである。死したとき、硬直する。ゆえにわしは、がっつくように、書を読み、学問をしているつもりのおまえを、死んでいるといったのだ」
ソラは見ず知らずの老人の言に黙って耳を傾けていた。
「これは読書や学問にかぎった話ではない。常に肩肘を張って、堅く身構えて、物事にあたっておると、この枯れ木のごとく、本当に死ぬことになるぞ」
――反論のしようがない弁である。この人は凡人には思えない――
こう考えたソラは、いった。
「参りました、先生。願わくは、この無知な私を先生の弟子にお加えください」
だめもとで、弟子入りを頼んだのだ。ソラとて、礼儀はわきまえている。少なくとも親しい者以外には、自分のことを「私」と呼ぶ程度には。
彼は高名な士でもなければ、弟子を迎えるような人ではないかもしれない。そんな人物に、出会ってすぐ弟子入りを志願するソラも、老人に負けず劣らずの変わり者である。
――この人に習えば、うわべの知識ではなく、物事の
ソラはなぜかこう確信しつつあったのだ。
彼の突然の頼みに、いささかの迷いもみせずに、老人は、またしても抑揚のない声でいった。
「よかろう。こい」
――まさかとは思うが、この人は最初から俺を弟子にするつもりで、声をかけたのではあるまいな?――
あまりに間髪入れず、老人が弟子入りの許可を出したので、ソラは怪しんだ。
彼は老人のあとを追った。
道中、自分の師となった老人に名を尋ねたのだが、
「名が、師への尊敬に必要か?」
と一蹴されてしまった。
――名前も知らぬ人の弟子になるとは奇妙なものだ――
とソラは、自分の行動を心のなかで笑った。
老人に案内された学び舎は、屋根がなかった。壁もなかった。当たり前だ。エールイアの裏に存在する山の中だったのだから。
木々が途切れた開けた場所に、大きい切り株がポツンと、ひとつあった。太陽の光がキラキラと照らす、神々しい場所だった。切り株に師が座った。
すでに一人の若い男が、師の到着を待って、地べたに座っていた。
名をアレクといった。
ソラとちがって、とても背が高く、顔立ちも全体的によい。額は広く、口元はひきしまり、表情は温和である。彼の齢は十九歳。ソラのたったひとつ年上でしかないのに、ひどく大人びている。
彼も老人と同じように、だぼだぼのローブを着ている。老人は自分と同じ格好を強制するような人間でもないだろうから、単にアレクの師への尊敬の表れであろう。
――弟子は俺を含めて、二人だけか。ヤレウス先生のところとは大違いだ――
前の師ヤレウスのところには門下が五十幾人もいた。それを考えると二人は異常に少ない。実は老人の弟子は三人だったのだが、ソラが老人に師事した期間、三人目の弟子はとうとう姿をみせなかった。
「新弟子である」
老人は短くいって、アレクにソラを紹介した。
「アレクです。どうぞ、よろしく」
といって立ちあがり、彼は全く邪気のない笑顔で、握手を求める。
「私はソラと申します」
――彼も師になにか教えでも受けて、弟子になったのだろうか――
のちのち、ソラがアレクと親しくなってわかったことだが、この推測はあたっていたらしい。
釣りをしているアレクのもとに老人がソラのときと同じように礼を欠いた調子で、話しかけてきたという。
「おまえ、釣りが好きなのか?」
アレクは突然の質問に驚いたが、ソラとちがい、いやな顔ひとつみせず、答えた。
「いえ、好きではありません。ただ魚が食べたいから、釣りをしているのです」
老人は、感情があるのかないのか、わからない表情で、アレクが垂らした糸をしばしみつめる。そしていった。
「古来より、取るにたらぬ者はその『物』をほしがる。偉大な者は『志』をほしがるという。おまえには、なにか『志』はないのか? 」
「いえ……。ただ世のできごとに流されるまま……。おぼれぬようにしているのが精一杯ですね」
アレクは両親に先立たれて以降、たった一人で、酒場の店員や、領主の馬の世話などをして、日々の
志など、考えたことも考える余裕もなかったのだ。
