二十七/BATTLE OF MUSASHIKOSUGI
小澤はくたびれた背広の人物を引き倒し、馬乗りになって、爪で掻き、歯で噛みつきさえする。彼女の口からは白いつばきが飛び、哀れな五十過ぎの瘦せぎすの禿頭の男は血の泡を吹きながらもがいていた。
『まあ待て、なにも永久にあの女に近付くなと言っているんじゃあない。そうだな、五分、たった五分ほどでいいんだ。あの女が前科者になる程度の暴力を行使するまでの間、手をこまねいて見てくれていれば、それだけでいいんだ』
『どうしてこんなことを……あまりにも、惨い、一体何に対する復讐として、ここまでしなければならない?』
そういう武藤も想像がついていないではなかった。しかし、もしそうだとしたところで、代行者パルタイ・マリヤが為した暴力は並一通りのものではなかったし、その
マリヤは半身で剣を持ち上げ武藤をさして言った。鼓膜でなく頭蓋全体が震わされるような声だった。
『たしかにハザマミウは五体満足だ。全身どこにもこれといって器質的な問題を引きずっているわけじゃない、その点見ればあれはただのどこにでもいるような生娘の一に過ぎない。しかしだ、聞くところによれば、アリス、おまえも復讐を望んでその結果としてその《黒兎》の力を手に入れたんだろう? おまえの
『何の関係もない赤の他人を襲う理由にはならない。それこそマリヤ、たとえば、そうたとえばでも、あなたが拉致した生徒を相手に暴力を振るわせるとか、そういった仕方でなら、こんなことにはなっていないはずなのに』
『ハザマミウは自分と同じようにオザワユカの尊厳も否定したいのさ。自分よりも大きな規模でな。そのためにはオザワユカが罪を犯さなければならなかった……決して内輪で処理されない形で罪を犯さなければ、日本の司法は弱く、すぐ内々で治めてしまうから』
『それでも、明らかにこれは不均衡だ。同害報復でさえない』
『そう、同害報復でさえない! きっとそうだ、繰り返すがそれをこそハザマミウは望んだのだよ。現代の司法はおろか四千年前の法典でさえ禁止された事柄だ、まったくどうにもなりはしない。どうにもならないことをどうにかしようとするなら……手段を選んでいる
小澤は血の泡を浴びて顔を赤く染めていた。その下の肌が光り、顔は赤々と輝いた。白い毛を生やした猿のようにも見えた。夜の闇が深まりつつあった。白い光が強まっていた。
パルタイの剣は切っ先をつきつけてゆらゆらと揺れ、多少動いたところで、足を一歩前に出して突き出せばすぐにでもとらえられてしまう距離にあった。
《黒兎》の力に先立って武藤の身に降りかかった《呪い》は、彼女に危害を加えうるものであれば何であれ一歩手前でその運動を卻け、自由落下の衝撃すらも和らげて安全に着地させる。自らの魂を引き換えに武藤の生来の不具を消し去った少年が、彼女の命を全うさせるべく遺した置き土産だった。
《呪い》は超常の力に対しても依然有効である。しかしひとつ武藤も知らなかった特徴があった。パルタイの攻撃を正面から受け止めた場合、切っ先の運動が停止すると同時に、武藤の身体も中空に完全に縫い留められる。誇張でなく、両足が宙に浮いているときでさえ、運動がぴたりと止まるのである。
そこに隙ができるから問題というのではない。いくら隙を見せたところで究極的にはパルタイの刃が武藤を斬り裂くことはありえないのだから、それほど意味はない。問題は、まさに今ここにおいて、動きを封じられるということだった。その一瞬の間に拘束され手も足も出ないということになれば、小澤を止められる者はいなくなる。和久田はどうしているだろうか? しかしわからない以上は、今この場で、パルタイもろともあれを止めなければ……
決然、武藤は一歩後方に跳んだ。
つま先で後ろに跳び出すと、足をくまなく覆う貝のような靴は強烈な推進力を与え、武藤の体は背後へ軽々と舞う。迎撃する気でいたマリヤはやや反応が遅れた。前に突きをくりだして体が一度完全に伸びきる。
同じ手を何度もたやすく使わせる相手だと思ってはいけない。決めるならただ一度、一撃で小澤を操る赤い光、間美羽の桎梏を消し去る!
