二十六/Catcher an der Weiss

「小澤……どうしてまた、いや」

『無傷なわけがなかったんですけど、いよいよ起動しましたね。今はただ車道を走ってるだけでも、この先、小杉の駅でしょう。何が起きるか』

 とらえられた影は北西から南東の方向へ、街道をまっすぐ突き進んでいるのだろう。武藤の網にかかっていた時間はそう長くなかった。それなりの太さの街道が一本通っていて、そこを抜けている可能性は高いが、わからない。

『途中で進路を変える可能性も考えると、すぐにでも追跡しないと取り逃がす可能性がある』

「それで私に行ってこいと?」

 口ぶりとは反対に武藤は既に二人に背を向け玄関に向かっていた。

『同業者の道具を潰すのは、気が咎めるので。おねがいします』

 ドアノブを握って、武藤はその場でしばし動かなかった。念じるように目を閉じると共に、唇を動かす……

 最初に自殺を試みた時から、武藤の頭の中には、超常の一角ビオスの声が、ソクラテスのダイモニオンのように響くことがあった。勿、の声だ。禁止を命ずる超常の声、勿毀汝生、汝勿動、平素の生活から逸脱するな、と。それが今はない。

 ……本当にいいのか? 今からしようとしているのは、《ビオス》に由来する超常を白日衆目の許に曝すことではないのか? 自問しても声はやはりなかった。

 マスクを着けて答える。

「言われなくても」

 階段を駆け下りるまでもなく、跳躍三度で上った屋根伝いに一度は逸した影を追う。月の光に倍する街灯とヘッドライト、ブレーキランプ、その流れが明らかに乱れていた。武藤とほとんど変わらない速度で前進しているようだが、彼女は生身で、それも車道を、これほど速く進んでいるのだ。アスファルトを蹴る足にいっそう力を込めて高く跳び、混乱のあまり脇に逸れて停車している乗用車の屋根を蹴り、鈍足のバンを足先でかすめるようにして速度を加算、動かないレッカー車を助走台代わりに、兎の耳をはためかせ走ると、ついに小澤が視界に入ってきた。

 黄や赤、青の光が夜の暗がりに溶けて曖昧にぼやける中、その髪はひときわ強く明るい白色に輝いている。そう長くないはずだった、それが今は頭部が平素の二倍近くに見えるほど大きくなっている。それにどうにも人間とはどこかかけ離れた動きをしているように見えてならなかった。

 さらに接近して、異様なシルエットの全体が明らかになった。

 髪を千々にふりみだし、腕に脚を四方八方にくねらせながら、減速する自動車を軽々追い抜く速度をたもって街道をかけずっている。光は彼女の体表全面を覆っていた。丈の短い下履きはそのままに上は下着のみになっている。剥き出しの胴がよく光った。ひときわ明るいというのはその腹や背も併せた全体の光量だったのだ。閃光弾じみた白に交じってかさぶたのような濁った暗い赤色の光も見えた。血管のように全身に巻きついた赤い光が、丁度彼女を縛り引きずる鎖に見えた。

 いよいよ追いついたときには武蔵小杉の駅ビルはほとんど目の前だった。一足跳びに真上をとると展開した《爪》をまっすぐ振り下ろす。《爪》は人の身に触れても何も起こさずかききえてしまうが、《超常》相手なら鎧袖一触、有無を言わさずその命を奪う必殺の刃を具えていた。パルタイに体内から操られていた西門に触れたときは駄目だったが、今回のような体表に明らかにその《超常》の力があらわれているときなら……だが小澤は間一髪避けた。首を回して頭上を見つめる、その目が、赤い。濁った赤い目は血を流しているようにもみえ、強く見開かれていた。瞳の焦点がまったく見えない。ほとんど白目を剥いて、気の違ったようになっている? それで今のように動けるのか? 今、現に動けているとしても、この後一体どうなる?