「さようか。志は志のまま、夢は夢のまま。成し遂げられぬほうがよいとは、よく聞く。だが、そもそも志や夢を、持たないほうがよいという話は、わしは聞いたことがない。もし、志というものに興味があるのなら、ついてくるとよかろう」
「しかし……。月謝はいくらですか……?」
アレクは老人を引きとめるようにいった。
月謝、つまり指導費である。
「志は金では買えぬぞ」
老人は小さく歯をみせ、そういった。
――志か……――
月謝などいらぬといわれたアレクは、こうして仕事の合間に、老人に教えを請うことを決心したのだった。
さて、時は戻って、老人は巡りあわせた二人の弟子をじっと静かに観察する。二人があいさつと握手を終えて、老人のほうへとむき直って座るのを確認する。
ついに老人の講義が始まる――はずだった。
金属の響く音がした。音におどろいたか、近くの木々に止まっていた鳥が飛ぶ。
なんと老人が腰の小剣を抜いたのだ。
「一体なにを?」
思わず、ソラは問う。
――まさか師は、かような老いた姿で武術の指導でもなさるおつもりか――
老人は、アレクにも別の小剣をよこした。
ソラが剣をもらわなかったのは、すでに帯刀していたからである。
本来、師に教えを請うのに帯刀していくのは無礼極まりないのだが、そもそも師の講義をうける予定など本来はなかったので、致し方ない。
「剣を片手で持ち、体の前で平行に構えよ」
老人の命じるとおりに二人は剣を構える。
老人は、剣を構える二人のちょうど真ん中に立ち、小剣を両手に持って、二人の剣の先を力強く打った。
音を立てて、ソラの剣だけが地面に落ちた。アレクはなぜか踏ん張れたようだった。
「なにゆえ……」
自分だけ剣を落としてしまったことに困惑するソラ。そんな彼に老人は強い声でいった。
「枯れ木はなぜ、強風で倒れるのか! 教えをさらに応用せよ!」
ソラは老人の言葉でなぜ、自分の剣だけが落ちたのか察した。
――あっ、そういうことか――
常に硬直した枯れ木がたやすく風に倒れるのと同様に、力をずっと入れている物は、外からの衝撃に弱いのだ。ならば、最初は軽く構えて、剣と剣が当たる瞬間のみ、すべての力を入れればよい。
こう考えて、ソラはいった。
「今一度、お願いします」
「よかろう」
ソラはさきほどと同じように、剣を構えた。ただし、『手を平行に保つ』、『剣を握る』といふたつの事象に必要な分をのぞき、一切の力を抜いた。
老人が剣を振りあげ、ソラの剣と交錯する瞬間、ソラはすべての力を剣に伝えた。
今度は、剣が落ちなかった。
先に成功したアレクは、ソラの様子をみて、見下すどころか、感動しているようだった。どうやら、アレクがこの問題を出されたのは、これが初めてではなかったらしい。
「俺にはあの問題は一日仕事だった。おまえは頭がやわらかいな」
のち、アレクはソラを褒めたたえた。
素直さと親しみやすさがアレクの美点であった。
老人は正解を導きだしたソラにむかって目を細めて、いった。気難しい彼が、ソラに初めてみせた笑顔だった。
「世にはさまざまな物事が存在する。政治、軍事、武術。だが、それらの多くに共通する、一切不変の真理というのが少なくも存在する。今回のそれは『常に気を張って堅いままでいるものは、弱くなる』ということだ」
例えば、軍隊はずっと堅固であり続けると、時間と共にかえって弱くなるものなのだ。
「たとえ、その事象に関して、たくさんの知識がなくとも、真理をわきまえておれば、恐るるに足らない。惑うに足らない。むろん、知識がいらぬといいたいわけではない。体でたとえるのであれば、真理が骨で、知識が肉である。肉もある程度以上なければ、話にならぬ」
老人はそこで一端、言葉を切って、ソラとアレクの二人の少年をみてから、
「これから、ほかにいくつかある、骨となる真理をおまえたちに教えていく」
と締めくくった。
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