二十メートル長の《爪》を展開、水平にのびた、あまねく《超常》に遁れえぬ死を与える《爪》を構えて小澤をねらいすます。指先を少し落とせばその先端は即座に小澤の背筋に触れ、その瞬間彼女を縛る超常の力は溶けて消えるはずだった。しかし、前に伸びきったマリヤの肉体が、にわかにきわだっていっそう前に動いた。
皮膚がひび割れる。縦に大きく裂ける。すると中から出てきたのは、黒い、ところどころ鱗がきらきらと白く光る、全長にして五メートルは下らない大蛇である。二つの円盤のような目の間、額にあたる位置にひときわ明るく光る鋭い星があった。それが天に昇る龍のように、うねりながら、武藤めがけてとびかかる。片手を添えて位置を微調整していた武藤は、構えを解かず、まさにその最初の一撃で小澤を止めようとしたが、折悪しく彼女が大きく横に動いた。乱暴に振るわれた爪はあてが外れて石畳の地面にふれてかき消え、小澤は別の犠牲者にとびかかって押し倒し、蛇の体表が波打つ。ざわめきが広がり、小さな蛇が鱗の上を走る波から分裂した蛇の一端がトゥ・シューズのような足をとらえた。
蛇の濁流の根元はもう人型に戻っている。マリヤと武藤を繋ぐ蛇の綱ができあがっていた。足元まで届く爪を展開し、絡みつく蛇を狙う……その爪が届くより、マリヤの靴底が地面をつかむ方が早かった。蛇に変化している腕を大きく振り回し、必定その先の武藤は強い遠心力にあおられて血が頭部に偏るほどゆさぶられた。
体幹をとくべつ鍛錬しているでもない武藤に、こうして足を括って振り回されたときのための対処法はない。巨人種のうなじに攻撃を通すための「立体起動装置」を扱うには体幹の筋力が肝要とされるようであるが、高空をさえ舞う武藤の《黒兎》に筋力は必要でないらしかった。マリヤはハンマー投げのように景気よく武藤を回し続けると、バスターミナルの入口間際の車道目がけて放り投げる。
放物線を描いて、武藤はなす術なく車道へ投げ出される……正面にバスが迫っていた。ブレーキをいっぱいに踏んだが間に合わない。ランプを目前にして、武藤は、自らの視野に映る車体の運動がひとかたならず減速していることに気が付いた。その状況は滑稽だった。いわゆる走馬燈に類する現象らしい。しかし、その運動の遅延、減速は、武藤に次の一手を考える時間を与えた。
そのときマリヤはどこからともなくあの白剣を取り出し、宙を舞う武藤めがけてまっすぐ、その胴体の中央をねらって投げつけた。自らの失策に気付いたのである。
ブレーキもあえなく大型バスが武藤に、アリスに突っ込む。彼女も、またマリヤも、それでどうこうなるとは考えていなかった。南無三! 間に合わない。運転手はほとんど目を閉じて、それでも薄目を開けたまま、その無残な様子が見えるぎりぎりまで、顔をそむけた。しかし、彼が予想されたさまを目にすることはなかった。
頭からバスに衝突する寸前から、瞬き一つの後に、アリスは窓ガラスにぴたりと足をつけて、膝をふかぶかと曲げた姿勢で、キッと地上のマリヤを見据えていた。マリヤから見ればそれは、アリスの足裏がバスの窓ガラスに張り付いているように見えただろう。もちろんそれはほんの一瞬のことで、だから次のアクションへ移るのも速かった。
たわめられた足に力が籠もり、爆発する。《黒兎》の跳躍は反作用なしにただ推進力だけを与え、両者の間に紐を通したように直線状に進む白剣のぎりぎり真上を、その切っ先を嘲笑うように胸をかすめさせて跳んだアリスは爆発的な速度でマリヤに迫り、小澤を斬るためのものに伍する長大な《爪》を展開せしめた。
跳躍による推進ははるかに長いこと持続していた。その速度に爪の伸長する速度が加えられる。武藤の《黒兎》の力が持つ、これは秘蔵っ子だった……そしてわずかにひねりながら、まっすぐ腕を前に、彼女からすれば真上に突き出す。爪は二本がマリヤの顔にふかぶかと突き刺さり、ねじれてえぐり、振り下ろされて胴を三枚におろした。
マリヤの頭脳はそれより前に十全に駆動していた。彼女を他の超常のものと同等に扱っていて、それが失策であったということに、気付いてはいたのだ。彼女が纏う超常の鎧、《黒兎》は、あまりにパルタイのディング、ザイン、ケルペルに似ていたから、ほんの少しの間だけ、彼女が《インテリジェンス》・《ビオス》の一角によって仕立てられた衣服を着ていることを失念していたのである。そして今や三枚におろされた身体に、《生命への意志》の輝きは微塵たりとも伺えなかった。
ほぼ同時刻、同じく武蔵小杉、多摩川へ抜ける街道に面したタワーマンションの一室にて……家具は一つとしてなく、だだっぴろいひとつながりの空間の中に、四つの人影があった。
一つは横浜からテレポートしてきた小澤である。ガスマスクはぼろぼろと塵にまで崩れ、窒素7対酸素3混合気体の中に溶けていった。尻もちをついて着地した姿勢そのまま、前に突いた腕の、和久田につかまれたあたりを凝視して顔を落としている。
今一つは窓際で間を待っていた西門だった。椅子一つない部屋で立ったままその時を待っていた彼は突如として現れた三つの人影に円く目を剥いた。
三つめはパルタイ・マリヤだった。モヒカン・ヘアーの男は、こうして並ぶとどこか西門に似ているようにもみえた。彼はにこにこと笑いながら部屋の中央で黒い粘液の海に溺れている一人の男を見ていた。
その一人は、間の空間転移に乱入し、その結果何らかの不具合……何らかの不具合としか今は言えなかった。パルタイとその技術についての知識量は、パルタイにとってすら多くはないのだ……が生じ、臓器をひどく損傷していた。
《鎧》の形成に不備が生じ、粘性の低い液がとめどなくあふれるも、堅固な層をなさずに流れ落ちていく。目には金色の輝きがみられたが、ただでさえ薄汚れた色彩は勢いを失っている。逆海老反りに体が跳ねる。胸にたまった黒い液を吐き出したが、そこには破れた管からの血が多分に含まれている。和久田は、顔面に固着しない鎧と血を浴びながら、うちあげられた魚のようにまったく弱々しく痙攣していた。
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