 武藤が着地したときには、やはりもういくらか先に進んでいる。それを追って爪を振るうも、やはり間一髪かわされる。

 小澤は地栗鼠のようにもっぱら道路上を這いまわって回避を続けていた。大道路の交通はめちゃくちゃに乱れている。武藤の爪を反対車線に避けて目前に迫るトラックの脇をすりぬけ、四肢を余すところなく使いジグザグに進む。これは彼女本来の反射力なのだろうか、それとも……


 バスロータリーを兼ねた広場に出たところで小澤は足を止めた。帰宅の途にあってバスを待つ人影が、目だった光源もなしに光り輝いている半裸の女子に新奇と眼を向けている。彼女のアスファルトにふれていた指先には血がにじんでいた。それが低い姿勢をたもって手指をかぎ・・のようにし、赤い目は武藤を睨んで、出方をうかがっているように見えた。

 五メートルほど距離があったろうか。その小澤が一歩前に出る。それに応じて踏み出した武藤は、首筋にだしぬけの悪寒を覚え左斜め前に転がる。白く輝く剣を持った女が立っていて、膝を伸ばしたまま、横の斬り払いの残心を解いたところだった。武藤が避けなければ白い剣の切っ先はマリヤほどの背丈の大股の一歩を挟んでその首を斬り落としている、そういう距離にあって、刃渡りでもあった。

「少しぶり、アリス」

 声とともに輪郭が融け、光を吸い込む黒い装束があらわになる。目も髪も、胸元の飾り羽も煌々と輝いて、空の過半が暗い青を呈する薄闇の中ではむしろ白がよく目立った。

 片手で剣を構えて、しかし空いた方の腕を横薙ぎに振るうと、蛇腹折りのようにまっすぐ伸長・接近した腕が、やがて回転しながら武藤目がけて迫る。下から斬り払うとそれはマリヤに化けた小澤が用いていたあの蛇によく似ていた。すかさず突進してくる。また蛇を投げつける。斬り伏せるが、今度はマリヤの剣の切っ先が爪をとらえた。干戈の交叉にかかる甲高い音が響き、腕をはじかれる。右腕だった。肩口からわずかに背を向ける姿勢になった武藤の、その背めがけてマリヤは、手首で左から右へ薙いだ勢いそのままにステップを踏み正中線を軸に横回転、体重を乗せてもう一度横に斜めから振り下ろす。それを阻んだのは武藤の反射神経でも運動能力でもなく、彼女に課せられた《呪い》だった。剣の運動が完全に停止し、高い空気の震えとなって拡散する。

『まるで金属鎧プレートメイルのような音……堅牢だな、のろい・・・は』

 笑うマリヤを尻目に態勢を立て直す。一瞬とはいえ小澤から目を離してしまった。今どうしているか、見回した武藤の目に飛び込んできたのは一個のひときわ大きな光弾だった。そしてその光弾、小澤は、ひとところに留まって蠢いている。それが、雑踏の一人にとびかかって顔を殴りつけているとわかったのは、耳を聾する音声おんじょうが耳から抜けて周囲の音を、悲鳴を拾えるようになったがゆえのことでもあった。

 迷う暇などなかった。駆け出す、駆け出すのだが、一歩跳んだところで後ろから肩を掴まれてバランスを崩した武藤は半ば引き倒され振り返って着地した。

『待てよ、こちとら命がけの遊戯だ、少しくらい……あいつが実刑を食らう程度に暴れ終わるまで……付き合ってくれてもいいだろう?』

 マリヤはそういう間も滑るように移動する……顔にとびかかって殴打する小澤、凶暴な類人猿を思わせる挙動を前にして、武藤と彼女との間にするりと入り込んでいた。

『こんな、こんなことが、これが復讐の最後だとでも?!』

『然り、然り、然り! 本人の正気狂気如何に拘らず、数年は監獄に繋がれてもらおうじゃないか』

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